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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
三章

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幕間② ジークフリート・アルクレイヴ

 ジークフリートの婚約者にアデル・ローゼンベルクが選ばれたのは、十歳の頃だった。

 ローゼンベルク家は代々軍務卿を輩出してきた、有力貴族の一つである。


 今代のカルディア王国国王、テオドール・アルクレイヴは若くして病に伏せた。

 そのため、ジークフリートが父と顔を合わせる機会は少なかった。


 そして、ジークフリートの意思の及ばぬところで、後継者問題は激しさを増していった。


 それは、保守派である宰相派閥と、革新派である外務卿派閥による、代理戦争のようなものだった。

 宰相派閥は第一王子ジークフリートを推し、外務卿派閥は第二王子を推した。


 その中で、中立に近い立場だった軍務卿を宰相が口説き落とし、自派へ引き込んだ。

 その結果として、アデルがジークフリートの婚約者に選ばれたのだ。


 そこに、ジークフリート自身の意思はほとんど介在していなかった。


 だが、ジークフリートに不満はなかった。

 周囲が自分を王子としてではなく、政治の駒の一つとして見ていることも、勝手に駆け引きに使っていることも、薄々気づいていた。

 それでもジークフリートは、自分の器を知っていた。まだ幼い自分にできることは少ない。ならば今は受け入れるしかない――そう思っていた。


 だから、アデルに出会ったときも、ひとまずは素直に受け入れた。

 それに、アデルは美しい少女だった。幼いながら、どこか心の浮き立つものもあったのかもしれない。


 むしろ、最初は同情すらしていた。

 この少女もまた、自分と同じように、大人たちの都合で振り回されているのだろうと思ったからだ。


 だから、自分の手の届く限りで幸せにしてやりたいと――そのときは、本気でそう思っていた。


※※※


 ある日のことだった。

 定例の茶会が、ジークフリート主催で開かれていた。


 アデルはもちろん、有力貴族の子女たちも招かれている。

 それぞれが選んだ茶葉や菓子を持ち寄り、紅茶を楽しむための席だった。


 王家主催の茶会とはいえ、まだ子ども同士の集まりだ。

 笑い声も混じるし、会話もそこまで張りつめてはいない。


 だが、それでもジークフリートは気を抜かなかった。

 第一王子として見られている。そういう場であることは、幼いながらによく理解していた。


 テーブルの中央には銀のポットが置かれ、侍女が各人のカップへ紅茶を注いでいく。

 ジークフリートの前にも、淡い琥珀色の液体が満たされた。


「本日は、皆よく集まってくれた。学びの合間の息抜きとして、気楽に楽しんでほしい」


 いつも通りの挨拶だった。

 そう言うと、周囲の子女たちは一斉に礼を返す。


 そのとき、ジークフリートの視界の端で、アデルが小さく眉を寄せた。

 ほんの一瞬。見間違いかと思うほど、短い変化だった。


 ジークフリートが不思議に思うより早く、アデルが口を開く。


「お待ちください、殿下」


 場の空気が、すっと変わった。

 まだ誰もカップに口をつけていない。だが、ジークフリートの手はすでに取っ手へ伸びかけていた。


 ジークフリートは怪訝そうにアデルを見る。


「……どうした、アデル」


「その紅茶には、口をつけないでください」


 ざわ、と子どもたちの間に小さな波が走る。

 冗談にしては、アデルの顔が真剣すぎた。


「何を言っている?」


「匂いが違います」


 アデルはカップへ顔を寄せた。

 ジークフリートもつられて鼻を近づけたが、いつもの紅茶の香りにしか思えない。


「茶葉の香りに、別の臭いが混じっています」


 侍女の顔色が変わった。

 周囲の子女も、不安げに顔を見合わせる。


 ジークフリートは、一瞬、何を言われているのか理解できなかった。


「そんなはずは――」


 言いかけたところで、アデルが初めてジークフリートを見た。

 強い目だった。


「念のため、確認させるべきです。殿下に万が一があってはいけません」


 その言葉に、控えていた年長の侍従が慌てて前へ出た。

 カップはすぐに回収され、別室へ運ばれる。


 空気は凍りつき、誰も口を開かない。

 しばらくしてやってきた王宮付きの医師が、回収された紅茶を改める。


 そして告げた。


「……毒物です」


 短い言葉だった。

 その瞬間、場にいた全員が息を呑んだ。


 誰かが小さく悲鳴を上げる。

 侍女たちは青ざめ、膝をついて謝罪した。


 その騒ぎの中で、最初に上がった声は賞賛だった。


「まあ……アデル嬢、すごいわ」


 次々と向けられる視線。

 その中心にいるのは、ジークフリートではなかった。


「大事にならず、何よりでした」


 アデルは、たったそれだけ言う。

 誇る様子も、恩に着せる様子もない。


 なのに、ジークフリートの胸の内には奇妙な熱が広がっていた。

 助かった。そのはずだった。


 けれど同時に、ひどく惨めでもあった。


 アデルという少女は、守られるだけの存在ではない。

 その一言で、大人たちをも動かしてしまう。


 視線を上げれば、子女たちの目には尊敬と安堵が浮かんでいた。


「さすが、ローゼンベルクのお嬢様だな」


 誰かがそう言った。別の誰かが頷く。

 それは本来、婚約者を誇らしく思うべき言葉なのだろう。


 だが、ジークフリートにはそう思えなかった。


 アデルはジークフリートの変化に気づいたのか、静かに一礼した。


「差し出がましい真似をいたしました。どうか、お許しください」


 本当に、そう思っている顔だった。

 それが、なおさら腹立たしかった。


 ジークフリートは、そのとき初めてはっきりと思った。


 この少女といると、自分が惨めになる。


※※※


 後継者問題は、有力貴族であるローゼンベルク家が味方についたことで、大きく天秤が傾いた。

 ジークフリートが後継者となる流れは、ほとんど既定路線になった。


 その頃から、第二王子マクシミリアンとの仲は急速に悪くなっていった。


 元々は、仲の良い兄弟だった。

 年も近く、友人のような気安さがあった。

 後継者問題が起こってもしばらくは大人たちの問題だと思っていたし、兄弟の関係まで変わることはないと信じていた。


 ある日のことだ。

 マクシミリアンと王宮の廊下ですれ違ったときだった。


 肩がぶつかった。

 いや、ぶつけられたのだ。


「失礼、兄様。お怪我はありませんか?」


「……マクシミリアン、お前。最近、少しおかしいぞ」


 ジークフリートに怒りはなかった。

 心配のほうが先に立っていた。

 だが、それがかえってマクシミリアンの神経を逆撫でしたのかもしれない。


「全てを持っている兄様には、分からないでしょうね」


 マクシミリアンは、抑えた声で言った。


「あの人たちが、どんな目で僕を見るのか。持ち上げるだけ持ち上げて、使えないと分かれば、すぐに別のものへ乗り換える。……兄様は、そんな目で見られたことがないでしょう」


「大人たちのやることは気にするな。たとえ俺が王になっても、お前を冷遇したりはしない」


 マクシミリアンは、そこで薄く笑った。

 冷えた、見たことのない笑みだった。


「そうなりますかね。……兄様に王の器があるとは、僕には思えませんけど」


 ジークフリートは息を呑む。

 マクシミリアンはさらに続けた。


「いっそ、優秀な婚約者様に席を譲った方がよろしいのでは?」


 そう言い残して、マクシミリアンは去っていった。


 アデルと婚約したことで、ジークフリートの王への道は開かれた。

 だが同時に、まるで自分の足で立てなくなっていくような息苦しさも増していった。


 周囲は皆、アデルを褒める。

 頼もしいと、聡明だと、未来の王妃に相応しいと。


 それは本来、喜ぶべきことのはずだった。

 けれど、ジークフリートにはそう思えなかった。


 アデルが優れていればいるほど、自分の空虚さだけが浮き彫りになる気がした。


※※※


 ジークフリートの空虚さを埋めてくれたのが、レオノーラだった。


 去年のことだ。

 グランヴェール学園で、ジークフリート主催のパーティーが開かれた。

 それは、わざとアデルが出席できないタイミングで設けたものだった。


 その会場で、レオノーラが話しかけてきた。

 レオノーラはグレイソン伯爵家の令嬢で、何度か言葉を交わしたことはある。


 だが、それまでは特に印象に残る令嬢ではなかった。

 それがその日は妙に積極的で、ジークフリートが趣味の狩猟の話をすると、ころころと表情を変えて話を聞いてくれた。


「ああ、一度教えていただきたいですわ。やったことはありませんけれど、私にもできますかしら?」


「そう難しいことではない。機会があれば、今度教えよう」


 そのときは、その場限りの口約束のつもりだった。

 パーティーが終われば、それきりだろうと。


 だが、そうはならなかった。

 その後もレオノーラからの熱心な誘いが続いたのだ。


 ジークフリートは、一度だけレオノーラと狩猟に出かけることにした。


 それが、存外楽しかった。

 レオノーラは本当に狩猟に慣れていないのだろう。動きはかなり拙い。

 だが、ジークフリートが野鳥を狩ると、自分のことのように喜んでくれる。


「さすがは殿下。狩猟の腕も一流ですのね」


 レオノーラの褒め言葉が、ジークフリートの鬱屈した思いを癒やしてくれた。

 第一王子という立場上、賛辞など聞き飽きていたはずなのに、レオノーラのそれだけは、心からのもののように思えた。


 アデルは違う。アデルは、常に正しい。

 だからこそ、隣に立つと自分の未熟さが際立つ。


 だが、レオノーラは違った。

 彼女は自分を見上げ、頼り、嬉しそうに笑う。


 その視線の中では、自分は未熟な王子ではなく、守るべき相手を持つ立派な男でいられた。


 気づけば、レオノーラと会う回数は増えていった。

 逆に、後ろめたさもあってアデルと顔を合わせる機会は減っていく。


 そして、いつしかジークフリートにとって、レオノーラは欠かせない存在になっていた。


※※※


 だからだろうか。

 レオノーラが倒れたとき、ジークフリートは血の気が引いた。


 今度こそ守ると誓った相手が、毒に倒れたのだ。

 それは、ようやく掴みかけていた拠り所を足元から崩されるような出来事だった。


 話を聞いてみると、レオノーラはアデルから嫌がらせを受けているという。


 その話を聞いたとき、ジークフリートは、まさかと思った。

 アデルがそんなことをする姿は、どうしても想像できなかったからだ。


 だが、目の前にいるレオノーラは青ざめ、か細い声で息をしていた。

 その痛ましい姿を見ているうちに、ジークフリートの中で疑いは少しずつ形を変えていく。


「ですが、殿下……アデル様は、とても巧妙なのです」


 レオノーラはそう呟き、涙をこぼした。


「表立って分かるようなことはなさいません。ですから……きっと、証拠など出てこないでしょう」


 ジークフリートはレオノーラの涙を拭った。

 指先が、冷たい頬に触れる。


「安心しろ、レオノーラ。君のことは、僕が絶対に守る」


「ああ……ありがとうございます。ですが、どうやって……」


「証拠がないなら、作ればいい」


 自分でも驚くほど静かな声だった。


「そんな……」


 レオノーラは戸惑ったように目を伏せたあと、ためらいがちに口を開く。


「殿下。実は……アデル様付きの侍女の方と、少し交流があります。あの方も、以前からアデル様に不満を抱いているようでした」


 ジークフリートは目を細めた。


「なるほど……繋いでもらえるか?」


 レオノーラは小さく頷く。


 守るべきものを守るためだ。

 そう思えば、迷う理由はなかった。


 そのときのジークフリートには、もうそれ以外の道は見えていなかった。

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