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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
二章

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17/21

幕間① セルバ・ホフマン

 家臣たちが去り、広間に残る気配が少しずつ静まっていく。張りつめていた空気は、まだ解けていない。

 アデルはクラリスが用意した紅茶を口にしながら、ようやくひと息ついている。


「アデル様。ロベルトとイリスの件は、引き続きこちらで進めます」


「お願い。何かわかったら、すぐ教えてちょうだい」


 アデルは疲労の色を滲ませながらも、きちんと背筋を伸ばしていた。

 澄んだ青い瞳には、まだ緊張の色が残っている。

 年若い令嬢らしく華奢ではあるが、その佇まいは不思議と頼りなく見えない。細い身体の奥に、ぴんと張った芯が通っていた。


 その横顔を見た瞬間、セルバはふと目を止めた。


 先代公爵夫人ナタリアの面影が、そこにあったのだ。


 ナタリアはアデルの祖母にあたる。似ていても不思議はない。

 それでも、ふとした拍子にのぞく鋭い眼差しや、容易に人を寄せつけない張りつめた気配は、驚くほどよく似ていた。


 その顔を見ているうちに、セルバの脳裏には、まだ若かった頃の記憶がよみがえってくる。


※※※


 セルバがローゼンベルク家に使用人として雇われたのは、今から四十年前――十八歳の頃だった。

 当時、コンラートはまだ七歳。屋敷を治めていたのは、先代当主ルドルフ・ローゼンベルクである。


 セルバはホフマン家の三男だった。

 ホフマン家はいわゆる準男爵家で、もとは大きな商家から身を起こした家柄だ。

 爵位を得たのも、比較的新しい代のことだった。


 セルバの父は、ルドルフと仕事上の付き合いがあった。

 その縁で、セルバはローゼンベルク家へ上がることになったのである。


 もっとも、聞こえはいいが、実際には体のいい口減らしでもあった。

 三男に継がせる家も領地もない。商売を継がせるにも、上の兄たちがいる。

 ならば、有力貴族の家へ上げて縁を繋いでおく方が家のためになる――父はそう考えたのだろう。


 セルバ自身、それに強く逆らうつもりはなかった。

 ホフマン家にいても、自分の行く末はおおよそ見えている。

 ならば、より大きな家で役に立つ術を身につける方がいい。若いなりに、そう割り切っていた。


 だが、ローゼンベルク家の門をくぐった瞬間、その割り切りは少しだけ揺らいだ。


 屋敷が、あまりにも大きかった。

 門柱は高く、庭は広く、建物の壁には古く重い威厳が染みついている。

 商家上がりの準男爵家で育ったセルバにとって、それは同じ貴族の屋敷というより、ほとんど別世界だった。


 最初に通されたのは応接間だった。

 ほどなくして、先代当主ルドルフ・ローゼンベルクが姿を見せる。


 大柄で、威圧感のある男だった。

 軍人めいた骨太さがあり、ただ立っているだけで部屋の空気が引き締まる。

 セルバはすぐに膝を折り、深く頭を下げた。


「セルバ・ホフマンにございます。本日より、お仕えいたします」


 上擦らないよう気をつけたつもりだったが、声は少し硬かった。


「顔を上げろ」


 セルバが従うと、値踏みするような視線が落ちてきた。


「若いな」


「は」


「まあいい。若さはそのうち失せる。肝心なのは、使えるかどうかだ」


「心得ております」


 そう答えたときだった。


「あなた。初日から怯えさせてどうするの」


 よく通る女の声が、応接間の空気をふっと変えた。

 振り返った先にいたのが、ナタリア・ローゼンベルクだった。


 セルバは、その瞬間のことを今でもよく覚えている。


 美しい人だった。

 明るい色の髪を品よく結い上げ、青い瞳には凛とした光がある。

 やわらかな衣装をまとっているのに、立ち姿には不思議な緊張感があった。

 華やかさの奥に、簡単には揺るがない芯が通っている。


 ナタリアはセルバを見ると、わずかに首を傾げた。


「ホフマン家の三男だったかしら」


「……は、はい」


「緊張しているわね」


 見抜かれて、セルバはわずかに息を詰めた。


 ナタリアは小さく笑う。


「安心なさい。主人が口うるさかったら、私に言いなさいね」


「おい」


 ルドルフが低くたしなめると、ナタリアは涼しい顔で肩をすくめた。


「だって本当でしょう。あなたのその顔、初めて来た子には少し怖いのよ」


 そのやり取りに、セルバは一瞬だけ呆気に取られた。

 当主に対して、こんなふうに言えるものなのか。しかも、言われたルドルフも本気では怒っていない。


 ローゼンベルク家というのは、思っていたよりずっと妙な家かもしれない。

 その最初の印象を与えたのが、ナタリアだった。


※※※


 ナタリアは、周囲をよく見る人だった。

 それも、ただ気がつくというだけではない。

 相手が隠そうとしているものまで、当たり前のように見抜いてしまう。


 ローゼンベルク家へ仕えて、まだひと月も経たない頃だった。

 セルバは帳簿の整理を任され、夜更けまで机に向かっていた。


 商家育ちのセルバにとって、数字を扱うこと自体は苦ではない。

 だが、貴族の屋敷で動く金は、ホフマン家の比ではなかった。ひとつ間違えれば、ただの計算違いでは済まない。


 だからこそ、失敗したくなかった。

 新参者が使えぬと判断されれば、それで終わりだと思っていた。


 気づけば、夜は更け、蝋燭の火は短くなっていた。

 目の奥がじくじくと痛む。空腹もあったが、それより先に帳簿を終わらせねばという思いの方が強かった。


「まだ起きていたの」


 不意に声がして、セルバは肩を跳ねさせた。

 振り返ると、扉のところにナタリアが立っていた。


「……奥様」


「そんなに驚かなくてもいいじゃない」


 ナタリアはそう言って、机の上の帳簿を一瞥する。

 それだけで、セルバはなぜか言い訳をしたくなった。


「本日中に終わらせておきたく、少々」


「少々、ね」


 ナタリアは机に近づき、セルバの顔を覗き込んだ。

 青い瞳が、逃げ道を塞ぐように静かに細められる。


「あなた、顔色が悪いわね。ご飯も食べていないのでしょう」


 セルバは息を呑んだ。


「……そのようなことは」


「嘘を言わないで」


 ナタリアはさらりと言い、机の端を指で叩いた。


「役に立ちたいと思うのは結構よ。でも、潰れてしまったら意味がないでしょう」


 叱責というほどきつい声ではない。

 けれど、その言葉は深く刺さった。


 ナタリアは持ってきた盆を机に置いた。

 湯気の立つスープと、小さなパンが載っている。


「食べて、今日はもう休みなさい。帳簿は逃げないわ」


「……しかし」


「これは命令よ、セルバ」


 その口調で言われると、逆らえなかった。

 ナタリアは厳しい。だが、その厳しさは人を守るためにある。


 セルバが頭を下げると、ナタリアはわずかに表情をやわらげた。


「真面目なのは長所ね。でも、自分を粗末にしないでね。覚えておきなさい」


 その言葉を、セルバは長く忘れられなかった。


※※※


 ナタリアは、一見すると冷たい印象を与える。

 けれど実際には、驚くほど細やかに周囲を見ていた。


 セルバが侍女のアグネスと付き合い始めたのも、ナタリアが真っ先に気づいた。


「あら、いいことがあったのかしら? 恋人でもできた?」


 そのときばかりは、さすがのセルバも表情を崩した。

 ナタリアが珍しく意地の悪そうに笑ったのを覚えている。


「どんな相手なの? 教えてちょうだいな」


 珍しく狼狽えながら、根掘り葉掘り答えさせられたものだった。


 ようやく解放されるかと思ったとき、ナタリアはふっと笑みを引っ込めた。


「……セルバ」


「は、はい」


「好きになったのなら、大事にしなさい」


 その一言だけは、からかいではなかった。


「あなたは自分のことを後回しにしがちだから」


 ナタリアは静かに言う。


「だからこそ、せめて互いのことくらい、ちゃんと大切にしなさい」


 セルバは、そのときだけはまっすぐ頷くしかなかった。


※※※


 セルバがローゼンベルク家に来てから二十年が経った頃、事件が起こった。

 ルドルフが死んだのだ。


 突然の報せだった。

 軍務卿として戦地へ赴き、その地で攻撃を受けて命を落とした。


 当時のコンラートは二十七歳。

 すでに結婚しており、妻ソフィアの腹の中にはディートリヒがいた。


 訃報が届いた日のことを、セルバはよく覚えている。

 屋敷は静まり返っていた。誰も大声を出してはいないのに、空気そのものが重く沈み込んでいた。


 コンラートは無言で立ち尽くしていた。

 当主として振る舞わねばならない。けれど、まだ父を失った息子でもある。

 その板挟みの中で、悲しみを見せまいとしているのが、かえって痛々しかった。


 ソフィアはお腹に子を抱えながら、唇を噛んで涙をこらえていた。

 そんな二人のそばに立ち、ナタリアは崩れなかった。


「セルバ。コンラートたちをよろしくね」


「承知しております」


 その声はいつも通り静かで、無理に強がっているようには聞こえなかった。

 だがセルバには分かっていた。ナタリアもまた、夫を失ったばかりなのだと。


 それでもナタリアは、屋敷を止めなかった。

 弔いの手配を整え、動揺する家臣を抑え、コンラートには当主として必要な動きをひとつひとつ示した。

 ソフィアには休むよう言い、自分はほとんど眠っていないはずなのに、誰の前でも弱音を吐かなかった。


 セルバは、その姿を黙って見ていた。

 この家がまだ崩れずにいるのは、この人がいるからだと、嫌でも分かった。


 セルバもまた、コンラートたちを支えた。

 突然当主となったコンラートだったが、見事にその務めを果たしていった。

 そこにはもちろん、本人の資質もある。だが、ナタリアが陰で支え続けたこともまた、大きかった。


 だが、悲しい出来事は続いていく。


 それから六年後――アデルが生まれた翌年のことだ。

 アデルの母、ソフィアが病で亡くなった。


 コンラートも、ナタリアも、セルバも、できる限りの手は尽くした。

 医師を呼び、薬をかき集めたが、それでもどうにもならなかった。


 ソフィアが亡くなったあとの屋敷は、以前とは別の意味で静かだった。

 ルドルフを失ったときの重苦しい衝撃とは違う。じわじわと冷えていくような沈黙だった。


 コンラートはさらに口数を減らした。

 幼い子どもたちの前で弱さを見せぬようにしていたのだろうが、その沈黙は時に、かえって孤独に見えた。


 そんな静まり返った屋敷の中で、ナタリアは今度は母親代わりとして、子どもたちのそばに立った。

 だが、その役目も長くは続かなかった。


 さらに五年後。

 アデルが六歳のとき、ナタリアは世を去った。


 最初に体調を崩したときも、ナタリアは大したことではないと言った。

 少し休めば戻る、と。実際、何日かは以前と変わらぬように振る舞っていた。


 けれど、セルバの目には分かった。

 声の力が薄れている。立ち上がるとき、ほんのわずかにふらついている。


 それでもナタリアは、最後まで屋敷のことを気にしていた。


「セルバ。最近、アデルが少し本を読むようになったのよ」


 寝台の上で、かすかに笑ってそう言ったことを覚えている。


「いつも、難しい顔をして読んでいるの。あの子、分からないことがあると、すぐ一人で抱え込むでしょう」


 ナタリアはそんなふうに、最後の最後まで子どもたちのことを案じて亡くなった。


 セルバは、何か大切なものがごっそり抜き取られたような気分だった。


 葬儀の日。

 子どもたちは泣いていた。

 アデルもまた、小さな肩を震わせて涙を流していた。


 そんなアデルが、ふいにセルバの服の裾を引いた。


「セルバ。大丈夫? 悲しそうな顔してるよ」


 セルバは驚いた。

 葬儀のあいだ、表情を変えずにいたつもりだったからだ。


「アデル様、ありがとうございます。大丈夫でございますよ」


 アデルはそんなセルバを、じっと見つめた。


「嘘つかないで、セルバ。大丈夫じゃないでしょう。泣いてもいいんだよ」


 セルバは思わず目を見開いた。

 その眼差しに、ナタリアの面影を見たのだ。


 次の瞬間、気づけば目には涙が溢れていた。


 人前で泣くつもりなどなかった。

 使用人たるもの、主家の葬儀で取り乱すなどあってはならない。

 そう自分に言い聞かせていたのに、幼いアデルの一言は、押し込めていたものをあっさりと引きずり出してしまった。


 セルバは慌てて顔を背けた。

 だが、アデルは逃がしてくれなかった。


「セルバも、ナタリア様のこと好きだったんでしょう?」


 涙で濡れた青い瞳が、まっすぐこちらを見上げている。

 まだ幼い、子どもの顔だった。


「……ええ」


 絞り出すように答えると、アデルは小さく頷いた。


「なら、悲しいのは同じだね」


 そう言って、アデルはそっとセルバの手を取った。

 その小さな温もりが、驚くほどセルバの心を救ってくれた。


※※※


 記憶から引き戻されると、部屋にはまだ紅茶の香りが残っていた。


 アデルはカップを置き、静かにセルバを見上げる。


「……セルバ?」


 少し不思議そうな声だった。

 黙り込んでいたことに気づき、セルバはわずかに頭を下げた。


「失礼いたしました。少し、昔のことを思い出しておりました」


「昔のこと?」


「ええ。先代奥様のことを」


 その名を聞いて、アデルの表情がほんの少し和らいだ。

 ナタリアの記憶は、アデルにとっても大切なものなのだろう。


「……おばあ様の?」


「はい」


 セルバは短く答える。

 それ以上を口にすれば、余計な感傷が滲みそうだった。


 だが、アデルは小さく首を傾げた。


「小さいころだから、ちゃんとは覚えていないの。でも……大好きだったのは覚えてる」


 セルバは一瞬だけ目を細める。


「よく似ておられます」


「顔が?」


「それもございますが……そうではなく」


 セルバは言葉を選んだ。

 アデルは静かに待っている。


「人の痛みに気づいてしまうところが、です」


 そう言うと、アデルは少しだけ目を伏せた。


「……そんなことはないと思うのだけれど」


 セルバは珍しく、ほんのわずかに口元を緩めた。


「先代奥様も、同じようなことを仰っておりました」


 アデルは目を瞬く。

 それから、小さく笑った。


「そう。なら、そうなのかもしれないわね」


 照れくさそうに、アデルが紅茶を口にする。


 やがてアデルは、まっすぐセルバを見返した。

 その瞳には、いつもの張りつめた青が戻っていた。


「……いつもありがとう、セルバ」


 それは短い言葉だった。

 けれど、セルバにはそれで十分だった。

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