幕間① セルバ・ホフマン
家臣たちが去り、広間に残る気配が少しずつ静まっていく。張りつめていた空気は、まだ解けていない。
アデルはクラリスが用意した紅茶を口にしながら、ようやくひと息ついている。
「アデル様。ロベルトとイリスの件は、引き続きこちらで進めます」
「お願い。何かわかったら、すぐ教えてちょうだい」
アデルは疲労の色を滲ませながらも、きちんと背筋を伸ばしていた。
澄んだ青い瞳には、まだ緊張の色が残っている。
年若い令嬢らしく華奢ではあるが、その佇まいは不思議と頼りなく見えない。細い身体の奥に、ぴんと張った芯が通っていた。
その横顔を見た瞬間、セルバはふと目を止めた。
先代公爵夫人ナタリアの面影が、そこにあったのだ。
ナタリアはアデルの祖母にあたる。似ていても不思議はない。
それでも、ふとした拍子にのぞく鋭い眼差しや、容易に人を寄せつけない張りつめた気配は、驚くほどよく似ていた。
その顔を見ているうちに、セルバの脳裏には、まだ若かった頃の記憶がよみがえってくる。
※※※
セルバがローゼンベルク家に使用人として雇われたのは、今から四十年前――十八歳の頃だった。
当時、コンラートはまだ七歳。屋敷を治めていたのは、先代当主ルドルフ・ローゼンベルクである。
セルバはホフマン家の三男だった。
ホフマン家はいわゆる準男爵家で、もとは大きな商家から身を起こした家柄だ。
爵位を得たのも、比較的新しい代のことだった。
セルバの父は、ルドルフと仕事上の付き合いがあった。
その縁で、セルバはローゼンベルク家へ上がることになったのである。
もっとも、聞こえはいいが、実際には体のいい口減らしでもあった。
三男に継がせる家も領地もない。商売を継がせるにも、上の兄たちがいる。
ならば、有力貴族の家へ上げて縁を繋いでおく方が家のためになる――父はそう考えたのだろう。
セルバ自身、それに強く逆らうつもりはなかった。
ホフマン家にいても、自分の行く末はおおよそ見えている。
ならば、より大きな家で役に立つ術を身につける方がいい。若いなりに、そう割り切っていた。
だが、ローゼンベルク家の門をくぐった瞬間、その割り切りは少しだけ揺らいだ。
屋敷が、あまりにも大きかった。
門柱は高く、庭は広く、建物の壁には古く重い威厳が染みついている。
商家上がりの準男爵家で育ったセルバにとって、それは同じ貴族の屋敷というより、ほとんど別世界だった。
最初に通されたのは応接間だった。
ほどなくして、先代当主ルドルフ・ローゼンベルクが姿を見せる。
大柄で、威圧感のある男だった。
軍人めいた骨太さがあり、ただ立っているだけで部屋の空気が引き締まる。
セルバはすぐに膝を折り、深く頭を下げた。
「セルバ・ホフマンにございます。本日より、お仕えいたします」
上擦らないよう気をつけたつもりだったが、声は少し硬かった。
「顔を上げろ」
セルバが従うと、値踏みするような視線が落ちてきた。
「若いな」
「は」
「まあいい。若さはそのうち失せる。肝心なのは、使えるかどうかだ」
「心得ております」
そう答えたときだった。
「あなた。初日から怯えさせてどうするの」
よく通る女の声が、応接間の空気をふっと変えた。
振り返った先にいたのが、ナタリア・ローゼンベルクだった。
セルバは、その瞬間のことを今でもよく覚えている。
美しい人だった。
明るい色の髪を品よく結い上げ、青い瞳には凛とした光がある。
やわらかな衣装をまとっているのに、立ち姿には不思議な緊張感があった。
華やかさの奥に、簡単には揺るがない芯が通っている。
ナタリアはセルバを見ると、わずかに首を傾げた。
「ホフマン家の三男だったかしら」
「……は、はい」
「緊張しているわね」
見抜かれて、セルバはわずかに息を詰めた。
ナタリアは小さく笑う。
「安心なさい。主人が口うるさかったら、私に言いなさいね」
「おい」
ルドルフが低くたしなめると、ナタリアは涼しい顔で肩をすくめた。
「だって本当でしょう。あなたのその顔、初めて来た子には少し怖いのよ」
そのやり取りに、セルバは一瞬だけ呆気に取られた。
当主に対して、こんなふうに言えるものなのか。しかも、言われたルドルフも本気では怒っていない。
ローゼンベルク家というのは、思っていたよりずっと妙な家かもしれない。
その最初の印象を与えたのが、ナタリアだった。
※※※
ナタリアは、周囲をよく見る人だった。
それも、ただ気がつくというだけではない。
相手が隠そうとしているものまで、当たり前のように見抜いてしまう。
ローゼンベルク家へ仕えて、まだひと月も経たない頃だった。
セルバは帳簿の整理を任され、夜更けまで机に向かっていた。
商家育ちのセルバにとって、数字を扱うこと自体は苦ではない。
だが、貴族の屋敷で動く金は、ホフマン家の比ではなかった。ひとつ間違えれば、ただの計算違いでは済まない。
だからこそ、失敗したくなかった。
新参者が使えぬと判断されれば、それで終わりだと思っていた。
気づけば、夜は更け、蝋燭の火は短くなっていた。
目の奥がじくじくと痛む。空腹もあったが、それより先に帳簿を終わらせねばという思いの方が強かった。
「まだ起きていたの」
不意に声がして、セルバは肩を跳ねさせた。
振り返ると、扉のところにナタリアが立っていた。
「……奥様」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
ナタリアはそう言って、机の上の帳簿を一瞥する。
それだけで、セルバはなぜか言い訳をしたくなった。
「本日中に終わらせておきたく、少々」
「少々、ね」
ナタリアは机に近づき、セルバの顔を覗き込んだ。
青い瞳が、逃げ道を塞ぐように静かに細められる。
「あなた、顔色が悪いわね。ご飯も食べていないのでしょう」
セルバは息を呑んだ。
「……そのようなことは」
「嘘を言わないで」
ナタリアはさらりと言い、机の端を指で叩いた。
「役に立ちたいと思うのは結構よ。でも、潰れてしまったら意味がないでしょう」
叱責というほどきつい声ではない。
けれど、その言葉は深く刺さった。
ナタリアは持ってきた盆を机に置いた。
湯気の立つスープと、小さなパンが載っている。
「食べて、今日はもう休みなさい。帳簿は逃げないわ」
「……しかし」
「これは命令よ、セルバ」
その口調で言われると、逆らえなかった。
ナタリアは厳しい。だが、その厳しさは人を守るためにある。
セルバが頭を下げると、ナタリアはわずかに表情をやわらげた。
「真面目なのは長所ね。でも、自分を粗末にしないでね。覚えておきなさい」
その言葉を、セルバは長く忘れられなかった。
※※※
ナタリアは、一見すると冷たい印象を与える。
けれど実際には、驚くほど細やかに周囲を見ていた。
セルバが侍女のアグネスと付き合い始めたのも、ナタリアが真っ先に気づいた。
「あら、いいことがあったのかしら? 恋人でもできた?」
そのときばかりは、さすがのセルバも表情を崩した。
ナタリアが珍しく意地の悪そうに笑ったのを覚えている。
「どんな相手なの? 教えてちょうだいな」
珍しく狼狽えながら、根掘り葉掘り答えさせられたものだった。
ようやく解放されるかと思ったとき、ナタリアはふっと笑みを引っ込めた。
「……セルバ」
「は、はい」
「好きになったのなら、大事にしなさい」
その一言だけは、からかいではなかった。
「あなたは自分のことを後回しにしがちだから」
ナタリアは静かに言う。
「だからこそ、せめて互いのことくらい、ちゃんと大切にしなさい」
セルバは、そのときだけはまっすぐ頷くしかなかった。
※※※
セルバがローゼンベルク家に来てから二十年が経った頃、事件が起こった。
ルドルフが死んだのだ。
突然の報せだった。
軍務卿として戦地へ赴き、その地で攻撃を受けて命を落とした。
当時のコンラートは二十七歳。
すでに結婚しており、妻ソフィアの腹の中にはディートリヒがいた。
訃報が届いた日のことを、セルバはよく覚えている。
屋敷は静まり返っていた。誰も大声を出してはいないのに、空気そのものが重く沈み込んでいた。
コンラートは無言で立ち尽くしていた。
当主として振る舞わねばならない。けれど、まだ父を失った息子でもある。
その板挟みの中で、悲しみを見せまいとしているのが、かえって痛々しかった。
ソフィアはお腹に子を抱えながら、唇を噛んで涙をこらえていた。
そんな二人のそばに立ち、ナタリアは崩れなかった。
「セルバ。コンラートたちをよろしくね」
「承知しております」
その声はいつも通り静かで、無理に強がっているようには聞こえなかった。
だがセルバには分かっていた。ナタリアもまた、夫を失ったばかりなのだと。
それでもナタリアは、屋敷を止めなかった。
弔いの手配を整え、動揺する家臣を抑え、コンラートには当主として必要な動きをひとつひとつ示した。
ソフィアには休むよう言い、自分はほとんど眠っていないはずなのに、誰の前でも弱音を吐かなかった。
セルバは、その姿を黙って見ていた。
この家がまだ崩れずにいるのは、この人がいるからだと、嫌でも分かった。
セルバもまた、コンラートたちを支えた。
突然当主となったコンラートだったが、見事にその務めを果たしていった。
そこにはもちろん、本人の資質もある。だが、ナタリアが陰で支え続けたこともまた、大きかった。
だが、悲しい出来事は続いていく。
それから六年後――アデルが生まれた翌年のことだ。
アデルの母、ソフィアが病で亡くなった。
コンラートも、ナタリアも、セルバも、できる限りの手は尽くした。
医師を呼び、薬をかき集めたが、それでもどうにもならなかった。
ソフィアが亡くなったあとの屋敷は、以前とは別の意味で静かだった。
ルドルフを失ったときの重苦しい衝撃とは違う。じわじわと冷えていくような沈黙だった。
コンラートはさらに口数を減らした。
幼い子どもたちの前で弱さを見せぬようにしていたのだろうが、その沈黙は時に、かえって孤独に見えた。
そんな静まり返った屋敷の中で、ナタリアは今度は母親代わりとして、子どもたちのそばに立った。
だが、その役目も長くは続かなかった。
さらに五年後。
アデルが六歳のとき、ナタリアは世を去った。
最初に体調を崩したときも、ナタリアは大したことではないと言った。
少し休めば戻る、と。実際、何日かは以前と変わらぬように振る舞っていた。
けれど、セルバの目には分かった。
声の力が薄れている。立ち上がるとき、ほんのわずかにふらついている。
それでもナタリアは、最後まで屋敷のことを気にしていた。
「セルバ。最近、アデルが少し本を読むようになったのよ」
寝台の上で、かすかに笑ってそう言ったことを覚えている。
「いつも、難しい顔をして読んでいるの。あの子、分からないことがあると、すぐ一人で抱え込むでしょう」
ナタリアはそんなふうに、最後の最後まで子どもたちのことを案じて亡くなった。
セルバは、何か大切なものがごっそり抜き取られたような気分だった。
葬儀の日。
子どもたちは泣いていた。
アデルもまた、小さな肩を震わせて涙を流していた。
そんなアデルが、ふいにセルバの服の裾を引いた。
「セルバ。大丈夫? 悲しそうな顔してるよ」
セルバは驚いた。
葬儀のあいだ、表情を変えずにいたつもりだったからだ。
「アデル様、ありがとうございます。大丈夫でございますよ」
アデルはそんなセルバを、じっと見つめた。
「嘘つかないで、セルバ。大丈夫じゃないでしょう。泣いてもいいんだよ」
セルバは思わず目を見開いた。
その眼差しに、ナタリアの面影を見たのだ。
次の瞬間、気づけば目には涙が溢れていた。
人前で泣くつもりなどなかった。
使用人たるもの、主家の葬儀で取り乱すなどあってはならない。
そう自分に言い聞かせていたのに、幼いアデルの一言は、押し込めていたものをあっさりと引きずり出してしまった。
セルバは慌てて顔を背けた。
だが、アデルは逃がしてくれなかった。
「セルバも、ナタリア様のこと好きだったんでしょう?」
涙で濡れた青い瞳が、まっすぐこちらを見上げている。
まだ幼い、子どもの顔だった。
「……ええ」
絞り出すように答えると、アデルは小さく頷いた。
「なら、悲しいのは同じだね」
そう言って、アデルはそっとセルバの手を取った。
その小さな温もりが、驚くほどセルバの心を救ってくれた。
※※※
記憶から引き戻されると、部屋にはまだ紅茶の香りが残っていた。
アデルはカップを置き、静かにセルバを見上げる。
「……セルバ?」
少し不思議そうな声だった。
黙り込んでいたことに気づき、セルバはわずかに頭を下げた。
「失礼いたしました。少し、昔のことを思い出しておりました」
「昔のこと?」
「ええ。先代奥様のことを」
その名を聞いて、アデルの表情がほんの少し和らいだ。
ナタリアの記憶は、アデルにとっても大切なものなのだろう。
「……おばあ様の?」
「はい」
セルバは短く答える。
それ以上を口にすれば、余計な感傷が滲みそうだった。
だが、アデルは小さく首を傾げた。
「小さいころだから、ちゃんとは覚えていないの。でも……大好きだったのは覚えてる」
セルバは一瞬だけ目を細める。
「よく似ておられます」
「顔が?」
「それもございますが……そうではなく」
セルバは言葉を選んだ。
アデルは静かに待っている。
「人の痛みに気づいてしまうところが、です」
そう言うと、アデルは少しだけ目を伏せた。
「……そんなことはないと思うのだけれど」
セルバは珍しく、ほんのわずかに口元を緩めた。
「先代奥様も、同じようなことを仰っておりました」
アデルは目を瞬く。
それから、小さく笑った。
「そう。なら、そうなのかもしれないわね」
照れくさそうに、アデルが紅茶を口にする。
やがてアデルは、まっすぐセルバを見返した。
その瞳には、いつもの張りつめた青が戻っていた。
「……いつもありがとう、セルバ」
それは短い言葉だった。
けれど、セルバにはそれで十分だった。




