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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
三章

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二十話

 ナハトはハルデン砦の陰に身を寄せ、認識阻害の術式を薄く張った。

 目に映っているのに、ナハトを認識できなくなる。


 門をくぐっても、誰もこちらを見ない。

 見ているはずなのに、すぐに視線は外れる。


 砦の兵は疲弊していた。


(……いい。よく削れている)


 これなら、少し押せば崩れる。

 崩れたところへ帝国の強化歩兵を流し込めばいい。


 ナハトは影に潜んだまま、砦の通路を滑るように歩いた。


 まだ、亡語の篠笛の力は必要ない。

 最も効く瞬間は、別にある。


 ナハトは目を細め、砦の奥――指揮所の方角を見た。


 そして、アデルのことを思い出す。

 火傷の痕をなぞる。今でも時折、じくじくと痛む。


 もはや勝敗は決しているようにも見える。

 だが、ナハトはアデルという少女のしぶとさを知っている。

 そして、アデルの隣にはリィという、竜に育てられた少女がいる。


 まだ、油断はできない。

 必要な時が来るまで、ナハトは陰に沈む。


 亡語の篠笛を、そっと指で撫でた。

 竹の節が、まるで笑うように冷えた。


※※※


 コンラートたちはバルツ砦を捨て、ハルデン砦へ撤退した。


 ただ逃げるわけにはいかない。

 時間を稼ぐ必要がある。


 ハルデン砦までの道中、コンラート軍は目に見えて消耗していった。


 帝国軍の歩兵は不気味で、そして強力だった。

 とはいえ、あの膨れ上がった兵たちも、さすがに際限なく動き続けるわけではない。


 夜、彼らが足を止める。

 そこで王国側は魔術による奇襲を仕掛け、反応が鈍い間に削る。

 帝国が前へ出れば引き、引けば迂回してまた奇襲を仕掛ける。


 地の利は王国にある。ここは王国領だ。森の抜け道も、王国側の方がよく知っている。

 できる限り相手を撹乱し、進軍を遅らせる。正面からの衝突は――避けられる限り避けた。


 それでも、帝国の歩兵は恐ろしかった。

 魔術も通りづらく、多少傷を負わせた程度では止まらない。


 撤退する兵が一人、腕を掴まれた。

 悲鳴が上がる間もなく、身体が宙を舞う。


 コンラートは歯を食いしばり、命令の声を枯らした。


「散開して距離を取れ! 足を止めるな! 負傷者は下がれ!」


 馬はもう疲れ切り、蹄が割れて倒れる。

 兵たちも限界に近かった。まともな休息は取れず、夜すら眠れない。


 脅威は、強化された帝国歩兵だけではない。


 夜襲をかけても、帝国魔術師の薄い防壁に弾かれる。

 魔術師に守られながら、帝国兵が走った。


 あの巨体が、獣のような速度で迫る。

 王国兵は逃げきれず、腕を掴まれ、地面に叩きつけられた。


 そうして、ハルデン砦へ辿り着いた頃には、王都軍は目に見えて数を減らしていた。


 砦の前には、すでにアイゼンハルト伯爵が到着していた。

 城門の補強、堀の泥さらい。伯爵領兵が黙々と作業を進めている。


 コンラートが門をくぐった瞬間、ようやく肺に空気が入った気がした。

 だが、まだ安心はできない。


 その後は、しばらく膠着が続いた。

 帝国軍は砦の正面に陣を敷いている。


 会議室。蝋燭の火が揺れ、皆の影が壁で歪んだ。

 コンラートたちは、アイゼンハルト伯爵と防衛について話し合う。


「ハルデン砦が破られれば、伯爵領の領民に危機が及びます」


 アイゼンハルト伯爵が低く言った。

 その声には、領主としての責任が重く沈んでいる。


「ああ。ここで止めねばならぬ」


 コンラートは頷く。


「時間は稼いだ。……王都からの報告はまだか?」


「まだ来ておりません」


 ディートリヒが首を振った。机の端を握る指に力が入っている。


 コンラートは一度だけ目を閉じる。


「持久戦だ。耐えるしかない」


 声を絞るように続ける。


「身体強化薬の効果も、永遠にはもたんだろう。

 いずれ綻びは出る。その時まで持ちこたえろ。決して諦める」


 重い沈黙が落ちる。

 それでも、誰も目を逸らさなかった。

 頷きが、ひとつ、ふたつと連なっていく。


※※※


 ハルデン砦の堅牢な守りが崩されたのは、外側からではなく、内側からだった。


「コンラート様! 北西門の守衛が――殺されています!」


 伝令の声が裏返っている。

 戦場の報告でこの声色は、嫌な予感しかしない。


「……どういうことだ。門は破られていないはずだろう」


「はい。城壁も門も、外側からの破壊は確認されていません。ですが――」


 伝令は唾を飲み込み、言葉を続ける。


「北西門の内側で、すでに数名が切り刻まれております。門が……内側から動かされた痕跡が」


 コンラートの背筋を冷たいものが走った。

 帝国軍が強いのは分かっている。

 だが、内側から崩されれば簡単に砦は瓦解する。


(潜り込まれたか……)


 考える暇はない。


「北西門が崩されかかっております! 至急、応援を!」


「分かった。すぐ向かわせろ」


 コンラートは即座に指示を飛ばす。


「全体に通達。個別行動を禁ず。必ず小隊単位で動け。

 砦内に帝国の手の者がいる可能性が高い」


 砦の空気が、目に見えないほど張りつめた。


※※※


 王都兵の小隊長ケインは、部下を引き連れて北西門へ走った。


 辿り着いた瞬間、足が止まる。


 門の内側に、伯爵領兵が倒れていた。

 無残に切り裂かれ、血が床の溝を伝って黒い筋になっている。


 外からは、金属がぶつかる音、叫び声、太い獣じみた咆哮が聞こえる。

 扉の向こうの戦場が、ここまで匂ってきた。


「……ちくしょう。門が開いてるぞ」


 誰かが震えた声で言った。


「外では伯爵領兵が時間を稼いでくれてる。閉じろ! なだれ込まれたら終わりだ!」


 ケインの部下が門の機構へ飛びつく。

 外の兵を見捨てる判断だ。

 だが、ここで砦を失えば、伯爵領だけでは済まない。王都まで火が及ぶ。


 門が、ぎぎ、と動き始めた。


 閉じ切れる。そう思った、その瞬間。


 門の隙間から、巨大な手がにゅっと差し込まれた。


 手のひらは、人間の顔より大きい。

 指の節が異様に太く、皮膚が硬い。爪の先が黒ずんでいる。


 その手が、門に張りついていた部下の頭をがしりと掴んだ。


「――っ!」


 嫌な音がした。

 果物を握り潰すような、鈍く湿った音。


 指の隙間から血が垂れ、床へ落ちる。

 頭の形が、もう頭ではなくなっていた。


 門が、逆に押し返される。

 内側から閉じようとした門が、外側からこじ開けられた。


 現れたのは、化け物だった。


 膨れ上がった筋肉が鎧のように盛り上がり、肩幅だけで人ひとり分。

 背丈は人の倍近い。

 瞳はどこか濁っていて、中身が空っぽのまま動いているように見えた。


 外には、まだ戦っている伯爵領兵が見える。

 一人、取りこぼしたのだろう。


 ケインは剣を抜いた。


「相手は一人だ! ケイン隊、応戦する!

 隙を見て門だけでも閉めろ!」


 声を張る。


 走り込み、斬る。

 刃が当たる。だが、手応えがない。


 まるで鋼鉄を叩いている。

 皮膚の下に、別の鎧があるみたいだ。


(喉か……目か)


 だが、近づけば掴まれた瞬間に終わる。


 部下たちと連携して、斬っては離れる。

 それでも、たった一撃でも掠れば、骨ごと持っていかれる。


 一人、また一人。

 あっさりと壊される。


 おもちゃを乱暴に扱うみたいに、人が折れ、捻じれ、動かなくなる。


 いつしか、ケインはひとりになっていた。


 息が荒い。肺が痛い。

 剣を握る指が震え、汗が柄を滑らせる。


 帝国兵が腕を振るう。

 避けたはずだった。


 風圧のような衝撃が身体を叩き、ケインは壁へ叩きつけられた。

 肺の空気が一気に抜ける。


 床に転がるケインに、帝国兵が近づいてくる。

 無機質な目。殺すことに感情がない目。


(終わりだ……)


 ここが破られれば、帝国兵は流れ込む。

 ハルデン砦は落ちる。

 王国軍は敗走し、伯爵領は蹂躙される。


 ケインは震える手で剣を拾った。

 逃げるわけにはいかない。

 だが、立ち上がる力が残っていない。


 そのときだった。


 上から、影が落ちた。


 少女が降ってきた。

 いや、落ちたのではない。狙い澄ましたように降り立った。


 月明かりが、金髪を銀色に縁取る。

 血と煤の匂いの中で、その姿だけが異物のように鮮やかだった。


(……誰だ)


 美しい、と一瞬思った。

 次の瞬間、その目がこちらを見た。


 冷たいのに、芯がある。


「王都からの先遣隊です」


 少女は淡々と言い、ケインへ手を差し伸べた。


「身体強化薬の解析が終わりました」


 ケインの喉が鳴る。

 聞き間違いではない。


 少女はケインを引き起こすと、次に帝国兵へ向き直った。

 その周囲に、氷の矢がふわりと浮かぶ。


 次の瞬間、矢が飛ぶ。

 だが弾けた。氷が砕け散るだけで、帝国兵は動じない。


 少女は眉ひとつ動かさない。


「……そっちは囮」


 少女の前に、細い注射針が浮かんだ。

 透明な液体が微かに光る。


 氷矢の影に隠れるように、針が滑り、帝国兵の口へ吸い込まれる。


 次の瞬間。


 帝国兵が喉を掻き、うめき声を上げた。

 膨れ上がった筋肉が、逆回転するように萎んでいく。

 肩が落ち、背丈が縮み、鎧がぶかぶかになる。


 やがて泡を吹いて崩れ落ちた。

 人間の形に戻りながら、痙攣して動けない。


「……効いた。よかった」


 少女が、ほんの少しだけ息を吐いた。

 その瞬間、ようやくケインは思い出す。


(……アデル・ローゼンベルク)


 軍務卿コンラートの娘である。

 一度だけ王宮で姿を見たことがあった。


 その背後で、ズシン、と地面が鳴った。


 門の内側に、大きな荷台が降ろされる。

 そして、その荷台を片手で持つ黒髪の少女がいた。


 あまりに自然に、重さを無視している。


「アデル、大丈夫だったか?」


「ええ。問題ないわ」


 アデルはすぐに視線を外へ投げた。


「それより、外の兵を助けられる? まだ戦ってるの」


 黒髪の少女が、にっと笑った。


「大丈夫だ。任せとけ」


 止める間もなく、少女は門の外へ跳んだ。

 次の瞬間、外で地面が割れるような音がした。


 どん、どん、と連続する衝撃。

 悲鳴が途切れ、代わりに何かが倒れる音だけが響く。


 しばらくして戻ってきた少女の背後には、呆然とした伯爵領兵たちがいた。

 何を見たのか分からない顔をしている。


 少女は平然と言った。


「ほら。連れてきた」


 ケインは、喉が乾いて声が出なかった。

 絶体絶命のはずだった戦場に、突然救いが降ってきた。

 まるで英雄譚のようではないか。


 アデルが静かに言う。


「門を閉めましょう。父……コンラートに会わせてください」


 その声は小さい。

 だが、不思議と砦の空気が持ち直していくのが分かった。


 生き残った者たちの目に、ようやく火が灯り始めた。

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