二話
アデル・ローゼンベルクは、ローゼンベルク公爵家の令嬢である。
カルディア王国建国当初から続く名門で、王家とも縁の深い大貴族――その娘だ。
王国内ではローゼンブルクの名を持つだけで、大抵のことはなんとかなる。
けれどアデルは、その扱いに甘えるつもりはなかった。
幼いころから周囲は過剰なほど丁重で、失敗さえ無かったことにしてくれた。厳しかったのは、父くらいだろう。
軍を背負う父の背中を見て育ったアデルは、自分もまた家名に恥じぬよう研鑽を積んできた。
その積み重ねもあって、十歳のとき第一王子ジークフリート・アルクレイヴの婚約者に選ばれた。
順調にいけば、いずれはカルディア王国の王妃となる。
誰もがそう囁き、アデル自身も――それを当然の未来として受け入れていた。
それなのに。
(どうして、こうなったんだろう?)
華やかな音楽。シャンデリアの揺れる光。
学園のパーティ会場で、アデルはどこか他人事のように立ち尽くしていた。
目の前のジークフリートは、婚約者を見る目ではない。
罪人を見る目で――こちらを、冷たく見下ろしている。
その隣には、最近よく見かける伯爵令嬢レオノーラ・グレイソン。
彼女は唇を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。
「アデル。君にはがっかりしたよ」
ジークフリートの声は、どこまでも冷淡だった。
少なくとも、婚約者に向ける声ではない。
アデルは胸の奥から湧き上がる怒りを押し殺し、息を呑む。
返せる言葉はいくらでもある。けれど相手はこの国の第一王子だ。
ここで感情的になれば、さらに自分の首を絞めるだけ。そんなみっともない真似はしたくない。
周囲がざわめいた。
学園のパーティで、王子が突然、公爵令嬢を糾弾し始めたのだ。驚かない者の方が少ない。
ジークフリートとアデルの仲が良くないことは、周知の事実だった。
正確には、ジークフリートが一方的にアデルを嫌っている。
アデルにも思うところはあったが、相手は王族だ。歩み寄るべきは自分だと、そう言い聞かせてきた。
ただ、何が気に入らないのかは分からない。何を治すべきかわからないのだから、手の打ちようもない。
近頃は周囲の目も気にせず、露骨に冷たい態度を取ることすらあった。
だからこそ、今も「またいつものことだ」と冷めた顔で見守っている者もいる。
だが、今日の言葉は、いつもとは違った。
「君が、レオノーラ嬢の殺害を企んでいることはわかっている。証拠も上がっている」
レオノーラは青ざめたまま、小さく首を振った。
その怯えた姿は、無関係であれば同情を誘うだろう。演技か本心か――判別はつかない。
(証拠……? あるわけがない)
アデルは内心でそう言い切った。
なぜなら、彼女はレオノーラの殺害など企んでいない。
確かに、王子に近づきすぎるレオノーラに苛立ちはあった。
けれど、だからといって殺すという発想などしない。
仮に排除したいのだとしても、もっと貴族的で、もっと綺麗な方法がいくらでもある。
殺人などという短慮を選ぶほど、アデルは愚かではない。
アデルはジークフリートの視線を、正面から受け止めた。
ジークフリートは侍従に顎をしゃくった。
すると銀盆の上に二つの品が並べられ、衆目に晒される。
封の切られた手紙。
小さなガラス瓶。中に淡い紫の液体が揺れている。
どちらも、アデルが見たことのないものだった。
「これが証拠だ」
ジークフリートの声が、会場の空気を支配する。
「これはレオノーラ嬢に届いた脅迫状だ。貴族の用いる紙には、製紙所の透かしが入っている。この手紙の透かしは――ローゼンベルク公爵家で用いている紙と一致した」
ざわ、と再び波が立つ。
貴族たちの視線が一斉にアデルへ集まった。
アデルは銀盆の上の手紙を見た。
文字は整っている。柔らかく、女性らしい筆致。
(違う)
形は似せてある。だが、自分の字と違うことくらいは分かる。
筆圧の抜き方、線の止め方。――ほんのわずかな癖が、そこにはない。
「さらに、悪いが君の部屋を調べさせてもらった。この瓶が出てきた。レオノーラ嬢の食事に混ぜられていたものと同じ毒だ」
アデルの胸がざわついた。
先日、レオノーラが倒れていたという噂は聞いている。だが、それが自分の仕業であるはずがない。
ジークフリートは守るようにレオノーラを引き寄せた。
その仕草が自然で、あまりにも絵になるせいで、アデルの喉がひどく渇く。
「幸い、レオノーラ嬢は回復した。だが量によっては死に至った可能性もある。言い逃れはできまい」
アデルは一歩前へ出た。
どうやら、これはいつもの冷たい態度ではない。
本気だ。本気で自分を潰すつもりだ。
「……手紙を、こちらへ」
会場が静まった。
ジークフリートが目を細める。
「何をするつもりだ」
「確認したいだけです。筆跡は似せられますが、私が書いた字ではありません」
アデルの声は落ち着いていた。
言葉を選ぶ。ここで激情に任せれば、彼らの思う壺だ。
ジークフリートは鼻で笑った。
「不要だ。鑑定はすでに済んでいる。それに……君の家の者も認めていたぞ」
その一言に、アデルの背筋が冷えた。
家の者が――認めた?
「……誰が、です?」
「君が知るべきことではない。君みたいな――人殺しにな」
数名の貴族が顔を見合わせる。
証拠を信じていいのか迷うような者もいる。だが助け舟を出す者はいない。
相手は第一王子だ。異を唱えた瞬間、自分が標的になりかねない。
ジークフリートは畳みかける。
「それに、君の部屋から毒の瓶が出ている。何を疑う必要がある?」
会場の空気が、静かに同意へ傾いた。
それに合わせて視線も、アデルを冷たく裁く色に染まっていく。
(要するに……)
抵抗する気力が削られていく。
(私は嵌められた。殿下に――あるいは、ローゼンベルク家内の誰かに)
どちらにせよ、もう遅いのだろう。
部屋から瓶が出たという事実が、何よりも重い。偽りでも、王子が「出てきた」と言った以上、それは真実として扱われる。
「ジークフリート殿下……信じてください。私はレオノーラ嬢を傷つけていません」
できることとしたら、温情に縋ることくらいだ。
会場中がアデルを哀れむ目に変わっていくのが分かる。
その瞬間、レオノーラが小さく息を呑み、肩を震わせた。
泣きそうな顔で、ジークフリートに縋るように視線を向ける。
「殿下……っ」
ジークフリートは、レオノーラに優しく手を差し伸べた。
「怖かったな」
そしてアデルへ向き直る。
その眼差しから温度が消えた。
「アデル・ローゼンベルク。君との婚約は破棄する」
会場が息を呑む。
公爵家の娘が王妃候補から降ろされた。この噂は、明日の朝には王都中を巡るだろう。
アデルは一度だけ目を伏せた。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「承りました」
自分でも驚くほど冷静に、その言葉が出た。
ジークフリートは表情ひとつ変えず、続ける。
「君とは長い付き合いだ。贖罪の機会を与えよう。竜殺しのローゼンベルク家に相応しい仕事だ」
アデルは顔を上げる。
こんなふうに追い詰めておいて、まだ何を言うつもりなのか。
竜殺しのローゼンベルク家。
初代が竜を退け、この国の危機を救ったという逸話。
その功によって公爵家となった――子どものころから繰り返し聞かされた物語。
「君には竜殺しを行ってもらう。……いや、鱗一つでも持ち帰ればいい。その功をもって罪をなかったことにしよう」
まるで課題を出すような口調だった。
「殺害を企んだ罪は重い。だが今回は学園内の出来事だ。それでもって良しとしよう」
慈悲を与えるかのように言う。
だがアデルの胸の中は、冷え切っていた。
竜とは、生きる災害だ。
鱗を持ち帰れ――それは「死ね」と言っているのと同じ。
「しかし、竜など……どこにいるかも分かりません」
アデルが絞り出すと、ジークフリートは冷たく笑った。
「分かっているのがいるではないか。ヴェルダ樹海だ」
アデルは息を呑む。
「黒竜を相手にせよと……?」
「まあ、安心しろ。禁じられた森に入る許可は出してやる」
王子は一拍置いて、言い切った。
「――ただし、貴様一人だけだ。王国が黒竜に喧嘩を売ったなどと思われたくないからな」
黒竜。これは実質、死刑宣告だ。
なのにアデルは、どこかすっきりしていた。
この男が自分をここまで邪魔に思っていたのだと――ようやく腑に落ちたからだ。
「……御意のままに、殿下。ローゼンベルク家の名にかけて、黒竜の鱗を持ち帰ってみせましょう」
喚いたりはしない。
公爵令嬢としての矜持が、それを許さなかった。
ジークフリートは鼻を鳴らしただけだった。
アデルは踵を返す。
背中に刺さる視線が痛い。哀れみ、勝ち誇り、好奇――それらが刃物のように飛んでくる。
(……簡単に死んだりしない。絶対に)
ローゼンベルクの血は、竜に挑んだ歴史の上にある。
ならばせめて、この死刑に等しい命令を生還で踏みつけてやる。
そして自分を嵌めた者を――必ず見返してやるのだ。
※※※
王立グランヴェール学園の教師、カナリア・ローレンツは研究室で調べものをしていた。
羊皮紙の束に目を走らせ、文字を指先でなぞっていく。机の端には乾ききらないインク壺と、使いかけの羽根ペン。
湯気の立つコーヒーを淹れると、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
ひと口すすった、そのとき。
扉が、こつこつと叩かれる。
「どうぞ」
返事をすると、扉が静かに開いた。
顔を覗かせたのは女学生――アデル・ローゼンベルクだった。
金髪は肩近くまで整えられ、碧い瞳がまっすぐこちらを見る。
美しい顔立ちだが、いつもより色がない。表情が固い。
カナリアは本を閉じ、椅子から立ち上がった。
「いらっしゃい、アデル。……どうした?」
いつもなら一礼して用件を簡潔に告げる。
だが今日は、扉の前で足が止まっている。
カナリアは室内のソファを指した。
「そこに座って。顔色が良くない」
「……体調が悪いわけではありません」
声が、硬い。
アデルは一瞬迷ったあと、ソファに腰を下ろした。
「先生。少しだけ、お時間をいただけますか」
「もちろん。何があった?」
促すと、アデルは視線を落としてから、短く言った。
「ジークフリート……殿下の件です」
カナリアは眉をひそめた。
まさか恋愛相談ではないだろう。
カナリアはカップをもう一つ取り、コーヒーを注いでアデルの前に置く。
アデルは深刻な顔のまま、カップに触れもしない。
「……殿下に、婚約解消を申し出られました」
「……いったい、なぜ?」
「レオノーラさんへの……殺人未遂の疑い、だそうです」
「レオノーラ……グレイソン家の令嬢か。なんでまた?」
名前に覚えはある。挨拶を交わした程度だ。
伯爵令嬢にしては目立たず、物静かな印象しか残っていない。
カナリアは探るように言った。
「それで……君はやっていないんだろう? まさか痴情のもつれ、なんて言わないよね」
アデルは息を吐き、頷いた。
その動きに迷いがないのを見て、カナリアも信じることにする。
「はい。もちろん、やっていません。……けれど、証拠が出てきているのです」
「偽証か、捏造か。どちらにせよ、誰かが君を陥れようとしている」
「ええ。ローゼンベルク家の中に、私を売った者がいるみたいです」
カナリアは思わず顔をしかめた。
「厄介だな……君の父君とは話したことがあるが、筋の通る人だった。とはいえ、公爵家も一枚岩じゃないか」
アデルは短くうなずき、静かに言った。
「父は軍の中枢にいます。国益のためなら、娘を切り捨てる判断さえするでしょう」
言葉が静かすぎて、むしろ重い。
カナリアは軽く息を吐いた。
「家が信用できないから助けてほしい、ということかな? 構わないが――政治は苦手でね」
だがアデルは首を振る。
「いえ、とはいえ父は関わってないでしょう。どちらにせよ、家に頼るつもりはありません。……私は、すぐ学園を離れなければ」
「離れる? 家に戻るのかい?」
「ヴェルダ樹海に向かいます」
カナリアの手が止まった。
「……何を言っている」
「竜の鱗を持ち帰れば許すと。殿下が」
冗談ではない。
アデルの顔が、そう言っている。
カナリアは深く息を吐いた。
「……君ひとりで?」
「はい。一人でという条件です」
「これだから……権力を持った子どもは。死にに行くようなものだよ」
「死ぬつもりはありません」
「いや、当主に言うべきだ。これは――」
「殿下は学園内の問題として処理すると言いました。私としても好都合です。家を巻き込みたくありません」
アデルは少しだけ間を置き、続ける。
「それに、証拠まで出ている以上、単なる暴走ではない。周到に準備された計画です。覆すなら……こちらも無茶を通すしかありません」
まっすぐな声だった。
カナリアはしばらくアデルを見つめ、根負けしたように肩を落とす。
そして立ち上がり、本棚から一冊の本を抜き取って差し出した。
「黒竜に関する記録だ。温厚で、人語を解するという。……決して争ってはいけないよ」
アデルは礼をして受け取った。
カナリアは研究室の奥へ行き、厳重な保管庫から拳大ほどの石を取り出す。
鈍い光が、手のひらの上で脈打った。
「これを持っていきなさい。魔晶石だ。黒竜が価値を見出すかは分からないが……交渉の材料にはなる」
「……先生」
「君は、頭の使い方が上手い子だ。戦うんじゃない。生きて帰るために使いなさい」
アデルは魔晶石を見つめ、唇を噛みしめた。
やがて、小さく息を吸って顔を上げる。
「……ありがとうございます。お礼は、必ず後日」
「いいんだよ。かわいい生徒のためだからね」
カナリアがそう言うと、アデルは涙をこらえるように一度瞬きし、深く頭を下げた。




