二十二話
砦の回廊は薄暗く、壁に掛けられた松明が不規則に揺れていた。
コンラートとアイゼンハルト伯爵と別れ、アデルとディートリヒは気配を探りながら慎重に進む。
「気をつけろ。どこから襲ってくるか分からん」
ディートリヒが短く告げた。
アデルは頷き、息を潜める。
次の角を曲がった瞬間、死体がいた。
壁にもたれ、首を不自然に折ったまま立っている。
「……来る!」
ディートリヒが剣を振るう。
首が飛ぶ。だが、胴体は倒れない。
転がった頭が床を跳ねるより先に、別の死体の腕が這い寄り、足首へ掴みかかってきた。
「……っ、きりがない!」
アデルは歯を食いしばり、廊下の先へ駆けた。
ディートリヒが前へ出て、道を切り開くように斬り払う。
「ここだ。紅晶の保管庫はこの先だ!」
ディートリヒが扉を押し開け、袋から赤い石を取り出した。
小さな紅晶。掌に触れた瞬間、ひやりとした感触が走る。
「……お願い」
狐面の女がここにいなければ、すべて徒労に終わる。
アデルは息を吸い、瞼を閉じた。
感知魔術を慎重に組み上げる。
発動した瞬間、視界が白く滲み、思わず膝が崩れそうになった。
すかさず、ディートリヒが肩を支える。
「無理をするな」
「大丈夫……続けるわ」
この場に満ちる魔力を、ひとつひとつ拾い上げ、差異を見分けていく。
砦の中は人で溢れている。情報量が多すぎて、意識が引き裂かれそうだった。
ヴェルダ樹海で感知魔術を使ったときのことを思い出す。
狐面の女の体格。息遣い。動きの癖。魔力の質。
(あの感触……)
アデルが目を開ける。
世界がわずかに歪んで見えた。輪郭が二重に揺れる。
見覚えのある、冷たい感覚。
「……いたわ。北西の回廊。二つ下の階よ」
呟くと、ディートリヒが即座に頷いた。
「行くぞ。だが無理はするな」
ディートリヒが先行し、アデルも続いて駆け出した。
※※※
砦の外。
巨人は地面を踏み鳴らし、喉が裂けるような咆哮を上げた。
腕が振り下ろされる。
風圧だけで地面が抉れ、砕けた石が跳ねた。
リィは空中で身を捻り、ぎりぎりでかわす。
(でかいくせに、速い……!)
巨人の皮膚は厚く、筋肉が外側へ盛り上がって、まるで鎧のようだった。
拳を叩き込んでも、手応えが浅い。
さらには、宙に火の玉が生まれる。
砦へ向かわないよう、リィが受け止めるしかない。
リィは息を吸い、魔力を一気に拳へ集めた。
空を蹴り、巨人の顔面へ突っ込む。
「うりゃあああっ!」
拳は確かに当たった。
だが、巨人の首がぐらりと揺れただけで、倒れない。
次の瞬間、巨人の口が裂けるように歪み、腕が横薙ぎに振るわれた。
避けきれない。
鈍い衝撃が、リィの身体を空中で弾き飛ばした。
「っ……!」
防御魔術が大半を受け止めたとはいえ、息が詰まる。
そのまま地面に叩きつけられ、土と石が跳ねた。
巨人が間髪入れずに踏み込んでくる。
振り下ろされた足が地面を砕き、土煙が爆ぜた。
リィは転がるように逃れ、そのまま低く滑る。
追い打ちの火球が頭上をかすめ、熱風が髪を焦がしかけた。
(強い……)
大きいだけじゃない。速く、重く、しかも魔術まで使う。
巨人がまた腕を振るう。
リィは空へ逃げるが、巨人の掌はそこまで届いた。
指先が防御膜を掠め、耳障りな軋みが響く。
「うわっ……!」
魔力を込めてなんとか距離を取り、荒く息を吐いた。
巨人はゆっくりと首を回し、濁った赤い目でこちらを見上げている。
その視線に、ぞわりとしたものが走った。
※※※
砦内、最下層の回廊へ出た瞬間、空気が変わった。
生きた者の気配が、そこだけすっぽり抜け落ちている。
アデルは足を止め、壁際の陰を睨んだ。
何もいない。
だが、感知魔術はそこに何かがいると告げている。
「……いるわね」
声を落とした瞬間、空気が歪んだ。
闇が剥がれるように、狐面の女が姿を現す。
狐面の奥の目は冷たく、感情の色がない。
「……本当に厄介ね、あなた」
「敵の顔は忘れないようにしてるの」
女が一瞬だけ首を傾げた。
「アデル・ローゼンベルク。あの子はいない。あなたに勝ち目があるとでも?」
女が口元を覆うように笛を構える。
次の瞬間、廊下の端に倒れていた死体が立ち上がった。
ディートリヒが前に出て斬る。
倒れても、また立ち上がる。
「アデル! あの笛を狙え!」
「分かってる!」
アデルは紅晶を握りしめ、魔力を集中する。
(あれを止めれば――)
詠唱しかけた、その瞬間。
狐面の女の指先がわずかに動き、暗闇から死体が押し寄せてきた。
「っ……!」
「痛い目に遭ったからね。あなたは近づかせないわ」
アデルは氷礫を宙に浮かべ、死体を迎撃する。
だが、勢いは止まらない。
手をかざし、氷の剣を生む。
振るって距離を取る。踏み込ませない。
一度呑み込まれれば終わりだ。
剣と氷礫で押し返す。だが、どれだけ傷つけても、死人はすぐに起き上がる。
いつしかディートリヒと背中合わせになり、死体に囲まれていた。
「絶体絶命だな。何か策はあるか」
「前に一度、無茶な手で切り抜けたことはあるわ。……死にかけたけど」
「何をしているんだ、お前は……」
ディートリヒが呆れたように吐き捨てる。
死体の向こうで、狐面の女が薄く笑っていた。
※※※
巨人との攻防は、なおも続いていた。
巨人が咆哮し、拳を叩きつける。
リィは受けずに避ける。避け続ける。
だが、避けるだけでは勝てない。
意を決して踏み込み、脇腹へ拳を叩き込む。
鈍い手応え。だが浅い。
その直後、巨人の膝が跳ね上がり、リィの腹へ食い込んだ。
「ぐっ……!」
今度は声が漏れた。
身体がくの字に折れる。
巨人の追撃が来る。
掴まれる。
「しまっ――」
片足を握り込まれ、そのまま地面へ叩きつけられた。
視界が激しく揺れ、頭の奥で鐘が鳴る。
乱暴に振り回され、何度も何度も叩きつけられる。
防御魔術がなければ、とっくに身体が砕けていた。
巨人はそれで終わらなかった。
両手を振り上げる。火球が生まれる。
リィは咄嗟に両腕を交差した。
火球が爆ぜる。熱と衝撃が同時に叩きつけられた。
「……っ、あつ……!」
防御膜の向こうで炎が渦巻く。
熱がじわじわと内側に染み込み、初めて恐怖に近いものが胸を掠めた。
(このままじゃ、まずい……!)
リィは歯を食いしばり、無理やり身体を捻る。
巨人の手の内からすり抜けるように落下し、火の残滓を振り切って距離を取った。
胸が苦しい。腕も重い。
けれど、止まるわけにはいかない。
※※※
砦の下層で、アデルとディートリヒは必死に踏みとどまっていた。
押し寄せる死体を近づけさせない――ただそれだけで、限界が見え始めている。
そんな中でも、アデルの思考は止まらなかった。
どうやって、この状況をひっくり返す?
アデルは狐面の女へ向けて、声を張り上げた。
「ねえ、あなた。私が感知魔術を切っていない理由、分かる?」
わざと勝ち誇ったような笑みを作り、言葉を続ける。
「この階にいる死体は、もうこいつらだけ。そうでしょう?」
狐面の女が、一瞬だけ顔をしかめる。
「それがどうした。これだけいれば、お前たちなどすり潰せる」
「いいえ。私たちの仕事は、もう終わったのよ」
アデルは笑みを崩さず、言い切った。
「こいつらを足止めする仕事がね。あんたをここに縫い止めるための」
そして、わざとらしく狐面の女の背後へ視線を逸らす。
「今よ、ケイン! そいつの笛を割って!」
アデルが大声で叫ぶ。
狐面の女は反射で振り返り、身構えた。
だが、そこには誰もいない。
次の瞬間。
アデルは天井へ向けて、特大の氷の矢を連続で放った。
ズガン、と鈍い破裂音。
天井が割れ、石と土が崩れ落ちる。
死体も、狐面の女も、すべてが瓦礫に呑まれていく。
アデルは紅晶を握りしめ、自分とディートリヒを覆うように防御魔術を張った。
砂埃が舞い、息が詰まる。
やがて崩落が止むと、そこは瓦礫の山になっていた。
「無茶をするな」
ディートリヒが呆れた声を出す。
「心配しないで。上の階に人がいないのは分かってたから。……誰も巻き込んでないはずよ」
「そういう話ではなくてな……」
アデルは瓦礫をよじ登り、狐面の女がいた辺りへ向かった。
「兄様。瓦礫をどかすの、手伝って」
ディートリヒと二人で慎重に石を退ける。
中から現れたのは、虫の息の狐面の女だった。
アデルは笛を奪い取り、迷いなく叩き割る。
「殺したりしないわ。安心して。あなたには、いろいろ話してもらうから」
「残念だな……」
女の声は、ひどく掠れていた。
「……もう私の命は長くない。力を使いすぎた」
「力?」
「笛の力だ。代償がないわけがないだろう」
狐面の女の息が、目に見えて浅くなる。
目の光が、少しずつ薄れていく。
「……なんで、そんなものを使うの」
「理由など必要ない」
女は淡々と吐き捨てる。
「使えと命じられれば、使う。それが帝国のためだ」
「そんな……」
アデルの胸に、やるせなさが沈んだ。
けれど、目は逸らさない。
「……言い残したいことはある? あなた、名前は?」
狐面の女は、ほんの少しだけ口元を歪めた。――笑ったのかもしれない。
「本当の名前は、もう忘れた。上からは……ナハトと呼ばれていた」
「ナハト、ね」
アデルは静かに頷く。
「死体を弄ぶなんて、公爵家の名にかけて許さない。……せめて、ちゃんと弔わせてもらうわ」
「死んだ後など、どうでもいい」
ナハトは薄く笑い、目だけでアデルを見た。
「最後に見る顔がお前でよかった。……面白い女だ」
「それはどうも」
その言葉を最後に、ナハトは息を引き取った。
※※※
巨人が喉の奥で低く唸る。
「なんなんだ、お前は……。時間がねえんだ、俺には……!」
その声に、リィは違和感を覚えた。
さっきまで圧倒的だった力が、少しずつ萎んでいく。
最初はほとんど通らなかった拳が、今では確かに効いている。
逆に、相手の一撃は目に見えて重さを失っていた。
「……お前、縮んでないか?」
見上げるほどだった巨体が、ほんのわずかだが小さくなっている。
筋肉の盛り上がりも、妙にしぼんで見えた。
「帝国の野望のためだ……。我が魂は、帝国と共にあり……!」
巨人が大きく腕を振りかぶり、リィの身体を殴りつけた。
今度は踏みとどまれる。
防御魔術が衝撃を丸ごと受け止め、熱だけが頬を撫でていった。
「もうやめよう。お前じゃ、僕に勝てないぞ。……つらそうだし」
そのとき、巨人の両手がリィを覆い尽くした。
掌が閉じる。視界が暗くなる。
「このまま握りつぶしてやる……!」
「……もう無理だと思うぞ」
巨人が咆哮しながら力を込める。
だが、手の内側で、硬い膜が軋むだけだった。
「なあ。やめろって」
「……やめられないんだ。もう……」
巨人の声が、ひどく悲しげに落ちた。
両手が離れ、代わりに腕が持ち上がる。
火の玉が生まれる。
だが、それは最初に見たものより小さい。
光も揺らぎ、芯が定まっていなかった。
リィと巨人が、短い間だけ見つめ合った。
「……わかった」
リィは息を吸い込み、胸の奥へ魔力を沈める。
「僕も本気で相手してやる。かかってこい」
口の中で火が渦を巻き、熱が喉を焼くほど濃くなる。
巨人が火球を投げた。
それに応えるように、リィも火を吐いた。
火の渦と火の玉がぶつかり、夜が白く焼ける。
熱波が押し寄せ、空気が震えた。
一瞬、均衡したように見えた。
だが、リィが踏み込むと、火の渦が火球を呑み込み、そのまま巨人の身体ごと包み込んだ。
巨人は一歩よろめき、膝をつく。
それでも、まだ倒れない。
「っ、まだか……!」
リィは空を蹴った。
炎を裂いて飛び込み、そのまま顔面へ渾身の拳を叩き込む。
巨人の首が大きく傾ぐ。
「終われええっ!」
巨人はゆっくりと仰け反り、そのまま後ろへ倒れていった。
地面が震え、黒い煙が舞い上がる。
あとに残ったのは、黒く焦げた巨体と、焼けた匂いだけだった。
巨人は、もう動かなかった。
リィはその場で大きく息を吐いた。
腕は重く、胸の奥は焼けるようだった。
勝ったのに、すぐには動けなかった。
※※※
アデルは砦の最上階まで上がり、外を見渡した。
そこには、あれほど蠢いていた死体はもういない。
砦の外れには巨人が倒れ伏し、ぴくりとも動かなかった。
リィが勝ったのだ。
夜風が、煙と血の匂いをさらっていく。
遠くでは、帝国軍が列を崩しながら引き上げていくのが見えた。
アデルは手すりを握っていた指を、ゆっくりほどいた。
そのとき、空から影が落ちる。
リィがこちらへ向かって手を振りながら戻ってきた。
「リィ!」
アデルも思わず手を振り返す。
リィは砦の上に着地すると、少しふらつきながらも駆け寄ってきて、そのまま抱きついた。
「アデル! 大丈夫だったか?」
「ええ。大丈夫よ。……リィも無事でよかった」
アデルは抱き返し、いつものように頭を撫でた。
だが、その身体にはいつもより重い疲労が滲んでいる気がした。
「……無茶したでしょう」
「ちょっとだけだ」
強がるように言う声が、少し掠れていた。
それがかえって、アデルの胸を締めつけた。
※※※
その後、王国軍は反撃に出て、バルツ砦も奪還した。
帝国軍は国境線まで後退し、夜明け前には姿を消した。
王国軍の指揮はアイゼンハルト伯爵が執り、戦後処理を進めていく。
一方でコンラートは負傷しており、アデルたちとともに王都へ戻ることになった。
幸い怪我は致命傷ではない。
だが、痛みまでは誤魔化せず、コンラートは顔をしかめながら馬車へ乗り込んだ。
馬車の中にいるのは、アデル、リィ、コンラート、ディートリヒの四人だけ。
走り出した途端、車輪の音だけがやけに大きく響いた。
馬車の中は静まり返る。
積もる話が多すぎて、どこから口を開けばいいのか分からない。
沈黙を破ったのは、リィだった。
ちょいちょい、とコンラートの袖をつつく。
「……なんだ?」
「アデルのお父さんは、アデルのこと大好きなのか?」
リィはまっすぐな目で見上げた。
あまりにも真っ直ぐで、コンラートが一瞬だけ言葉を失う。
「……そうだな。大好きだ。娘だからな」
「そうなのか。よかったな、アデル」
「ええ、ありがとう」
アデルは思わず笑ってしまった。
その笑いにつられるように、ディートリヒも口元を緩める。
そしてコンラートも、苦笑に近い笑みをこぼした。
アデルは、その空気が崩れきる前に姿勢を正した。
「父上。……申し訳ございません」
深く頭を下げる。
「ジークフリート殿下との婚約は破棄されました。結果として、公爵家にご迷惑をおかけしました」
コンラートは、眉ひとつ動かさなかった。
代わりに、低い声で言う。
「それは、お前のせいではない」
短い言葉だった。
「俺こそ、娘の危機に駆けつけられなかった。……すまなかった」
そう言って、コンラートは頭を下げた。
「……っ」
「いえ。国の一大事でした。仕方のないことです。こちらこそ、気にしていません」
言いながら、胸の奥が熱くなる。
背筋は伸ばしているのに、声だけが少し揺れた。
コンラートは、ふっと息を吐いた。
「……ありがとう。時間はある。私がいない間、何があったのか教えてくれ。お前の友達のことも」
「はい」
アデルは一度だけ頷く。
そしてリィとの出会いから、言葉を選びながら、ゆっくり話し始めた。
馬車は王都へ向けて走り続ける。
勝って帰るはずの帰路に、なぜだか胸騒ぎだけが残っていた。




