十六話
リィは部屋で、ぼんやりと壁を見つめていた。
寂しい。けれど、屋敷全体がずっと張りつめているのも分かる。
皆、大変なのだ。さっきアデルが来たのに、すぐまたいなくなってしまった。
(たぶん、すごく悪いことが起きてる)
そのとき、控えめなノックが響いた。
「……リィ様。お客様です」
ルイーズが扉を開ける。続いてセルバが姿を見せた。いつものように背筋は伸び、表情もほとんど動かない。
「なんだ、セルバか……」
ぼやいた次の瞬間、その後ろからもう一人が現れる。
アデルだ。
胸の奥がぱっと明るくなった。気づけば駆け出し、そのまま勢いよく飛びついていた。
「うわっ、リィ……! さっき会ったばかりでしょ」
呆れたように言いながらも、アデルの手は自然に頭を撫でてくれる。
そのぬくもりにほっとしかけたところで、アデルの目がすっと引き締まった。
「犯人は、おそらくロベルトよ。捕まえに行きましょう」
「……ロベルト、ですか」
セルバの声が、わずかに低くなる。
アデルはそのままリィにも目を向けた。
「リィも付いてきてくれる? 抵抗されるかもしれないの。セルバも、お願い」
「僕に任せろ。吹っ飛ばしてやる」
「承知いたしました」
セルバが恭しく頷く。
リィはまだアデルにしがみついたままだった。アデルが苦笑しながら腕をほどこうとした、そのとき。
扉が勢いよく開いた。クラリスが息を切らせて飛び込んでくる。
「アデル様、ブルーノ殿から伝令です。――ロベルトが門前で暴れていると。至急、応援を、と」
「ロベルトが……? ブルーノが手こずるなんて」
アデルがセルバを見る。
セルバの眉が、ほんのわずかに動いた。
「分かりました。人を回します」
リィは顔を上げた。
「誰かが暴れてるの? 僕なら止められるぞ」
一瞬だけ、アデルとセルバの視線がぶつかる。
「……リィ、先に行ってくれる? くれぐれも無茶はしないで」
アデルは即座に言ったが、セルバはなお渋い顔をしていた。
「しかし、あまり派手にやると、リィ様の存在が知れ渡る恐れがあります」
リィはすかさず畳みかける。
「頼むよ、セルバ。もう面白くないなんて言わないからさ」
「…………」
セルバはしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐いた。
「……アデル様が仰るなら。こちらも応援は向かわせます」
「わかった!」
リィは大きく頷くと、そのまま部屋を飛び出した。
※※※
門へ向かう途中から、血の匂いがした。
鼻の奥にまとわりつく、生ぬるい匂いだ。
そして――見つける。
気持ち悪い人間。
身体が異様に膨れ上がり、筋肉が鎧のように盛り上がっている。
人間の形のまま、人間ではない何かに変わろうとしているみたいだった。
リィよりずっと大きい。けれど、それだけだ。
ヴェルダ樹海には、もっと大きい魔獣がいくらでもいた。
「なんなんだよぉ……てめぇはよぉ……邪魔ばっかしやがって……!」
ロベルトは泡を噛むように喚き、リィを睨みつける。
リィは首を傾げた。
「……僕なんかした?」
返事はない。
次の瞬間、ロベルトがそのまま襲いかかってきた。鋭い手刀が唸りを上げる。
リィは一歩も引かず、その手首を掴む。
体重をずらし、流すように力を使って引き倒した。
殴り合いは、リィの得意分野だった。
魔術は苦手でも、こういうのは分かりやすい。
にやりと笑う。
ロベルトがよろよろと起き上がった。
「くそが……くそが……!」
大振りに拳を振りかぶる。
リィはそれを正面から受け止めた。
衝撃は大きい。だが、痛みはほとんどない。
「今度は、こっちの番だ」
短く言って、ロベルトの顔面へ拳を叩き込んだ。
――鈍い音。
次の瞬間、ロベルトの身体が弾けるように吹き飛び、門壁へ叩きつけられた。
砂埃が舞う。ロベルトはそのまま崩れ落ち、動かなくなった。
……死んではいない。
気絶しただけだ。
決着は、思っていたより早かった。
※※※
その後、ロベルトと商人たちは拘束された。
治安隊にも通報し、事情聴取はこれからだ。
ブルーノの怪我は幸い軽く、数日で回復する見込みだった。
アグネスもまだ意識は戻らないものの、経過は順調で、医師は「数日で目を覚ますだろう」と言っている。
そのころ、アデルはクラリスを伴って廊下を歩いていた。
足取りは静かだが、目つきは冷えている。
やがて、ひとつ目の扉の前で足を止めた。
ニーナの部屋だ。
扉の向こうで静かに座っていたニーナは、アデルの姿を見るとすぐに背を正した。
「ニーナ。解放よ。内通者は特定されたわ」
「それは……よかったです」
「このままイリスのところへ行く。付いてきて」
「もちろんです。私はアデル様の護衛ですから」
ニーナの返答に揺らぎはない。
だからこそ、次の扉の前では空気が一段冷えた。
イリスの部屋。
扉が開くと、イリスが顔を上げる。
背後にいるニーナに気づいた瞬間、ぱっと笑った。
「やった! アデル様、やっと釈放なんですね!」
アデルは静かに首を振る。
「いいえ。――これから取り調べよ」
イリスの笑顔が、そこでぴたりと止まった。
アデルは一歩だけ踏み込み、まっすぐ告げる。
「二人目の内通者。あなたにね」
※※※
「……何を言っているんですか、アデル様」
もうイリスは笑っていなかった。
貼りついた明るさは消え、冷えた目だけが残っている。
アデルは一度だけニーナへ目をやる。
「ニーナにエステルの死を伝えたとき、あなた――『やはり』と言ったわね」
「はい。言いました」
ニーナがはっきり答えた。
「ニーナは昨夜、足音で目が覚めたと言った。……さすが元冒険者ね」
イリスの眉が訝しげに寄る。
視線がちらりとニーナへ流れ、すぐにアデルへ戻った。
「それは、ニーナさんなら……」
「ええ。だからこそ聞くわ」
アデルはその視線を受けたまま言葉を継いだ。
「あなたは、どうしてエステルが殺されたと思ったの?」
「……え?」
そこで、イリスの表情がわずかに強張る。
アデルは、昨夜の会話をそのままなぞるように言った。
「あなた、こう言ったわ。
『それで、私を疑ってるんですよね? でも、部屋から出られませんよ?』――って」
イリスが瞬きを繰り返す。
そのわずかな間に、アデルはさらに畳みかけた。
「私は亡くなったとしか言っていない。事故かもしれない。自殺かもしれない。
……なのにあなたは、最初から殺人事件だと決めてかかって、自分の弁明を始めた」
「それは……状況が状況ですし。なんとなく……」
「なんとなく?」
アデルの声から熱が消える。
「エステルは『死にたい』ってよく口にしていた子だった。なら、まず自殺を疑うはずよ。
それなのに、あなたの口から出たのは閉じ込められていたという言い訳だった」
イリスの唇が、わずかに歪む。
「……それだけで、私を内通者だと?」
「それだけじゃないわ」
アデルは一拍置いて、別の線を示した。
「アグネスが殺されなかった理由も考えたの」
イリスの目がさらに冷たくなる。
「犯人――ロベルトは、かなり長い間アグネスの部屋にいたはずよ。
それなのに、アグネスに対しては後頭部を一度殴っただけだった」
「できるだけ、殺したくなかったのでは?」
イリスが反論する。
「その可能性もある。でも、別の見方もできるわ」
アデルは少しだけ間を置いた。
「もし犯人が、あとで証言してほしいと思っていたなら辻褄が合う」
「どういうことです?」
「内通容疑者の一人が殺されて、すぐ別の人物が失踪する。
数日後、アグネスが目を覚まして『犯人はその失踪者だった』と言う。――そうなったら、私たちはどう思う?」
指を一本立てるようにして、続ける。
「エステルは口封じに殺され、内通者はもういない。そう結論づけたくなる。
わざわざ無関係の人間を殺す理由はないってね」
イリスは黙っている。
「でも、それが罠だったら?」
アデルの目が細くなる。
「失踪者は表向きの犯人として消える。
でも本当は、もう一人の内通者が屋敷の中に残っている」
低く、イリスが息を吐いた。
「……それが私だと言いたいんですか」
「違う、と言える?」
すぐには返ってこなかった。
イリスの目が揺れる。だが次の瞬間には、またあの冷たさで塗り直されていた。
「どちらにせよ、あなたは釈放しないわ」
アデルは結論だけを告げる。
「ロベルトも捕まえた。あなたたちがどこと繋がっているのか、徹底的に調べる」
イリスは、くつくつと笑った。
今まで見たことのない、底の冷えた笑みだった。
「ロベルト、捕まったんですか。鈍い男」
面白がるように言葉を続ける。
「でも、ロベルトからは何も出ませんよ。あれは私に惚れていただけですから」
指先が、宙に何かを書くようにふわりと動く。
「それとアデル様。惜しいですけど、ちょっと外れています」
アデルが目を細めた。
「エステルは、正真正銘の内通者でしたよ。
私が母親のことを囁けば、あっさり従いました」
「……仲間を殺したというの?」
「仲間?」
イリスは肩をすくめる。
「エステルもロベルトも、私にとっては手駒です。使い捨て」
しばらく、二人は睨み合った。
「ローゼンベルク家を舐めないでもらいたいわね。取り調べ、覚悟してもらうわ」
「アデル様も、くれぐれも気をつけて。敵は強大ですよ」
アデルはイリスを見下ろしたまま、やがて部屋を出た。
外にはセルバが待っている。
「イリスを拘束して。知っていることを吐かせるのよ」
「承知いたしました」
いつも通り、セルバが恭しく答える。
こうして、エステル殺人事件は――ひとまず幕を引いた。
※※※
事件から数日が経った。
ロベルトとイリスへの事情聴取は続いているが、有益な情報はまだ出てこない。
アデルは別邸の広間に立っていた。
集められた家臣たちを見回し、一つ息を置く。
「いま、ローゼンベルク家は危機の中にあるわ。父と兄は帝国との戦へ向かっている。
エステルは殺され、アグネスは重体。屋敷の中に密偵が入り込んでいたことも分かった」
家臣たちの間に不安のざわめきが走る。
それでもアデルは目を逸らさず、言い切った。
「不安なのは当然よ。けれど、ローゼンベルク家は昔から、いかなる困難にも打ち勝ってきた。
私もヴェルダ樹海から生きて戻ってきたわ。――私たちは決して屈しない」
短い沈黙が落ちる。
やがて、家臣たちの表情がわずかに引き締まったのを見て、アデルは続けた。
「これからも大変なことは続くと思う。けれど、どうかついてきてほしい。……そして、一人紹介したい者がいるの」
合図を送ると、リィが一歩前に出た。
「元冒険者のリィよ。私が護衛としてスカウトしてきたの。ニーナと共に、私に付いてもらうわ」
「え、えーと……よろしくお願いします」
リィは緊張した様子で頭を下げる。
「若いけれど、かなりの腕利きよ。ロベルトを取り押さえたのも彼女だから」
リィをいつまでも隠してはおけない。
考えた末に、アデルは護衛として表に出すことにした。
もちろん、黒竜に育てられたということは伏せている。
紹介が終わると、セルバが前へ出て家臣たちを解散させた。
やがて広間に残ったセルバが、アデルのもとへ戻ってくる。
「アデル様。これから、どうなさいますか」
「学生だもの。落ち着いたら学園へ戻るわ。その間のことはセルバに任せる」
「承知いたしました」
「父が戻ってきたら、連絡をちょうだい」
セルバはいつも通り恭しく答える。
こうしてアデルは、学園へ戻る準備を始める――はずだった。
だが、そうはさせてもらえなかった。
王国北東部から、コンラートの向かったバルツ砦陥落の報が届いたのだった。
二章・公爵家別邸編は、ここで完結です。
ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございました!
私はまだ小説そのものをあまり書いてきたわけではないのですが、今回は初めて推理ものに挑戦してみました。
拙い部分も多かったと思いますが、とにかく最後まで書き切れてよかったです。
少しでも楽しんでいただけていたら、とても嬉しいです。
引き続き、三章もよろしくお願いします。
▼どうでもいい設定(年齢)
セルバ:58歳
ブルーノ:53歳
アグネス:52歳
ロベルト:34歳
マリア:32歳
クラリス:29歳
ニーナ:28歳
エステル:27歳
イリス:22歳
ルイーズ:18歳
アデル:15歳




