十八話
その日、王国軍部は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
軍務次官レルネン・ハルツは、机に積み上がった報告書をめくりながら、頭を抱えていた。
そんな折、王宮に現れたのがローゼンベルク家の令嬢――アデル・ローゼンベルクだった。
バルツ砦陥落の報を受け、コンラートらの安否を確かめに来たのだろう。
本来なら、学生相手に次官が直々に応対することはない。
だが、ローゼンベルク家は代々軍務卿を輩出してきた家であり、軍部への影響力は桁違いだ。無下に追い返せる相手ではなかった。
やむなく、レルネンはアデルを執務室へ通した。
――そして、その判断が間違っていなかったと、すぐに思い知ることになる。
アデルはどこか疲れた顔で一礼した。
それでも、澄んだ蒼い瞳はぶれずにレルネンを捉えている。
背後には二人の護衛が控えていた。
ひとりは大陸では珍しい黒髪の少女で、護衛にしては小柄すぎる。
もうひとりは背の高い引き締まった女性で、短くまとめた金髪が軍人を思わせた。
「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
「いえ。コンラート閣下には日頃からお世話になっております。この程度であれば」
儀礼を交わした直後、アデルはためらわず本題に入った。
「それで――父と兄は、無事なのでしょうか」
レルネンは即答を避けた。
無事だと言い切れる状況ではない。だが、軍の作戦として動いていることだけは伝えねばならない。
「コンラート閣下は現在、遅滞戦術を取りつつハルデン砦へ撤退中です」
「遅滞戦術……つまり、時間稼ぎですね」
「はい。王都では帝国の新手の解析を急いでいます。――帝国歩兵の死体です。薬で身体を強化している可能性が高い」
その言葉に、アデルの肩がわずかに強張った。
彼女は一瞬だけ背後を振り返り、黒髪の少女へ目を向ける。何かを確かめるように。
「対抗手段や解除方法が見つかれば、帝国兵の戦力は大きく落とせます。少なくとも、前線の負担は減るでしょう」
アデルは唇を結び、短く息を吸った。
「……別件ですが、関連があるかもしれません」
「はい。情報なら何でも。いまは一刻を争っています」
「我が家で起きた事件の犯人が、身体強化の薬を使っていました」
身体強化薬そのものは闇市場にもある。
それが帝国軍の新手と同系統かどうかは分からない。
「それだけではありません。犯人は帝国の間者である可能性があります」
「……ということは」
レルネンが身を乗り出す。
「生きた薬の使用者が、こちら側にいると?」
「拘束しました。ただし、薬のことをどこまで知っているかは……」
「それでも構いません」
アデルはさらに続けた。
「もう一人、帝国の間者疑いで拘束している者がいます。薬について知っているかもしれません」
迷っている暇はなかった。
レルネンは椅子を蹴るように立ち上がる。
「案内してください。直ちに取り調べと検査を始めます。……アデル様、この情報は前線を救うかもしれません」
そう言い残すと、レルネンは執務室を飛び出した。
アデルと護衛たちも、そのあとに続く。
※※※
治安隊の勾留所は、王宮の喧噪とはまた別種の息苦しさに満ちていた。
アデルたちはレルネンに伴われ、勾留所の奥へ進んだ。
こういうとき、公爵家の威光は便利である。面倒な手続きは省かれ、面会はすぐに通った。
面会室には、リィとニーナがすでに待っていた。
やがてロベルトが連れてこられ、その姿を見た瞬間、アデルたちの表情が固まる。
異様だった。
元のロベルトは清潔感のある顔立ちで、笑えば人が良さそうに見える男だった。
だが今、目の前にいるそれは、もはや別人だった。
膨れ上がった肉体は戻りきっていない。
右腕だけが細く、左腕だけが異様に太い。骨格も歪み、首筋の角度まで不自然だった。
銀髪は半ば抜け落ち、まだらになった頭皮が覗いている。
歩くたびに身体が左右へ揺れ、椅子に腰を下ろすまでにも時間がかかった。
「……お目汚し、申し訳ねぇです。アデルお嬢様」
ロベルトは苦々しく笑った。
「大変そうね、ロベルト」
「いえ……人を殺したんだ。このくらい……」
声がかすれる。
苛立ちなのか痛みなのか、膝が小刻みに揺れていた。
「でも、信じてください。イリスのためだったんだ……帝国が悪いんだよ」
アデルは首をかしげる。
ロベルトの目は焦点が合っていない。何もない場所を見ているようだった。
「あなたたちは帝国側の人間ではないの? どういうこと?」
「イリスは……かわいそうな女なんだ。誰も信じちゃいない。だから救えるのは俺だけだ」
「帝国に脅されていたの? 連絡方法は?」
「連絡を取ってたのはイリスだけだ。あいつはいつも怯えてた。強がってたが……俺には分かる」
ロベルトの目が、ぎょろりと動く。
「あなたが打った薬は、イリスから渡されたもの?」
「ああ。あいつが俺のためにくれた。できるなら打つなって言ってた……全部あいつのせいだ。あいつが悪い」
そのとき、ロベルトの視線がリィに止まった。
「……そうだ。お前が悪い」
次の瞬間、その声が叫びへ変わる。
「お前が全部悪いんだ!」
ロベルトが椅子を蹴り、机に手をついて飛びかかろうとする。
ニーナが即座にアデルを引き、自ら前へ出た。
ロベルトの拳がリィへ振り下ろされる。
リィはそれを受け止め――反射的に殴り返していた。
鈍い音が響く。
ロベルトの身体が吹き飛び、壁に叩きつけられた。
そのままずるりと床へ落ち、動かなくなる。
面会室が静まり返った。
レルネンは呆然としたまま、息を呑んでいる。
「……悪い。つい、殴っちゃった」
リィが不安そうにアデルを見る。
「いいのよ。今のはロベルトが悪いわ」
アデルはそう言って、リィの頭を撫でて落ち着かせた。
それからレルネンへ向き直る。
「レルネンさん。ロベルトは薬の入手経路までは詳しく知らなさそうです。ですが――」
視線を、崩れ落ちたロベルトへ移した。
「少なくとも薬には強い副作用がある。身体の崩れ方が異常です。解析班に回すべきです」
レルネンはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……そうだな。ロベルトは解析班へ引き渡す」
「私は別邸に拘束しているイリスに、直接話を聞きます」
「引き渡しが済み次第、私も向かう」
アデルは頷いた。
そしてレルネンと別れ、ローゼンベルク公爵家の別邸へ戻ることになる。
※※※
面会室に、イリスは悠然と姿を現した。
アデルを見つけると一瞬だけ目を見開き、すぐにいつもの笑みへ戻る。
「あら。今日はアデル様なんですか? 何を聞かれても答えられないのに、大丈夫です?」
イリスはこの数日、屋敷で取り調べを受け続けている。
だが、口を割る気配はない。
「……元気そうでよかったわ」
「私もアデル様のお顔が見られて、嬉しいです」
イリスはアデルの正面に腰を下ろし、指先で青い髪を弄ぶ。
アデルは言葉の順を選んだ。真正面から詰めても、簡単に崩れる相手ではない。
「ロベルトに渡した薬のことを教えて。帝国軍の歩兵にも使われているらしいの」
イリスは、にこにこと笑ったままだ。
「だから、何も答えられないですって」
「ロベルトは――あなたが帝国を恐れているって言っていたわ」
その瞬間、イリスの表情がわずかに揺れる。
だが、その揺れはすぐに笑顔の奥へ押し込められた。
「……あの男、余計なことを」
アデルは声の温度を変えずに続ける。
「もし、あなたが帝国に脅されているのなら。ローゼンベルク家が守るわ」
「アデル様は優しいんですね」
イリスは微笑みながら、目だけを冷やす。
「……残念ですが、それを信じるほど私はお人よしじゃないんです」
イリスは、にこにことアデルを見返していた。
挑発しているようにも、値踏みしているようにも見える笑みだった。
「それだけなら、もうお話しすることもないですが……」
アデルは返せなかった。
胸の奥で、焦りだけがじわじわと広がっていく。
父と兄は、いまも前線にいる。
帝国の新薬に対抗する手段が見つからなければ、兵は削られ続けるだろう。
間に合わなければ――次に届くのは、安否を問う報せではなくなるかもしれない。
そんな想像が頭をよぎり、喉の奥が冷えた。
ここで何も得られなければ、もっと多くの人が死ぬ。
アデルはゆっくり椅子を引き、立ち上がった。
そして、迷いを断ち切るようにその場に膝をつく。
額が床に触れた。
冷たい感触が、かえって頭をはっきりさせる。
「……お願い」
声が、自分でも驚くほど低かった。
「私にできることは少ない。でも、情報が必要なの」
背後で、ニーナが息を呑む気配がする。
イリスの声も、初めて明確に揺れた。
「ちょ、待ってください。そんなことしないでください」
アデルは頭を上げない。
「父と兄が、前線にいるの。いまこの瞬間にも、誰かが死んでるかもしれない」
言葉にした途端、その重みが胸へ落ちてくる。
惨めだった。けれど、引き返せない。
「お願い。……いまは薬の情報が必要なの」
沈黙が落ちた。
しばらくして、イリスが小さく息を吐く。
「……じゃあ、交換条件はどうですか?」
そこでようやく、アデルは顔を上げた。
膝をついたまま、イリスを見る。
「交換条件?」
「アデルお嬢様は、私がやったことを――全部、許す。もう一度、私を雇うんです」
イリスはどこか疲れたように笑った。
「……何を言ってるの?」
「私、アデル様に忠誠を誓いますよ」
軽い口調なのに、視線だけが真剣だった。
「こう見えて、アデル様のことは嫌いじゃない。だから帝国の二重間諜として動いてあげます。……許してくれるだけでいいんです」
笑っているのに、ひどく危うい。
その目の奥には、冗談では済まないものが沈んでいた。
アデルは迷う。
薬の情報は欲しい。だが、それと引き換えに差し出すものが大きすぎる。
エステルの死を、なかったことにはできない。
自分がここで頷けば、その死に背を向けることになる気がした。
「……そうはいかないわ、イリス」
「やっぱり信用できないですよね。私なんか」
「違う」
アデルは、今度ははっきりと言い切った。
「二重間諜なんて危ないこと、させられない。それに――エステルを殺したことを、許してはいけない」
イリスの表情が、わずかに止まった。
「あなたは、取り返しのつかないことをしたのよ。イリス」
次の瞬間、イリスが腹を抱えて笑い出した。
軽い笑い声なのに、どこか空っぽだった。
「……やっぱり、アデルお嬢様は面白いですね」
笑みを残したまま、イリスはぽつぽつと話し始める。
「あの薬は、未完成の身体強化薬だと聞いていました。帝国軍で実戦投入されているなんて、私も想定外です」
イリスは立ち上がり、床に膝をついたアデルの腕を取って引き起こした。
「いま手元に薬はありません。でも、私を解放してくれれば――薬を持ってきます」
アデルの目を覗き込む。
「そして全部が終わったら、戻ってきて罰を受けます。……エステルの件からも、逃げません」
イリスは小さく肩をすくめた。
「この条件なら、どうです?」
アデルはイリスの目を見返した。
嘘かもしれない。それでも――ここで賭けに出なければ、前線には間に合わない。
一瞬だけ、エステルの死に顔が脳裏をよぎる。
胸の奥に鈍い痛みが走った。
ごめんなさい、と心の中でだけ呟く。
許されないと分かっていても、今はこの判断を飲み込むしかなかった。
「……分かった。戻ってきたら、あなたの身の安全は保障するわ。帝国からも守る」
アデルは息を吸い、静かに告げた。
「あなたを一時的に解放する」
イリスが目を細める。
「もし逃げても――私が捕まえる。安心して」
アデルの声は静かだった。
だが、その奥には自分自身を責める痛みが、確かに滲んでいた。
「……ふふ」
イリスは短く笑った。
「分かりました。アデルお嬢様のこと、もっと好きになれそうです」
その日、イリス・ラヴァンは一時的にローゼンベルク家の拘束を解かれた。
※※※
イリス解放から数刻が過ぎていた。
アデルは私室で紅茶を飲んでいた。
ソファの隣では、リィが焼き菓子をおいしそうに頬張っている。
クラリスが紅茶のお代わりを注ぎながら、控えめに言った。
「……よろしかったのでしょうか。イリスを解放して」
「うーん。嘘は言っていない気がしたのよね。……騙されてるだけかもしれないけど」
アデルは首をかしげて答える。
リィが焼き菓子を食べる手を止め、こちらを向いた。
「よくわかんないけど、アデルは頑張ってたぞ」
「ありがとう。……後でレルネンさんに怒られるかもしれないけどね」
アデルは苦笑して、リィに微笑みかけた。
そのとき、ノックの音がした。
クラリスが応対に出る。
現れたのはセルバだった。
手には小さな包みを持っている。
「差出人不明の荷物が、先ほど届きました」
「……まさか。早いわね。開けてくれる?」
「かしこまりました」
セルバは包みを机に置き、慎重に紐を解いていく。
中から出てきたのは、薬液の入った注射器だった。二本。
「……イリスね。本当に送ってきた」
アデルは短く息を吐く。
「どういたしましょう」
「一本はレルネンさんへ。解析に回してもらうわ。もう一本は学園に持っていきたい。カナリア先生なら、何か分かるかもしれない」
「承知いたしました」
「私が学園へ持っていく。準備して」
そうしてアデルは注射器を手に取り、学園へ戻る支度を始めた。




