十七話
レオノーラは焦っていた。
グレイソン家は帝国と密約を交わしている。
王国が帝国に呑み込まれた暁には、グレイソン家に新たな地位と領地が与えられる。
その見返りに、王国内の情報を帝国へ流す――そういう取り決めだった。
すべての始まりは、帝国から密命が下った日だ。
そのときからレオノーラは学園で、ジークフリートに近づいた。
ジークフリートには、アデルという婚約者がいた。
公爵令嬢。優秀な成績。華やかな容姿。品行方正。
第一王子の婚約者として、非の打ちどころがない娘だった。
それなのに、ジークフリートはアデルを疎んじているように見えた。
理由が何であれ、そこには十分すぎる隙があった。
密命の内容は、アデルを利用してローゼンベルク家を崩すこと。
ローゼンベルク家は、カルディア王国軍の要だ。そこが揺らげば、王国そのものが揺らぐ。
レオノーラは、ジークフリートの理想を演じた。
弱く、愚かで、守ってやりたくなる女。
時には涙を見せ、時には怯え、時には信じ切った目で見上げる。
ジークフリートは扱いやすい男だった。
欲しがるものを差し出してやれば、簡単にこちらを信じる。
アデルをヴェルダ樹海へ送るところまでは、すべて順調だった。
ジークフリートは、レオノーラの望む通りに動いた。
(あれで終わるはずだったのに)
アデルは樹海で死ぬ。
黒竜が怒り、王国を襲う。
公爵家と王家の権威は失墜し、軍部は混乱する。
その隙に帝国が攻め込み、王国は呑まれる。
そしてグレイソン家は、帝国の支配下で新たな地位を得る。
その筋書きだった。
だが、アデルは生きて帰ってきた。
一時は殺害未遂の嫌疑で信用を落としたものの、黒竜の鱗を持ち帰った英雄として、今また風向きが変わりつつある。
しかも黒竜は樹海に留まり、王国を襲わない。
ローゼンベルク公爵は北東へ向かい、帝国との戦争を収めるために動いている。
(このまま戦が長引くなら、まだいい。……でも、もし帝国が退いたら?)
その瞬間、密約などなかったことにされる。
そして最後に切り捨てられるのは、グレイソン家だろう。
レオノーラの不安を察したのか、ジークフリートが手を取った。
「レオノーラ、心配するな。君のことは、何があろうと僕が守る」
甘い声音。優しい目。
けれどレオノーラは、その言葉を信じるほど愚かではない。
そもそも、ジークフリート自身の立場が危うくなりつつある。
王宮がいつまでもその暴走を許すはずがないし、公爵家まで敵に回る。
自分ひとり守れぬ男に、他人を守る力などあるものか。
胸の奥に湧いた冷めた思いを押し隠し、レオノーラは表情ひとつ変えずに答えた。
「ありがとうございます、殿下」
目を潤ませ、指先に力を込めて、ジークフリートの手を握り返す。
そんな仕草さえ、レオノーラにとっては武器だった。
※※※
翌日。
レオノーラは侍女の姿で、とある屋敷の廊下を歩いていた。
登記は別名義だが、実態はグレイソン家が用意した隠れ家である。
王都に潜む帝国の連絡網の中心。
そして、帝国のノイマン特務官が匿われている場所でもあった。
扉の前で立ち止まり、ひとつ息を整える。
ノックもせず、そのまま扉を開けた。
室内には香の匂いと、薄い酒気が満ちていた。
ノイマンは長椅子に背を預け、グラスの琥珀色をゆるりと揺らしている。
戦況が動いているというのに、その指先だけが妙に落ち着いて見えた。
「……呑気ね。状況、分かっているのかしら?」
冷ややかな声を投げても、ノイマンはすぐには視線すら寄越さない。
しばらく液面を眺めてから、ようやく気づいたように首だけを向けた。
「困っているのは君だけだろう。――帝国の勝ちは揺るがない」
「そうかしら? ローゼンベルク家はまだ健在よ」
ノイマンは薄く笑い、グラスを傾ける。
「どのみち王国には帝国軍を止められん。内側から崩せれば手間が省けたが――まあいい。安心しろ。グレイソン家との約束は守る」
自信に満ちた声音。
腹立たしいほどの余裕だった。
「……それで? アデル・ローゼンベルクは放っておくつもり?」
「殺したところで、軍務卿は揺らぎもしないだろう」
ノイマンは淡々と続ける。
「あの女の死に意味があったのは、黒竜を巻き込めるからだ」
もう興味がないとでも言いたげな口ぶりだ。
人の死を計画の一部として処理する冷たさに、レオノーラの背筋がひやりとする。
だが、ノイマンはそこで少しだけ話の向きを変えた。
「もっとも、あの女の護衛には興味がある」
「護衛?」
「ああ。まだ教えていなかったか」
ノイマンが室内の暗がりへ向かって声を投げる。
「ナハト。説明してやりなさい」
レオノーラは眉をひそめた。
この部屋にはノイマンと自分しかいない――そう思っていた。
「承知いたしました」
背後から、音もなく声がした。
振り向いた先にいたのは、狐面の女だった。
外套の奥から覗く肌には焼けた痕が残り、目だけがぞっとするほど冷たい。
「ヴェルダ樹海での件です」
女は淡々と話し始める。
「私は一時、黒竜の精神へ接続しました。……その際、記憶の表層が流れ込みました」
「記憶? ……それより、あなた、いつの間に――」
レオノーラの言葉など聞こえていないかのように、女は前を向いたまま続けた。
「黒竜は人間の赤子を育てていました。
そして――育った少女が、いまアデル・ローゼンベルクの傍にいます」
「そう……面白いだろう?」
ノイマンが喉の奥で笑う。
「我らの計画が狂った原因の一つ、と言っていい」
「黒竜に育てられた? そんなことが……」
「重要なのは、育てられたという事実ではない」
ノイマンはグラスを揺らし、愉快そうに言葉を選んだ。
「竜に育てられたからといって、竜になるわけでもあるまい。問題は、その少女の特殊性だ」
レオノーラは嫌な予感を覚えた。
ノイマンの目が、研究対象を見つけた学者のそれに変わる。
「元々は殺すつもりだったのだ。黒竜の怒りが公爵家へ向かえば面白かったのだがな」
さらりと言ってのける。
「だが、あの特殊性は興味深い」
「……どういうこと?」
「人間の限界を越える可能性がある。手に入れれば、帝国の研究は一段進む」
ノイマンは平然と言い、最後に淡々と付け加えた。
「もっとも、簡単には手が出せん。さらって黒竜を敵に回すのは割に合わないからな」
そう言って、ノイマンは話を切った。
視線はすでに酒へ戻っている。
気づけば、狐面の女の姿も消えていた。
部屋に残るのは揺れる灯りと、胸の奥に沈む冷たさだけだった。
※※※
バルツ砦は王国北東部、帝国との国境に面した前線拠点だ。
その城壁の上で、アイゼンハルト伯爵は眼前の光景に息を呑んだ。
帝国側の陣に歩兵が列を成している。
それだけなら、いつものことだ。こちらも歩兵を出し、魔術師で支援して押し返せばいい。
だが、今回の歩兵は違った。
鎧の隙間から覗く腕が、異様に太い。
筋肉が膨れ上がり、肩幅だけで人ひとり分ある。背丈は並の兵の二倍近い。
人間というより、大鬼という魔獣に近かった。
先陣を切った王国兵が突撃する。
だが――次の瞬間。
帝国兵が腕一本で槍をへし折った。
紙を裂くように、兵が宙へ飛ぶ。
ばたばたと王国兵が倒れていく。
叫び声が城壁まで届き、土煙が視界を曇らせた。
「退却の鐘を鳴らせ! 魔術師部隊は歩兵を援護しろ!」
伯爵の号令に、砦の鐘が鳴り響く。
城壁の上から魔術師が一斉に術式を組み、火炎が弧を描いて降り注いだ。
だが、帝国側で青白い防御膜が立ち上がる。
炎は壁に吸われ、砕け、散った。
防ぎ損ねた火炎が数名を焼いた。
しかし土煙の向こうから現れたのは――焼けた皮膚を意に介する様子もない、膨れ上がった体躯だった。
倒れた帝国兵もいたが、周囲はそれを気にする気配すらない。
退却する王国兵に帝国兵が追いすがり、腕を伸ばす。
掴まれた者は引き倒され、叩き飛ばされ、二度と立ち上がらない。
「……ちっ。なんだ、あの化け物は」
伯爵は唾を飲み、歯噛みした。
「王都からの援軍はまだか」
傍らの副官が即座に答える。
「先ほど先触れが到着しました。五日後には、王都軍が合流予定とのことです」
「五日後、か……」
伯爵は砦の石壁を見下ろした。
この壁があとどれほど持つのか、見極めきれない。少なくとも、正面から歩兵を出して押し返す戦い方は、もう取れない。
「――それまで、この砦がもてばいいがな」
その言葉は、ほとんど呻きだった。
※※※
砦の中庭では担架が列を作っていた。
血の匂い。呻き声。治療術師たちの指示が飛ぶ。
アイゼンハルト伯爵は視線を逸らさないまま、副官に命じた。
「あれを直接見た者を集めろ」
「はっ」
副官が走り去る。
伯爵は拳を握り、唇の端を歪めた。
帝国軍の質そのものは、王国と大差ない。
そのはずだった。
ほどなくして、現場から戻った斥候が雪崩れ込むように駆け込んできた。
顔は煤け、喉は嗄れている。
「伯爵! 敵兵の死体を一つ、回収しました!」
「……死体?」
「はい。ですが――」
斥候は言いよどみ、背中の布をめくった。
そこに転がっていたのは、膨れ上がった人間だった。
焼け焦げているが、皮膚は不自然なほど硬い。
アイゼンハルト伯爵は帝国兵の死体を念入りに検分する。
人外ではない。むしろ、人間を無理やり別のものへ変えたように見えた。
「伯爵、ここを見てください」
小さな注射痕。
針を刺し込んだような穴が、肌に残っていた。
伯爵の眉が動く。
「……魔術ではない。薬を投与したのか」
アイゼンハルト伯爵は、ゆっくり息を吐いた。
「この死体を王都へ送れ。解析を急がせろ」
「はっ!」
伯爵はもう一度、砦の外を見た。
日が沈み、戦場は闇に沈みつつある。
その向こうで、帝国陣だけが不気味なほど整然と並んでいた。
※※※
コンラートは援軍の編成を終えると、バルツ砦へ向かった。
王都からバルツ砦までは、伝令馬でも三日はかかる。
歩兵を伴えば速度は落ち、隊列も伸びる。到着はさらに遅くなるだろう。
馬上で、ディートリヒが口を開いた。
「アイゼンハルト伯爵はご無事でしょうか。最近の帝国の動きは、かなりきな臭いです」
「何かあれば時間稼ぎに徹するだろう。帝国が何を仕掛けようと、そう簡単に崩れる御仁ではない」
そう答えつつも、コンラートの胸を不安がよぎる。
帝国が無策で攻めてくるはずがない。
「アデルは無事でしょうか……」
これで何度目だろう。ディートリヒがまた呟いた。
「このタイミングだ。アデルの件も帝国の策かもしれん。……ジークフリート殿下も、何を考えていることやら」
カルディア王国には三人の王子と二人の王女がいる。
建国以来、王女が王位を継いだ例はなく、第三王子は病弱。
王位継承戦は実質、第一王子と第二王子の争いだ。
そして第一王子派の筆頭が、ローゼンベルク公爵家だった。
「公爵家の後ろ盾が崩れれば、王位継承戦も揺らぐ。……それでも殿下は、あの娘を切った」
ディートリヒが歯を食いしばる。
「アデルに何かあれば、殿下を許せそうにありません……」
「迂闊なことを言うな。国が割れるような真似をすれば、それこそ帝国の思うつぼだ」
コンラートはディートリヒを窘めた。
バルツ砦まで、まだ時間がある。
だが、いつまでもアデルのことばかり考えているわけにはいかなかった。
コンラートは静かに息を吐き、思考を前線へ切り替えた。
※※※
コンラートがバルツ砦に到着して目にした景色は、異様だった。
まるで魔獣の大軍だ。
人間を紙のように引き裂き、並の魔術などものともしない。
そんな化け物じみた歩兵が列を成し、軍として押し寄せている。
砦の前には、伯爵領兵の死体がいくつも積み上がっていた。
事前にアイゼンハルト伯爵から報せは受けていたが、実物を見れば胃の底が冷える。
アイゼンハルト伯爵が並び立ち、状況を説明する。
「帝国軍は薬のようなものを使って、歩兵を強化している様子です。我らはかなり苦戦を強いられています」
「うむ。ご苦労だった。――近辺の地図を見せてくれ」
副官が机の上に地図を広げる。
コンラートは覗き込み、砦と街道、河川、高地、退路を素早く頭に入れた。
「ハルデン砦の規模は?」
「ここ――バルツ砦と同程度です」
「よし」
コンラートは指先で戦線をなぞり、即座に結論を下す。
「遅滞戦術を取る。バルツ砦は放棄だ。
伯爵領兵はハルデン砦へ撤退し、第二防衛線を築く。王都兵が殿となって時間を稼ぐ」
アイゼンハルト伯爵が悔しそうに眉を寄せた。
「……バルツ砦を、放棄ですか」
「どのみち時間の問題だ。兵をここで擦り潰すわけにはいかん」
コンラートは冷たく言い切った。
「王都へ伝令を飛ばせ。敵歩兵に使われた薬の解析を急がせろ。対策がなければ、次も同じだ」
命令が落ちると、周囲が慌ただしく動き出す。
その日、王国のバルツ砦は――陥落した。




