十九話
狐面の女――ナハトは、戦場へ向かっていた。
ノイマンの命令によるものだ。
あの男は、いつも穏やかな声で命じる。
だが、その本質は冷酷そのものだった。
『二度目の失敗はないぞ、ナハト』
優しげに見えるのは、表面だけだ。
無能と判断した部下を切り捨てることに、ためらいはない。
ヴェルダ樹海で任務を失敗してなお生かされているのは、ナハトが優れた魔術師であること。
そして、予想外の因子――黒竜に育てられた少女が現れたこと。
その二つが重なったからだろう。
『ハルデン砦に入り込み、帝国軍を援護しろ』
そうしてノイマンから渡されたのが、『亡語の篠笛』だった。
獣哭の角笛は、アデルに砕かれた。
あれは魔獣を操るための宝具で、力は強いが扱いづらい。
だが、亡語の篠笛はそれ以上に厄介だった。
こと戦場では、恐るべき力を発揮する。
細身の竹。黒ずんだ節。手に取っただけで、指先の熱が奪われていく。
魔力だけではない。生命力まで吸い上げるのは、獣哭の角笛と同じだ。
(……嫌な道具だ)
獣哭の角笛の力が「魔獣の支配」なら、亡語の篠笛の力は「死者の支配」。
そして、その代償として、術者の内側も少しずつ空になっていく。
ナハトはそれを知っていた。
知っていて、命令に従う。
※※※
アデルは学園へ戻ると、まっすぐカナリアの研究室へ向かった。
いつも通り、苦いコーヒーが出てくる。
カナリアは雑に髪を束ねていた。少し崩れているのに、本人はまるで気にしていない。
アデルの話を聞くあいだも、コーヒーを啜りながら落ち着き払っていた。
「アデル。君は本当に事件に好かれているね。……一度、教会でお祓いでもしてもらったらどうだ」
冗談めかしてそう言ったあと、カナリアは顎に指を当て、少しだけ考え込む。
「協力はするが、魔法薬は私の専門外だ。ヨハン教諭に相談した方がいい」
アデルは首を傾げた。
名前は聞いたことがあるが、直接話した記憶はない。
「大丈夫だ。信頼できる御仁だよ。頼めば協力もしてくれる」
カナリアはコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「急いでいるんだろう。今の時間なら、薬用植物園にいるはずだ。行こう」
アデルは頷いた。
※※※
学園の薬用植物園には、温室がいくつも並んでいた。
外は冷え込んでいたが、温室の中は温度が保たれ、土と葉の匂いが温かい。
カナリアの予想通り、ヨハンは温室の奥にいた。
腰の曲がった老教師で、丸眼鏡をかけ、穏やかな顔で土をいじっている。
「ヨハン教諭。少し時間をいただけるか」
「あれっ? カナリアちゃん。どうしたんだい、こんなところまで」
「ちゃん付けはやめてほしいのだが」
カナリアが釘を刺しても、ヨハンはほほほと笑って受け流した。
そして、アデルへ視線を移す。澄んだ、優しい目だった。
「あれっ……カナリアちゃんのお弟子さんかな?」
「まあ、遠からず、だがね。私の研究室の学生だ。アデルという」
「アデルちゃんね。よろしく」
ヨハンが手を差し出す。
アデルも握手を返した。土を触っていたせいか少しざらついていたが、温かい手だった。
「それで、何の用かな?」
「帝国の魔法薬について調べてほしい。身体強化薬らしい。今、前線で使われている。急ぎだ」
カナリアの声音が、そこで明確に硬くなる。
「それは大変だねぇ。じゃあ、場所を変えよう。私の研究室へおいで」
ヨハンは朗らかに笑い、ゆっくり歩き出した。
アデルたちはその後ろについていく。
※※※
ヨハンの研究室も植物だらけだった。棚にも机にも植木鉢が並んでいる。
勧められ、アデルは椅子に腰を下ろした。
アデルは注射器をヨハンへ差し出す。
ヨハンはそれを受け取ると、実験机の上にそっと置いた。
「さて……身体強化薬といっても、必ずしも魔法薬とは限らない。植物や動物由来の薬でも、筋力は上がる。
じゃが――魔法薬が魔法薬たる所以は、何だと思う?」
授業をするように、穏やかに問いかけてくる。
「……魔力が込められているかどうか、でしょうか」
「正解じゃ。アデルちゃんは優秀だな」
ヨハンは満足げに頷いた。
「魔獣は死骸にすら魔力を残す。植物にも魔力を溜める種がある。
それらを材料にして作るのが、魔法薬じゃ」
ヨハンは棚から小瓶を取り出した。
「これは魔力検査薬じゃ。まず、この薬が魔法薬かどうかを確かめよう」
薄いガラス板の上に、注射器から薬液を数滴落とす。薄赤い液だ。
そこへ検査薬を垂らすと、色がゆっくりと変わり、深い青になった。
「ふむ……魔力密度が高い。魔法薬で間違いない」
「……なるほど。では、次はどうすれば?」
アデルが尋ねる。
「魔法薬による身体強化は、魔力を身体の循環に乗せて、全身へエネルギーを運ぶようなものじゃ」
ヨハンは指を二本立てた。
「重要なのは二つ。魔力の質と、魔力の密度じゃ」
一本目の指を立てる。
「回復術師が、自分を治すより他人を治す方が難しいことがある。
魔力の質が違うとぶつかり、効率が落ちる。人間より動物を治すのが難しいのも、同じ理屈じゃ」
「それが、魔力の質……」
「そう」
二本目の指を立てる。
「魔獣の肉を食べたからといって、強くなるわけではない。
魔力が薄ければ身体に定着せず、排出される。――濃くして残す工夫が必要になる」
「それが、魔力の密度の問題ですね」
ヨハンは穏やかに頷いた。
「だから、解明すべきは二つ。
この魔力の元になった材料は何か。そして、どうやってここまで濃縮したのか」
そう言うと、ヨハンは棚から次々と試薬を持ってくる。
「……あとは根気よく調べるだけじゃ」
※※※
夜が更けても、解析は終わらなかった。
「小鬼、大鬼、豚人……いくつかの魔獣反応を当ててみたが、どれも違うようだ……」
さすがに疲れたのか、ヨハンは椅子に沈み込む。
アデルは迷いながらも口を開いた。
「あの……素朴な疑問なのですが。人間の魔力を注ぎ込む、みたいな方法はないのでしょうか」
「うむ。いい質問じゃ」
ヨハンは目を細める。
「基本的に、魔力は貯めるのに向かない。注ぎ込むだけでは散る。……じゃが」
そこで、声が少しだけ落ちた。
「恐ろしい話をする。高位の魔術師の死体を材料にすれば、強力な魔法薬は作れる」
「……作れるんですか」
「作れる。だが、魔術師は貴重だ。歩兵強化のために魔術師の死体を大量に使うなど、本末転倒じゃろう」
ヨハンはそこで、ふっと笑った。
「……じゃが、お主の問いは筋がいい。念のため、人間由来の反応も見よう」
ヨハンは立ち上がり、いくつもの工程を黙々と進めていく。
アデルには、何を混ぜ、何を分けたのか、ほとんど分からなかった。
最後に作った試薬を、薬液へ落とす。
――今度は、薬液が緑に染まった。
ヨハンはカナリアとアデルへ目を向けた。
「カナリアちゃん。いい生徒を持ったな。……当たりじゃ」
「つまり……人間由来、ということですか?」
アデルの問いに、カナリアが口元を押さえた。
一瞬、言葉を探して、それから低く呟く。
「いや……まさかな。そんなこと……」
「どうしたんですか?」
カナリアは顔をしかめた。
「この魔法薬は、さっき言った通り魔力密度が異常に高い。
だが、高位魔術師を使うのは非現実的だ。なら――どうやってこの密度を作った?」
答えが見えるのが嫌だったのだろう。
カナリアは一度息を吐いてから、言った。
「……人間を、大量に使った。人工結晶化だ」
部屋の空気が、冷えた。
※※※
「人間の人工結晶化?」
カナリアの言葉に、アデルは思わず聞き返した。
「魔術師でなくても、人間の身体には魔力が巡っている。
それを結晶として濃縮する方法がある――という話だ」
「つまり、人間ベースの紅晶……のようなものを作っているんですか?」
「正確には、紅晶に似せた人工結晶だろうね。
彼らは戦争ばかりしている。材料――死体の入手には困らない」
カナリアの口調は淡々としているのに、内容だけが生々しい。
ヨハンが眉をひそめたまま、ゆっくり頷いた。
「紅晶は魔力の塊ですよね? 自然紅晶は魔法薬の材料には向いていないんですか?」
「先ほど言った質の問題もある。それに、過ぎた魔力密度は毒になる。
仮に紅晶を体内に入れれば、魔力が暴走して――致死域だろう」
「ロベルトは、かなり強い副作用が出ていました。でも……死んではいませんでした」
「そこが肝だ」
カナリアが指先で机を軽く叩く。
「自然紅晶と人工結晶は、似せているだけで別物だ。
帝国の人工結晶は、自然紅晶の模倣だけが目的じゃない。
今回のこれは、薬として使える濃度と性質になるよう、作り方そのものを調整している可能性が高い」
「魔法薬向けの生成方法がある、と?」
「そう考えるのが自然だね。
そして、作り方が分かれば――解除の筋道も立つ」
カナリアは続けた。
「結晶を分解させればいい。碧晶が魔術を分解するのと同じ理屈で、人工結晶を崩す成分を探せばいい」
「そんなこと、できるんですか?」
「時間は食うだろうが……やってみるよ」
カナリアが実験机に向かい、ヨハンが黙って器具を揃える。
夜が更けても、試薬の匂いとガラスの音だけが途切れなかった。
――解除薬ができたのは、翌朝だった。
※※※
レルネンはロベルトを解析班に引き渡した直後、別邸から届いた報せに息を呑んだ。
身体強化薬の実物が、こちらへ回ってきたという。
戦場から送られてきたのは、帝国兵の死体が一つ。
それだけでは解析は遅々として進まなかった。
今この瞬間も帝国は攻めてくる。
軍部には焦りが溜まっていた。
だが、ロベルトという生きた使用者と、薬の現物があるとなれば話は違う。
レルネンはすぐ解析班へ引き返した。
あの少女、アデル・ローゼンベルク。
王国の救世主になるかもしれない。さすがはローゼンベルク家、と言うべきか。
だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。
翌日。
アデルが、グランヴェール学園の教師を伴って現れたのだ。
そしてレルネンに差し出されたのは、一本の小瓶――薬だった。
「身体強化薬の解除薬です」
「……はっ?」
レルネンは開いた口が塞がらなかった。
解析班がまだ辿り着けていないものを、この短時間で作ってきたというのか。
「いまから大量生産は可能でしょうか。作り方はここに」
アデルが差し出した紙束――走り書きのメモを、レルネンは受け取り、目を走らせる。
「……いける。今からだ。すぐ動かす」
顔を上げると、アデルが続けた。
「それで、父から連絡は? 状況は分かりますか?」
「……昨日から連絡が途絶えている。向こうも限界なんだろう」
「そうですか……」
アデルの表情が陰る。
そして背後に控える黒髪の少女――リィへ、短く視線を送った。
「解除薬の運搬について、提案があります。私たちに任せてください」
「君たち? さすがに、学生にすべてを任せるわけには――」
言いかけて、レルネンは言葉を飲み込む。
「……何か勝算があるのか」
「私と、後ろのリィは飛行魔術が使えます」
「飛行魔術か。確かに速い。だが、ハルデン砦までは距離がある。
普通の魔力では保たない。結局、馬の方が――」
「リィの魔力量なら届きます。膂力もあります。荷台ひとつ分なら運べる。
先行して運べる分だけでも、前線の時間を稼げるはずです」
レルネンの脳裏に、ロベルトが吹き飛んだ光景がよぎる。
嘘を言っているようには見えなかった。
「……確かに。だが、安全は保証できないぞ。戦場へ行くんだ」
そのとき、リィが一歩前へ出た。
「アデルの父親が危ないんだろ。僕に任せとけ」
アデルも頷く。
「私も行きます。危険は承知の上です」
レルネンは短く息を吐き、決断した。
「分かった。こちらも別働で薬を運ぶ。
だが、先行できるなら――先に運んでくれ」
アデルが深く一礼する。
レルネンは踵を返し、解除薬の量産準備へ走り出した。
※※※
王都の外れには、荷台が一つ待機していた。
中には解除薬が箱詰めされ、揺れで割れないよう詰め物がしてある。
荷台には取っ手が付けられ、リィが掴みやすいよう調整されていた。
さらに天板には浅い窪みが設けられ、アデルが身体を預けられるようになっている。
「アデル様、準備が整いました」
「レルネンさん、ありがとう」
脇には、同じように薬箱を積んだ馬車が並んでいる。
そちらはレルネンたちが運ぶ分だ。リィが先行し、後続が追う。
アデルは胸の奥の不安を押し込み、リィを見た。
「リィ、大丈夫?」
「ああ。いつでもいける」
リィが腕をぐるぐる回す。
次の瞬間、アデルの身体がふわりと浮き、荷台の窪みに収まった。
リィが取っ手を掴む。
荷台ごと、ゆっくりと宙へ持ち上がっていく。
「ニーナ、クラリス。王都の方は任せたわ」
「ご無事で、アデル様」
「リィ、アデル様を頼む」
二人は深く頭を下げる。
「任せとけ。アデルは僕が守る」
リィはそう言うと、迷いなく高度を上げた。
風を切って、空が遠ざかる。
北東――ハルデン砦へ。
リィとアデルは、最前線へ向かって飛び立った。




