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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
三章

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19/25

十八話

 その日、王国軍部は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。

 軍務次官レルネン・ハルツは、机に積み上がった報告書をめくりながら、頭を抱えていた。


 そんな折、王宮に現れたのがローゼンベルク家の令嬢――アデル・ローゼンベルクだった。

 バルツ砦陥落の報を受け、コンラートらの安否を確かめに来たのだろう。


 本来なら、学生相手に次官が直々に応対することはない。

 だが、ローゼンベルク家は代々軍務卿を輩出してきた家であり、軍部への影響力は桁違いだ。無下に追い返せる相手ではなかった。


 やむなく、レルネンはアデルを執務室へ通した。


 ――そして、その判断が間違っていなかったと、すぐに思い知ることになる。


 アデルはどこか疲れた顔で一礼した。

 それでも、澄んだ蒼い瞳はぶれずにレルネンを捉えている。


 背後には二人の護衛が控えていた。

 ひとりは大陸では珍しい黒髪の少女で、護衛にしては小柄すぎる。

 もうひとりは背の高い引き締まった女性で、短くまとめた金髪が軍人を思わせた。


「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」


「いえ。コンラート閣下には日頃からお世話になっております。この程度であれば」


 儀礼を交わした直後、アデルはためらわず本題に入った。


「それで――父と兄は、無事なのでしょうか」


 レルネンは即答を避けた。

 無事だと言い切れる状況ではない。だが、軍の作戦として動いていることだけは伝えねばならない。


「コンラート閣下は現在、遅滞戦術を取りつつハルデン砦へ撤退中です」


「遅滞戦術……つまり、時間稼ぎですね」


「はい。王都では帝国の新手の解析を急いでいます。――帝国歩兵の死体です。薬で身体を強化している可能性が高い」


 その言葉に、アデルの肩がわずかに強張った。

 彼女は一瞬だけ背後を振り返り、黒髪の少女へ目を向ける。何かを確かめるように。


「対抗手段や解除方法が見つかれば、帝国兵の戦力は大きく落とせます。少なくとも、前線の負担は減るでしょう」


 アデルは唇を結び、短く息を吸った。


「……別件ですが、関連があるかもしれません」


「はい。情報なら何でも。いまは一刻を争っています」


「我が家で起きた事件の犯人が、身体強化の薬を使っていました」


 身体強化薬そのものは闇市場にもある。

 それが帝国軍の新手と同系統かどうかは分からない。


「それだけではありません。犯人は帝国の間者である可能性があります」


「……ということは」


 レルネンが身を乗り出す。


「生きた薬の使用者が、こちら側にいると?」


「拘束しました。ただし、薬のことをどこまで知っているかは……」


「それでも構いません」


 アデルはさらに続けた。


「もう一人、帝国の間者疑いで拘束している者がいます。薬について知っているかもしれません」


 迷っている暇はなかった。

 レルネンは椅子を蹴るように立ち上がる。


「案内してください。直ちに取り調べと検査を始めます。……アデル様、この情報は前線を救うかもしれません」


 そう言い残すと、レルネンは執務室を飛び出した。

 アデルと護衛たちも、そのあとに続く。


※※※


 治安隊の勾留所は、王宮の喧噪とはまた別種の息苦しさに満ちていた。


 アデルたちはレルネンに伴われ、勾留所の奥へ進んだ。

 こういうとき、公爵家の威光は便利である。面倒な手続きは省かれ、面会はすぐに通った。


 面会室には、リィとニーナがすでに待っていた。

 やがてロベルトが連れてこられ、その姿を見た瞬間、アデルたちの表情が固まる。


 異様だった。


 元のロベルトは清潔感のある顔立ちで、笑えば人が良さそうに見える男だった。

 だが今、目の前にいるそれは、もはや別人だった。


 膨れ上がった肉体は戻りきっていない。

 右腕だけが細く、左腕だけが異様に太い。骨格も歪み、首筋の角度まで不自然だった。

 銀髪は半ば抜け落ち、まだらになった頭皮が覗いている。


 歩くたびに身体が左右へ揺れ、椅子に腰を下ろすまでにも時間がかかった。


「……お目汚し、申し訳ねぇです。アデルお嬢様」


 ロベルトは苦々しく笑った。


「大変そうね、ロベルト」


「いえ……人を殺したんだ。このくらい……」


 声がかすれる。

 苛立ちなのか痛みなのか、膝が小刻みに揺れていた。


「でも、信じてください。イリスのためだったんだ……帝国が悪いんだよ」


 アデルは首をかしげる。

 ロベルトの目は焦点が合っていない。何もない場所を見ているようだった。


「あなたたちは帝国側の人間ではないの? どういうこと?」


「イリスは……かわいそうな女なんだ。誰も信じちゃいない。だから救えるのは俺だけだ」


「帝国に脅されていたの? 連絡方法は?」


「連絡を取ってたのはイリスだけだ。あいつはいつも怯えてた。強がってたが……俺には分かる」


 ロベルトの目が、ぎょろりと動く。


「あなたが打った薬は、イリスから渡されたもの?」


「ああ。あいつが俺のためにくれた。できるなら打つなって言ってた……全部あいつのせいだ。あいつが悪い」


 そのとき、ロベルトの視線がリィに止まった。


「……そうだ。お前が悪い」


 次の瞬間、その声が叫びへ変わる。


「お前が全部悪いんだ!」


 ロベルトが椅子を蹴り、机に手をついて飛びかかろうとする。

 ニーナが即座にアデルを引き、自ら前へ出た。


 ロベルトの拳がリィへ振り下ろされる。

 リィはそれを受け止め――反射的に殴り返していた。


 鈍い音が響く。


 ロベルトの身体が吹き飛び、壁に叩きつけられた。

 そのままずるりと床へ落ち、動かなくなる。


 面会室が静まり返った。

 レルネンは呆然としたまま、息を呑んでいる。


「……悪い。つい、殴っちゃった」


 リィが不安そうにアデルを見る。


「いいのよ。今のはロベルトが悪いわ」


 アデルはそう言って、リィの頭を撫でて落ち着かせた。

 それからレルネンへ向き直る。


「レルネンさん。ロベルトは薬の入手経路までは詳しく知らなさそうです。ですが――」


 視線を、崩れ落ちたロベルトへ移した。


「少なくとも薬には強い副作用がある。身体の崩れ方が異常です。解析班に回すべきです」


 レルネンはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「……そうだな。ロベルトは解析班へ引き渡す」


「私は別邸に拘束しているイリスに、直接話を聞きます」


「引き渡しが済み次第、私も向かう」


 アデルは頷いた。

 そしてレルネンと別れ、ローゼンベルク公爵家の別邸へ戻ることになる。


※※※


 面会室に、イリスは悠然と姿を現した。

 アデルを見つけると一瞬だけ目を見開き、すぐにいつもの笑みへ戻る。


「あら。今日はアデル様なんですか? 何を聞かれても答えられないのに、大丈夫です?」


 イリスはこの数日、屋敷で取り調べを受け続けている。

 だが、口を割る気配はない。


「……元気そうでよかったわ」


「私もアデル様のお顔が見られて、嬉しいです」


 イリスはアデルの正面に腰を下ろし、指先で青い髪を弄ぶ。

 アデルは言葉の順を選んだ。真正面から詰めても、簡単に崩れる相手ではない。


「ロベルトに渡した薬のことを教えて。帝国軍の歩兵にも使われているらしいの」


 イリスは、にこにこと笑ったままだ。


「だから、何も答えられないですって」


「ロベルトは――あなたが帝国を恐れているって言っていたわ」


 その瞬間、イリスの表情がわずかに揺れる。

 だが、その揺れはすぐに笑顔の奥へ押し込められた。


「……あの男、余計なことを」


 アデルは声の温度を変えずに続ける。


「もし、あなたが帝国に脅されているのなら。ローゼンベルク家が守るわ」


「アデル様は優しいんですね」


 イリスは微笑みながら、目だけを冷やす。


「……残念ですが、それを信じるほど私はお人よしじゃないんです」


 イリスは、にこにことアデルを見返していた。

 挑発しているようにも、値踏みしているようにも見える笑みだった。


「それだけなら、もうお話しすることもないですが……」


 アデルは返せなかった。

 胸の奥で、焦りだけがじわじわと広がっていく。


 父と兄は、いまも前線にいる。

 帝国の新薬に対抗する手段が見つからなければ、兵は削られ続けるだろう。

 間に合わなければ――次に届くのは、安否を問う報せではなくなるかもしれない。


 そんな想像が頭をよぎり、喉の奥が冷えた。


 ここで何も得られなければ、もっと多くの人が死ぬ。


 アデルはゆっくり椅子を引き、立ち上がった。

 そして、迷いを断ち切るようにその場に膝をつく。


 額が床に触れた。

 冷たい感触が、かえって頭をはっきりさせる。


「……お願い」


 声が、自分でも驚くほど低かった。


「私にできることは少ない。でも、情報が必要なの」


 背後で、ニーナが息を呑む気配がする。

 イリスの声も、初めて明確に揺れた。


「ちょ、待ってください。そんなことしないでください」


 アデルは頭を上げない。


「父と兄が、前線にいるの。いまこの瞬間にも、誰かが死んでるかもしれない」


 言葉にした途端、その重みが胸へ落ちてくる。

 惨めだった。けれど、引き返せない。


「お願い。……いまは薬の情報が必要なの」


 沈黙が落ちた。


 しばらくして、イリスが小さく息を吐く。


「……じゃあ、交換条件はどうですか?」


 そこでようやく、アデルは顔を上げた。

 膝をついたまま、イリスを見る。


「交換条件?」


「アデルお嬢様は、私がやったことを――全部、許す。もう一度、私を雇うんです」


 イリスはどこか疲れたように笑った。


「……何を言ってるの?」


「私、アデル様に忠誠を誓いますよ」


 軽い口調なのに、視線だけが真剣だった。


「こう見えて、アデル様のことは嫌いじゃない。だから帝国の二重間諜として動いてあげます。……許してくれるだけでいいんです」


 笑っているのに、ひどく危うい。

 その目の奥には、冗談では済まないものが沈んでいた。


 アデルは迷う。

 薬の情報は欲しい。だが、それと引き換えに差し出すものが大きすぎる。


 エステルの死を、なかったことにはできない。

 自分がここで頷けば、その死に背を向けることになる気がした。


「……そうはいかないわ、イリス」


「やっぱり信用できないですよね。私なんか」


「違う」


 アデルは、今度ははっきりと言い切った。


「二重間諜なんて危ないこと、させられない。それに――エステルを殺したことを、許してはいけない」


 イリスの表情が、わずかに止まった。


「あなたは、取り返しのつかないことをしたのよ。イリス」


 次の瞬間、イリスが腹を抱えて笑い出した。

 軽い笑い声なのに、どこか空っぽだった。


「……やっぱり、アデルお嬢様は面白いですね」


 笑みを残したまま、イリスはぽつぽつと話し始める。


「あの薬は、未完成の身体強化薬だと聞いていました。帝国軍で実戦投入されているなんて、私も想定外です」


 イリスは立ち上がり、床に膝をついたアデルの腕を取って引き起こした。


「いま手元に薬はありません。でも、私を解放してくれれば――薬を持ってきます」


 アデルの目を覗き込む。


「そして全部が終わったら、戻ってきて罰を受けます。……エステルの件からも、逃げません」


 イリスは小さく肩をすくめた。


「この条件なら、どうです?」


 アデルはイリスの目を見返した。

 嘘かもしれない。それでも――ここで賭けに出なければ、前線には間に合わない。


 一瞬だけ、エステルの死に顔が脳裏をよぎる。

 胸の奥に鈍い痛みが走った。


 ごめんなさい、と心の中でだけ呟く。

 許されないと分かっていても、今はこの判断を飲み込むしかなかった。


「……分かった。戻ってきたら、あなたの身の安全は保障するわ。帝国からも守る」


 アデルは息を吸い、静かに告げた。


「あなたを一時的に解放する」


 イリスが目を細める。


「もし逃げても――私が捕まえる。安心して」


 アデルの声は静かだった。

 だが、その奥には自分自身を責める痛みが、確かに滲んでいた。


「……ふふ」


 イリスは短く笑った。


「分かりました。アデルお嬢様のこと、もっと好きになれそうです」


 その日、イリス・ラヴァンは一時的にローゼンベルク家の拘束を解かれた。


※※※


 イリス解放から数刻が過ぎていた。

 アデルは私室で紅茶を飲んでいた。


 ソファの隣では、リィが焼き菓子をおいしそうに頬張っている。

 クラリスが紅茶のお代わりを注ぎながら、控えめに言った。


「……よろしかったのでしょうか。イリスを解放して」


「うーん。嘘は言っていない気がしたのよね。……騙されてるだけかもしれないけど」


 アデルは首をかしげて答える。

 リィが焼き菓子を食べる手を止め、こちらを向いた。


「よくわかんないけど、アデルは頑張ってたぞ」


「ありがとう。……後でレルネンさんに怒られるかもしれないけどね」


 アデルは苦笑して、リィに微笑みかけた。


 そのとき、ノックの音がした。

 クラリスが応対に出る。


 現れたのはセルバだった。

 手には小さな包みを持っている。


「差出人不明の荷物が、先ほど届きました」


「……まさか。早いわね。開けてくれる?」


「かしこまりました」


 セルバは包みを机に置き、慎重に紐を解いていく。

 中から出てきたのは、薬液の入った注射器だった。二本。


「……イリスね。本当に送ってきた」


 アデルは短く息を吐く。


「どういたしましょう」


「一本はレルネンさんへ。解析に回してもらうわ。もう一本は学園に持っていきたい。カナリア先生なら、何か分かるかもしれない」


「承知いたしました」


「私が学園へ持っていく。準備して」


 そうしてアデルは注射器を手に取り、学園へ戻る支度を始めた。

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