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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
三章

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十七話

 レオノーラは焦っていた。


 グレイソン家は帝国と密約を交わしている。

 王国が帝国に呑み込まれた暁には、グレイソン家に新たな地位と領地が与えられる。

 その見返りに、王国内の情報を帝国へ流す――そういう取り決めだった。


 すべての始まりは、帝国から密命が下った日だ。

 そのときからレオノーラは学園で、ジークフリートに近づいた。


 ジークフリートには、アデルという婚約者がいた。

 公爵令嬢。優秀な成績。華やかな容姿。品行方正。

 第一王子の婚約者として、非の打ちどころがない娘だった。


 それなのに、ジークフリートはアデルを疎んじているように見えた。

 理由が何であれ、そこには十分すぎる隙があった。


 密命の内容は、アデルを利用してローゼンベルク家を崩すこと。

 ローゼンベルク家は、カルディア王国軍の要だ。そこが揺らげば、王国そのものが揺らぐ。


 レオノーラは、ジークフリートの理想を演じた。

 弱く、愚かで、守ってやりたくなる女。

 時には涙を見せ、時には怯え、時には信じ切った目で見上げる。


 ジークフリートは扱いやすい男だった。

 欲しがるものを差し出してやれば、簡単にこちらを信じる。


 アデルをヴェルダ樹海へ送るところまでは、すべて順調だった。

 ジークフリートは、レオノーラの望む通りに動いた。


(あれで終わるはずだったのに)


 アデルは樹海で死ぬ。

 黒竜が怒り、王国を襲う。

 公爵家と王家の権威は失墜し、軍部は混乱する。

 その隙に帝国が攻め込み、王国は呑まれる。


 そしてグレイソン家は、帝国の支配下で新たな地位を得る。

 その筋書きだった。


 だが、アデルは生きて帰ってきた。

 一時は殺害未遂の嫌疑で信用を落としたものの、黒竜の鱗を持ち帰った英雄として、今また風向きが変わりつつある。


 しかも黒竜は樹海に留まり、王国を襲わない。

 ローゼンベルク公爵は北東へ向かい、帝国との戦争を収めるために動いている。


(このまま戦が長引くなら、まだいい。……でも、もし帝国が退いたら?)


 その瞬間、密約などなかったことにされる。

 そして最後に切り捨てられるのは、グレイソン家だろう。


 レオノーラの不安を察したのか、ジークフリートが手を取った。


「レオノーラ、心配するな。君のことは、何があろうと僕が守る」


 甘い声音。優しい目。

 けれどレオノーラは、その言葉を信じるほど愚かではない。


 そもそも、ジークフリート自身の立場が危うくなりつつある。

 王宮がいつまでもその暴走を許すはずがないし、公爵家まで敵に回る。

 自分ひとり守れぬ男に、他人を守る力などあるものか。


 胸の奥に湧いた冷めた思いを押し隠し、レオノーラは表情ひとつ変えずに答えた。


「ありがとうございます、殿下」


 目を潤ませ、指先に力を込めて、ジークフリートの手を握り返す。

 そんな仕草さえ、レオノーラにとっては武器だった。


※※※


 翌日。

 レオノーラは侍女の姿で、とある屋敷の廊下を歩いていた。


 登記は別名義だが、実態はグレイソン家が用意した隠れ家である。

 王都に潜む帝国の連絡網の中心。

 そして、帝国のノイマン特務官が匿われている場所でもあった。


 扉の前で立ち止まり、ひとつ息を整える。

 ノックもせず、そのまま扉を開けた。


 室内には香の匂いと、薄い酒気が満ちていた。

 ノイマンは長椅子に背を預け、グラスの琥珀色をゆるりと揺らしている。


 戦況が動いているというのに、その指先だけが妙に落ち着いて見えた。


「……呑気ね。状況、分かっているのかしら?」


 冷ややかな声を投げても、ノイマンはすぐには視線すら寄越さない。

 しばらく液面を眺めてから、ようやく気づいたように首だけを向けた。


「困っているのは君だけだろう。――帝国の勝ちは揺るがない」


「そうかしら? ローゼンベルク家はまだ健在よ」


 ノイマンは薄く笑い、グラスを傾ける。


「どのみち王国には帝国軍を止められん。内側から崩せれば手間が省けたが――まあいい。安心しろ。グレイソン家との約束は守る」


 自信に満ちた声音。

 腹立たしいほどの余裕だった。


「……それで? アデル・ローゼンベルクは放っておくつもり?」


「殺したところで、軍務卿は揺らぎもしないだろう」


 ノイマンは淡々と続ける。


「あの女の死に意味があったのは、黒竜を巻き込めるからだ」


 もう興味がないとでも言いたげな口ぶりだ。

 人の死を計画の一部として処理する冷たさに、レオノーラの背筋がひやりとする。


 だが、ノイマンはそこで少しだけ話の向きを変えた。


「もっとも、あの女の護衛には興味がある」


「護衛?」


「ああ。まだ教えていなかったか」


 ノイマンが室内の暗がりへ向かって声を投げる。


「ナハト。説明してやりなさい」


 レオノーラは眉をひそめた。

 この部屋にはノイマンと自分しかいない――そう思っていた。


「承知いたしました」


 背後から、音もなく声がした。


 振り向いた先にいたのは、狐面の女だった。

 外套の奥から覗く肌には焼けた痕が残り、目だけがぞっとするほど冷たい。


「ヴェルダ樹海での件です」


 女は淡々と話し始める。


「私は一時、黒竜の精神へ接続しました。……その際、記憶の表層が流れ込みました」


「記憶? ……それより、あなた、いつの間に――」


 レオノーラの言葉など聞こえていないかのように、女は前を向いたまま続けた。


「黒竜は人間の赤子を育てていました。

 そして――育った少女が、いまアデル・ローゼンベルクの傍にいます」


「そう……面白いだろう?」


 ノイマンが喉の奥で笑う。


「我らの計画が狂った原因の一つ、と言っていい」


「黒竜に育てられた? そんなことが……」


「重要なのは、育てられたという事実ではない」


 ノイマンはグラスを揺らし、愉快そうに言葉を選んだ。


「竜に育てられたからといって、竜になるわけでもあるまい。問題は、その少女の特殊性だ」


 レオノーラは嫌な予感を覚えた。

 ノイマンの目が、研究対象を見つけた学者のそれに変わる。


「元々は殺すつもりだったのだ。黒竜の怒りが公爵家へ向かえば面白かったのだがな」


 さらりと言ってのける。


「だが、あの特殊性は興味深い」


「……どういうこと?」


「人間の限界を越える可能性がある。手に入れれば、帝国の研究は一段進む」


 ノイマンは平然と言い、最後に淡々と付け加えた。


「もっとも、簡単には手が出せん。さらって黒竜を敵に回すのは割に合わないからな」


 そう言って、ノイマンは話を切った。

 視線はすでに酒へ戻っている。


 気づけば、狐面の女の姿も消えていた。

 部屋に残るのは揺れる灯りと、胸の奥に沈む冷たさだけだった。


※※※


 バルツ砦は王国北東部、帝国との国境に面した前線拠点だ。

 その城壁の上で、アイゼンハルト伯爵は眼前の光景に息を呑んだ。


 帝国側の陣に歩兵が列を成している。

 それだけなら、いつものことだ。こちらも歩兵を出し、魔術師で支援して押し返せばいい。


 だが、今回の歩兵は違った。


 鎧の隙間から覗く腕が、異様に太い。

 筋肉が膨れ上がり、肩幅だけで人ひとり分ある。背丈は並の兵の二倍近い。

 人間というより、大鬼という魔獣に近かった。


 先陣を切った王国兵が突撃する。

 だが――次の瞬間。


 帝国兵が腕一本で槍をへし折った。

 紙を裂くように、兵が宙へ飛ぶ。


 ばたばたと王国兵が倒れていく。

 叫び声が城壁まで届き、土煙が視界を曇らせた。


「退却の鐘を鳴らせ! 魔術師部隊は歩兵を援護しろ!」


 伯爵の号令に、砦の鐘が鳴り響く。

 城壁の上から魔術師が一斉に術式を組み、火炎が弧を描いて降り注いだ。


 だが、帝国側で青白い防御膜が立ち上がる。

 炎は壁に吸われ、砕け、散った。


 防ぎ損ねた火炎が数名を焼いた。

 しかし土煙の向こうから現れたのは――焼けた皮膚を意に介する様子もない、膨れ上がった体躯だった。

 倒れた帝国兵もいたが、周囲はそれを気にする気配すらない。


 退却する王国兵に帝国兵が追いすがり、腕を伸ばす。

 掴まれた者は引き倒され、叩き飛ばされ、二度と立ち上がらない。


「……ちっ。なんだ、あの化け物は」


 伯爵は唾を飲み、歯噛みした。


「王都からの援軍はまだか」


 傍らの副官が即座に答える。


「先ほど先触れが到着しました。五日後には、王都軍が合流予定とのことです」


「五日後、か……」


 伯爵は砦の石壁を見下ろした。

 この壁があとどれほど持つのか、見極めきれない。少なくとも、正面から歩兵を出して押し返す戦い方は、もう取れない。


「――それまで、この砦がもてばいいがな」


 その言葉は、ほとんど呻きだった。


※※※


 砦の中庭では担架が列を作っていた。

 血の匂い。呻き声。治療術師たちの指示が飛ぶ。


 アイゼンハルト伯爵は視線を逸らさないまま、副官に命じた。


「あれを直接見た者を集めろ」


「はっ」


 副官が走り去る。

 伯爵は拳を握り、唇の端を歪めた。


 帝国軍の質そのものは、王国と大差ない。

 そのはずだった。


 ほどなくして、現場から戻った斥候が雪崩れ込むように駆け込んできた。

 顔は煤け、喉は嗄れている。


「伯爵! 敵兵の死体を一つ、回収しました!」


「……死体?」


「はい。ですが――」


 斥候は言いよどみ、背中の布をめくった。

 そこに転がっていたのは、膨れ上がった人間だった。

 焼け焦げているが、皮膚は不自然なほど硬い。


 アイゼンハルト伯爵は帝国兵の死体を念入りに検分する。

 人外ではない。むしろ、人間を無理やり別のものへ変えたように見えた。


「伯爵、ここを見てください」


 小さな注射痕。

 針を刺し込んだような穴が、肌に残っていた。

 伯爵の眉が動く。


「……魔術ではない。薬を投与したのか」


 アイゼンハルト伯爵は、ゆっくり息を吐いた。


「この死体を王都へ送れ。解析を急がせろ」


「はっ!」


 伯爵はもう一度、砦の外を見た。

 日が沈み、戦場は闇に沈みつつある。

 その向こうで、帝国陣だけが不気味なほど整然と並んでいた。


※※※


 コンラートは援軍の編成を終えると、バルツ砦へ向かった。

 王都からバルツ砦までは、伝令馬でも三日はかかる。

 歩兵を伴えば速度は落ち、隊列も伸びる。到着はさらに遅くなるだろう。


 馬上で、ディートリヒが口を開いた。


「アイゼンハルト伯爵はご無事でしょうか。最近の帝国の動きは、かなりきな臭いです」


「何かあれば時間稼ぎに徹するだろう。帝国が何を仕掛けようと、そう簡単に崩れる御仁ではない」


 そう答えつつも、コンラートの胸を不安がよぎる。

 帝国が無策で攻めてくるはずがない。


「アデルは無事でしょうか……」


 これで何度目だろう。ディートリヒがまた呟いた。


「このタイミングだ。アデルの件も帝国の策かもしれん。……ジークフリート殿下も、何を考えていることやら」


 カルディア王国には三人の王子と二人の王女がいる。

 建国以来、王女が王位を継いだ例はなく、第三王子は病弱。


 王位継承戦は実質、第一王子と第二王子の争いだ。

 そして第一王子派の筆頭が、ローゼンベルク公爵家だった。


「公爵家の後ろ盾が崩れれば、王位継承戦も揺らぐ。……それでも殿下は、あの娘を切った」


 ディートリヒが歯を食いしばる。


「アデルに何かあれば、殿下を許せそうにありません……」


「迂闊なことを言うな。国が割れるような真似をすれば、それこそ帝国の思うつぼだ」


 コンラートはディートリヒを窘めた。


 バルツ砦まで、まだ時間がある。

 だが、いつまでもアデルのことばかり考えているわけにはいかなかった。


 コンラートは静かに息を吐き、思考を前線へ切り替えた。


※※※


 コンラートがバルツ砦に到着して目にした景色は、異様だった。


 まるで魔獣の大軍だ。

 人間を紙のように引き裂き、並の魔術などものともしない。

 そんな化け物じみた歩兵が列を成し、軍として押し寄せている。


 砦の前には、伯爵領兵の死体がいくつも積み上がっていた。

 事前にアイゼンハルト伯爵から報せは受けていたが、実物を見れば胃の底が冷える。


 アイゼンハルト伯爵が並び立ち、状況を説明する。


「帝国軍は薬のようなものを使って、歩兵を強化している様子です。我らはかなり苦戦を強いられています」


「うむ。ご苦労だった。――近辺の地図を見せてくれ」


 副官が机の上に地図を広げる。

 コンラートは覗き込み、砦と街道、河川、高地、退路を素早く頭に入れた。


「ハルデン砦の規模は?」


「ここ――バルツ砦と同程度です」


「よし」


 コンラートは指先で戦線をなぞり、即座に結論を下す。


「遅滞戦術を取る。バルツ砦は放棄だ。

 伯爵領兵はハルデン砦へ撤退し、第二防衛線を築く。王都兵が殿となって時間を稼ぐ」


 アイゼンハルト伯爵が悔しそうに眉を寄せた。


「……バルツ砦を、放棄ですか」


「どのみち時間の問題だ。兵をここで擦り潰すわけにはいかん」


 コンラートは冷たく言い切った。


「王都へ伝令を飛ばせ。敵歩兵に使われた薬の解析を急がせろ。対策がなければ、次も同じだ」


 命令が落ちると、周囲が慌ただしく動き出す。

 その日、王国のバルツ砦は――陥落した。

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