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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
三章

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二十一話

 アデルは、ケインという若い小隊長に導かれ、砦の奥へ進んだ。

 石造りの通路には血と煤の匂いが染みつき、歩くたびに鎧の金具がかすかに鳴る。

 ここが本物の戦場なのだと、嫌でも思い知らされた。


 やがて扉が開き、簡易の作戦室が見えた。


 その中央に、コンラート・ローゼンベルクが立っていた。

 鎧の肩には土埃が積もり、目の下には濃い影が落ちている。

 それでも背筋はぴんと伸び、目の奥にはまだ消えない力があった。


 コンラートの視線がアデルに届いた瞬間、ほんのわずかに眉が動く。


 驚き――いや、それ以上に、信じがたいものを見たような顔だった。


 次の瞬間、ディートリヒが駆け寄ってきた。

 鎧を鳴らし、息を切らし、そのままアデルを強く抱きしめる。


「……本当に、アデルなのか」


 肩が震えている。

 泣いているのだと気づき、アデルの胸の奥が熱くなった。


「無事でよかった……本当に……」


「兄様……」


 呼んだ途端、気恥ずかしさが追いついてくる。

 けれど、今はそれでよかった。


 短いあいだ、再会の喜びが室内に落ちる。

 だが、次に響いた声が、その空気を引き締めた。


「……いつまで抱きついている」


 コンラートだった。

 声は硬く、すでに軍務卿のそれへ戻っている。


「ここは戦場だ。学生が来る場所ではない」


 ディートリヒが反射的に口を開きかける。


「父上、そんな言い方は――」


 だが、コンラートの視線がその先を封じた。

 アデルは一歩前へ出て、姿勢を正す。


「大丈夫です、兄様。父上の仰る通りです」


 そう言ってから、コンラートをまっすぐ見た。


「帝国の新薬について、解析が終わりました。解除薬を持ってきました。

 それを先に届けるために、私たちが先行してきたのです」


 コンラートの目が細くなる。


「……先行してきた、だと。どうしてまた」


 アデルは後ろに控えていたリィへ視線を送り、軽く手を引いて前へ出した。


「私の恩人です。ヴェルダ樹海で私を助けてくれました。

 彼女の飛行魔術で、解除薬をここまで運べました」


 リィはきょろきょろと周囲を見回している。

 戦場の匂いに眉を寄せてはいるが、怖がっている様子はなかった。


 コンラートは、その少女をじっと見つめた。


 そして次の瞬間――深く頭を下げた。


「……娘を救ってくれて、ありがとう」


 作戦室がざわついた。

 公爵家当主が、年若い少女に頭を下げる光景など、そう見られるものではない。


「そして解除薬も助かった。この恩は、必ず返す」


 リィはぽかんとしたあと、腕を組んだ。


「気にしなくていいぞ。アデルは友達だからな。助けるのは当たり前だ」


 その言い方が、あまりにもまっすぐで。


 コンラートはほんの一瞬だけ口元を緩めた。

 笑ったと言うには小さすぎるが、確かに表情は和らいでいた。


※※※


 再び空気が引き締まる。

 コンラートは作戦卓へ戻り、軍人の顔に戻った。


「解除薬を持ってきたのだな。量は?」


「注射器の形で、およそ五千本です。後続で追加も来ます」


「効果は?」


 アデルはケインへ視線を向けた。

 ケインが一歩進み出て答える。


「先ほど、北西門で確認しました。体格は元の人間の大きさに戻ります。

 ただ……かなり苦しむようで、薬が抜ける反動で気絶していました」


「十分だ」


 コンラートが即断する。

 敵が倒れるなら、それ以上の贅沢は言えない。


 だが、ケインは言いにくそうに続けた。


「ただ、問題がひとつあります。帝国兵の皮膚が硬化しています。

 針が通らない可能性があります。アデル様は……口から入れました」


「……そうね」


 アデルは短く息を吐いた。

 コンラートが地図から視線を上げる。


「霧状にして散布できるか?」


「……霧?」


「砦の上からばら撒けば、皮膚を貫く必要はない。吸い込ませればいい」


 アデルの目が開く。


「確かに……魔術で拡散できれば、広範囲を一度に」


「やるぞ」


 その一言で、室内の空気が切り替わった。

 誰も迷わない。すぐに動き出す。


 砦の上へ移動する。


 注射器から解除薬を抜き取り、ひとつの容器へ移す。

 魔術師が術式を組み上げる。

 容器の中で薬液が薄く揺れ、霧へ変わる準備が整っていった。


「――放て!」


 霧が広がった。

 白い膜のように戦場へ落ちていく。風に乗り、帝国兵の列を包み込んだ。


 効果は、すぐに現れた。


 怪物たちの隊列が乱れる。

 膨れ上がった筋肉が萎み、骨格が元へ戻り、ぶかぶかになった鎧がずり落ちる。

 喉から漏れるのは咆哮ではなく、人間の悲鳴だった。


 戦場の音が変わる。


 ばたばたと帝国兵が倒れていく。

 異形の身体は人間の形へ引き戻され、そのまま次々と地へ崩れ落ちた。


 王国兵たちの目に、信じられないものを見た色が浮かぶ。

 恐怖がほどけていくのが、目に見えるようだった。


 そして、帝国軍から鐘の音が鳴った。


 帝国側の隊列が、少しずつ後退していく。

 退却の合図だったのだろう。

 倒れた者たちを置き去りにしながら、魔術師や騎馬隊が撤退していく。


 戦場が、少しずつ人間の戦いへ戻っていった。


 コンラートは城壁の上から、その光景を見下ろした。

 握りしめた拳が、わずかに震えている。


 隣で、アデルが静かに息を吐いた。


「……間に合った」


 その声に、ディートリヒが肩を落とす。

 張りつめていた糸が、ようやく緩んだのだ。


 コンラートは振り返り、アデルを見た。

 言いたいことは山ほどあるはずだった。

 それでも、彼が口にしたのは短い一言だけだった。


「……よくやった」


 それだけで、アデルは胸がいっぱいになった。

 戦場の冷たい風の中で、家族の温度だけが確かだった。


※※※


 ナハトは砦の上から戦場を見下ろし、奥歯を噛んだ。


 帝国の新兵器――強化された歩兵たちが、解除薬を浴びて次々と倒れていく。


(アデル・ローゼンベルク……やはり厄介)


 到着があと少し遅ければ、内側から砦を崩し、ハルデン砦を落としていた。

 それが、ほんのわずかな差で覆された。


 もう出し惜しみしている場合ではない。


 ナハトは外套の奥から、細身の篠笛を取り出した。


 亡語の篠笛。


 獣哭の角笛を失った今、残る切り札はこれだけだ。

 ナハトは狐面の奥で息を吸い、唇を笛へ当てた。


 吹いた瞬間、体温が抜ける。

 呼吸が浅くなり、視界の端が暗くなる。


(……持っていかれる)


 生命力を代価にして、音なき音が戦場へ溶けていく。

 膝が折れかける。だが、口を離さない。


 戦場には、死が転がっている。

 潰れた王国兵。倒れた帝国兵。


 その死体が、ゆっくりと起き上がった。


 折れたはずの首が、ぎこりと戻る。

 目は白く濁り、息をしていないのに、足だけが前へ進む。


 次の瞬間――死体が、生きている兵へ噛みついた。


※※※


 帝国軍を率いるヴァルデック将軍は、信じがたい光景に眉をひそめた。


 先ほどまで勝利は目前だった。

 砦は崩れ、王国兵は疲弊し、強化歩兵が押し切る――そのはずだった。


(これは……なんだ)


 引き返してくる帝国兵。

 地面に転がる、強化兵だったもの。解除薬によって筋肉は萎み、今は気絶している。

 そして、息を吹き返した王国兵が、逆に攻め返してきている。


 勝っていた盤面が、ひっくり返っていた。


 だが、そのとき、さらに状況が変わった。

 戦場の死体が動き出し、王国兵に襲いかかったのだ。


「……何だと」


 ヴァルデックは一瞬で理解する。

 ノイマン特務官の言っていた切り札が発動したのだ。


(こちらも使うなら、今しかない)


 将軍は歯を食いしばり、背後へ声を飛ばす。


「マティアスはいるか」


「はっ。ここに」


 副官が駆け寄る。

 ヴァルデックは懐から、透明な薬瓶を取り出した。中身は黒い。光を吸うような色だった。


 副官が訝しむ。


「それは……新薬ですか?」


「違う。歩兵どもに使っているものとは別物だ。これ一本しかない」


「……どういうことでしょう?」


 ヴァルデックは淡々と答えた。


「これを使えば、一時間もすれば死ぬ」


 副官の瞳が揺れる。


「だが効果は絶大だ。竜に匹敵する力を得る」


「竜……」


「この戦況だ。帝国の野望のためにも、負けは許されん。……どうするべきか分かるな?」


 沈黙。


 副官は一度目を閉じ、開いたときには殉教者の目になっていた。


「……はっ。私の魂は帝国と共にあります。帝国のために、使わせてください」


 マティアスは薬瓶を受け取り、躊躇なく飲み込んだ。


※※※


 砦の上。

 アデルたちは、帝国軍が引き返していく様子を見下ろしていた。


 勝ったはずだった。


 だが、次の瞬間。

 戦場の死体が、起き上がった。


 王国兵だった死体が、王国兵へ噛みつく。

 悲鳴が重なり、戦場が一瞬で地獄に変わる。


「どうなっている……まだ何か仕込んでいたのか」


 アイゼンハルト伯爵が唸る。


「違う。王国兵の死体も動いている。薬ではない」


 コンラートが即答した。


「魔術……でしょうか?」


 アデルの問いに、コンラートが目を細める。


「いや……似た話を聞いたことがある。死体を動かす魔道具だ。帝国が持っていたはずだ」


 魔道具。

 その言葉で、アデルの脳裏に狐面の女がよぎった。


 アデルは一歩踏み出す。


「父上。紅晶はありませんか。感知魔術を使います」


「感知魔術? この人数では意味が薄い。人が多すぎる」


「いえ……姿形を覚えている者がいます。同一の気配なら拾えるはずです」


 コンラートは一瞬だけ迷い、頷いた。


「分かった。ディートリヒ、アデルを紅晶のところへ――」


 そのとき。

 階下が、にわかに騒がしくなった。


 若い兵が駆け上がってきて叫ぶ。


「閣下、至急退避を! 砦内の死体までもが動き出しました!」


 言い終える前に、その兵の背後から死体の群れが雪崩れ込んだ。

 階段を埋め尽くす、死体の波。


 そして、その位置が悪かった。

 階段に最も近い位置にいたのは、アデルだった。


 王国兵の死体が剣を振り上げる。

 アデルの身体が凍りつく。


(間に合わない)


 目を閉じかけた、その瞬間。


 誰かが飛び出した。


 嫌な音。肉の裂ける音。

 温かいものが飛び散る。


 アデルは、生きていた。


 目を開けると、コンラートが胸元を押さえて立っていた。

 刃が腹を裂き、血が指の間から滴り落ちる。


「……父上……っ!」


 次の瞬間、ディートリヒが死体を切り伏せる。

 だが、死体は倒れても、なお起き上がろうとする。


 アデルはコンラートを支えた。

 身体が重い。血の匂いが濃かった。


「なんで……かばったりなんて……!」


 コンラートは、苦しそうに笑った。


「咄嗟に動いただけだ。……だが、それでいい」


 力強い目が、まっすぐアデルを捉える。


「アデル。ディートリヒと術者を探せ」


「でも……!」


「安心しろ。……俺は、こんなところで死ぬつもりはない」


 そのとき、砦の上に黒い影が落ちた。


 リィだった。


「邪魔だ!!」


 リィの蹴りが死体の群れを吹き飛ばす。

 起き上がる前に次々と叩き潰し、無理やり道をこじ開ける。


「アデル、平気か!」


「私は平気。父上が……!」


 リィが死体を弾き飛ばしながら道を作る。

 アイゼンハルト伯爵が、すかさずコンラートを背負い上げた。


「逃げるぞ! 相手は死体だ、切りがない!」


 ディートリヒが叫ぶ。

 確かに、リィがどれだけ倒しても、死体はまた起き上がってくる。


 そのとき、外から爆音が響いた。


 砦が震える。

 空気が裂ける。


 次に現れたのは、もはや人間とは呼べないものだった。


 巨人――砦の上まで手が届きそうなほどの大きさ。

 人というより、膨れ上がった肉塊の怪物に近い。


 皮膚は裂け、筋肉は鎧のように盛り上がり、目は赤く濁っている。

 その異形が、ゆっくりと手を掲げる。


 次の瞬間、宙に巨大な火の塊が生まれた。


 砦を覆い、夜空を赤く染める、太陽のような火球だった。


「……大きすぎる」


 誰かが呟いた。


 火球が落ちてくる。

 あれを受ければ、砦ごと焼かれる。


 次の瞬間、リィが砦から跳んだ。


 空へ舞い上がり、両手を広げる。

 真正面から、火球を受け止める構えだった。


 火球が激突する。


 衝撃。熱風。

 だが、砦は崩れなかった。


「アデル!!」


 空から、リィの声が落ちてくる。


「僕があいつを止める! アデルは大丈夫か!」


「大丈夫よ! お願い!」


 リィは火球の残熱を裂くように飛び、巨人へ向かっていく。

 その背中は小さいのに、やけに頼もしかった。


 アデルはディートリヒに向かって叫ぶ。


「兄様! 紅晶のところへ――!」


「わかった……お前の友人は、すごいやつだな」


 アデルは一瞬だけ、空のリィを見上げる。


「ええ……すごいのよ、リィは」


 階段からは、まだ死体が這い上がってくる。

 振り返ると、アデルは歯を食いしばって走り出した。

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