十五話
時刻は、もう夕方に近かった。
それでもアデルは、事件の全容を掴めていなかった。
治安隊への届け出を、いつまでも引き延ばすわけにはいかない。
今日の夜が、実質の期限だろう。
アデルが向かったのは、イリスの部屋だった。
扉を開くと、イリスはわざとらしいほど明るい笑顔を貼りつけて迎えた。
「アデル様、どうしました? もう話せることはないと思うんですが……」
「……エステルが亡くなったわ」
イリスの笑顔が、ほんの一瞬だけ凍る。
けれど、すぐに眉を下げ、悲しそうな顔を作った。
「それは……残念です。本当に……」
そして少し間を置いてから、恐る恐る付け加える。
「……それで、私を疑ってるんですよね? でも、部屋からは出られませんよ?」
「疑っているわけじゃないわ」
アデルは淡々と告げ、視線を逸らさずに続けた。
「あなたたちの部屋は並びよね。昨夜、何か物音はしなかった?」
「うーん……昨日は早めに寝たので。特に気になったことはないです」
事件が起きたのは深夜だろう。
気づかなくても不思議はない。
「もうひとつ。エステルの件だけど――どこからか大金を工面していたことが分かったの」
イリスが目を瞬かせる。
「……お母さんのためですか?」
「そう。母親が病気だったみたい。最近、急に羽振りが良くなったとか、そういう様子はなかった?」
「いえ……そういうのは特に。ただ……前にお話しした通り、最近はお母さんのことをあまり話さなくなっていた気はします」
イリスは頬に指を当て、記憶をたぐるように答えた。
「お金の工面先に、心当たりは?」
「少なくとも私じゃないです。お金の貸し借りはしない主義なので」
イリスはにこりと笑う。
その軽い笑みが、妙に薄く見えた。
「口封じに殺されたんでしょうか。エステルが内通者だったってことですよね? 私、もう釈放されます?」
「……悪いけど、もう少し待ってちょうだい」
「えー。私、何日この部屋にいると思ってるんですか?」
「ごめんなさい。エステルの件が片付くまでよ」
イリスは不満そうに唇を尖らせた。
だが次の瞬間には、意地悪く口元を歪めて笑っている。
アデルは大きく息を吐き、部屋を出た。
※※※
続いて、ニーナのもとへ向かった。
同じように事情を告げると、ニーナは目を伏せ、短く息を吐いた。
「……やはり、殺されましたか」
「やはりって、どういうこと?」
「昨夜。二時ごろ、廊下の足音で目が覚めました」
ニーナは淡々と続ける。
「二時……起きていたの?」
「冒険者でしたから。音には敏感で」
いつも通りの、はきはきした答えだった。
だがその表情は、報告というより悔恨に近い沈み方をしている。
「他には?」
「詳細までは分かりません。ただ――一度、足音が止まりました。扉の前で、息を殺すように」
「エステルの部屋の前?」
「おそらく、そうです。次の瞬間……小さな物音がしました」
ニーナは拳を握り、悔しそうに言う。
「気づいていたのに、止められませんでした」
「……あなたのせいじゃないわ」
アデルがそう言うと、ニーナは一度だけ目を閉じた。
(犯行時刻は二時ごろ。アグネスのほうも……同じ頃のはず)
アデルは唇を引き結び、情報を組み立てていく。
礼を告げて部屋を出ると、クラリスが歩幅を合わせた。
※※※
「いろいろと難しいわね……」
「軟禁されている以上、少なくともイリス様とニーナ様の犯行は難しいでしょう」
クラリスの言い方は冷静だった。
だが、アデルの胸の内は焦りでざらついている。
密室の謎を解けなければ、リィに疑いが向く。
密室が解けても、犯人を絞れなければ時間切れだ。
アデルはリィの客室へ向かった。
ノックしてしばらくすると、悲鳴とともに「ドスン」と鈍い音がした。
反射的に身構えると、扉が開き、ルイーズが顔を出した。痛そうに腰を押さえている。
「も……申し訳ございません、転んでしまって……」
「そんなに慌てなくていいのよ」
「い、いえ……うっかり花瓶の水をこぼしてしまって。床が濡れていたんです」
「そう……気をつけてね」
慰めながら、アデルの頭の片隅にルイーズの言葉が引っかかった。
けれど、まだ形にはならない。
部屋の奥へ進むと、意気消沈したリィがソファに座っていた。
怒られた子どもみたいに背中が丸い。
リィはアデルに気づくと、ぱっと顔を明るくし、駆け寄って抱きついた。
「うわ~ん、寂しかったよ……なんか、僕、悪いことしたのか?」
「いいえ。たぶん、何もしていないわ」
顔をこすりつけてくる頭を、アデルはゆっくり撫でる。
そのままルイーズへ視線を向けた。
「ルイーズ。何か変わったことはあった?」
「あ……そういえば、ありました」
ルイーズはとてとてと部屋の奥へ入り、すぐ戻ってくる。
手にしていたのは、リィの寝巻だった。
「これ……今朝、着ていたものです」
「……これが?」
「切り裂かれているんです。リィ様は覚えがないと……」
ふわふわの生地だから、遠目には分かりにくい。
だが近くで見れば、確かに裂け目がいくつも走っている。
ルイーズは悲しそうに続けた。
「もう、捨てるしか……」
「リィ。心当たりは?」
リィはアデルの胸から顔を上げ、悩ましげに首を振る。
「……起きたら、こうなってた」
「……そう」
裂け目ができた理由が、すぐには想像できない。
「私たち以外に、誰か来た?」
ルイーズが思い出すように首を傾げた。
「……そういえば、ロベルトさんが。昨日の夜食の食器を受け取りに来ました」
「ロベルトだけ?」
「はい。セルバさんはリィ様を私に預けたあと、すぐ自室へ戻られました」
ルイーズは、何でもないように付け足す。
「ちょっと珍しかったんです」
「珍しい?」
「いつもは私が食器を下げに行ってました。ロベルトさんが受け取りに来るなんて……食器が足りなかったのかなって」
その言葉が落ちた瞬間、いくつもの違和感がアデルの中で一本につながった。
アデルは息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
事件の全体像が、ようやく輪郭を持ちはじめていた。
※※※
アデルは準備を整えると、クラリスを伴ってアグネスの私室へ向かった。
散らかりは相変わらずだ。扉の内側に崩れた本の山も、そのまま残されている。
「アデル様……どういうことですか?」
クラリスが控えめに問う。
「密室の作り方が分かったの」
クラリスの眉が、わずかに動いた。
「……まさか」
「クラリス。氷をひとつ貸して」
アデルはここへ来る前に厨房へ寄っていた。
マリアに頼み、氷冷室から氷をひとつ拝借している。
「……簡単な仕掛けだけどね」
氷塊はずしりと重い。
アデルはそれに糸を括りつけ、その上へ本を一冊、二冊と積んでいく。
「それでは本が濡れてしまいます」
クラリスが懸念を口にする。
アデルは魔術書を一冊取り、見せた。
「土台にするのは魔術書よ。魔術書は耐魔加工だけじゃなく、耐水加工もされているわ」
積み終えると、二人は部屋の外へ出た。
扉の隙間から糸を通し、ゆっくり引く。
ずる……ずる……。
氷を台車のようにして、本の束が扉の内側へ寄っていく。
「これなら、本の束そのものを床に擦らずに運べる。そして……」
アデルは扉の前へ手を翳した。
「扉の向こうに直接魔術を通すことはできない。でも、扉の手前の空気を温めて、その熱を伝えることはできる」
「……氷を溶かすんですね」
「ええ。氷が溶ければ、本だけがその場に残る」
クラリスが小さく息を呑む。
アデルは部屋を見回した。
「アグネスの花瓶の水が減っていたでしょう。この部屋の温度が一時的に上がっていたなら、あれも説明がつく」
「確かに……だから花も萎れていたんですね」
「氷を溶かすために室温を上げた。花瓶の水まで一緒に持っていかれた――そう考えると辻褄が合うわ」
アデルは短く息を吐いた。
「でも、この部屋にはリィ様がいたんですよね。氷が溶けるほど室温が上がれば、さすがに起きるのでは?」
「そこが、この事件が妙な理由よ」
クラリスが不思議そうに問い返す。
「どういうことでしょうか?」
「犯人は、さぞ驚いたでしょうね」
アデルはクラリスの目を見た。
「毒殺したつもりのリィが、アグネスのベッドでぐうぐう寝ていたんだから」
※※※
「毒殺……?」
クラリスが問い返す。
「思えば、リィの存在ってまだ謎だらけなのよ。黒竜に育てられたから、だけでは説明がつかない」
アデルの熱魔法によって、部屋の空気が少しずつ温まっていく。
それでも、アデルは推理を続けた。
「犯人は――ロベルトでしょうね」
「ロベルト……?」
「ロベルトの狙いは、エステルとリィの殺害だった。でも、そこで問題が起きたの」
クラリスが目を見開き、息を呑む。
「どうやっても、リィを殺せなかったの。毒を盛っても、刃を当てても」
「それで、寝巻がずたずたになっていたんですね」
アデルは頷く。
「そう。毒が効かないことは、私も想定していなかった。……ただ、まったく効いていないわけじゃないと思うの。
目が覚めなかったのは、毒のせいでしょう。本人も、食事を食べたら眠くなったと言っていたわ」
アデルは言葉を区切り、続けた。
「犯人はしばらく、眠っているリィを殺そうと試したはずよ。でも、何をしても防御魔術に弾かれて致命傷にならない。――それでも、目が覚めないことには気づいた」
「……なるほど」
「犯人にとっては予想外だったはずよ。何をしても死なない相手がいるなんて。だから仕方なく、その場の思いつきでリィが犯人に見える状況を作った。うまくいけば、治安隊が捕まえてくれる――そう願って」
しばらくすると、アデルは扉を開けた。
本が引っかかり、押し込むと本が崩れる音がする。
部屋はかなり暖かくなっており、氷はきれいさっぱりなくなっていた。
「リィとセルバを連れて――ロベルトを捕えましょう」
クラリスが、一拍遅れてあとに続いた。
※※※
ブルーノがローゼンベルク公爵家の守衛を務めて、三十年余り。
そろそろ引退の二文字が現実味を帯びてくる頃だった。
先代の公爵夫人ナタリア――コンラート閣下の母。
あの一見冷たそうに見える女性に、アデルはよく似ている。
だが実際のナタリアは冷たいどころか、常に周囲に気を配っているような人だった。
あの人のためなら命を賭けてもいいと、心から思っていた。
だからか、ブルーノはアデルに甘い。
『屋敷の人間が勝手に出ていかないか、見ていてほしいの』
アデルの頼みを受け、ブルーノは自ら出入り口に立っていた。
今日は使用人の出入りはない。屋敷全体が張りつめている。
夕刻。
いつもの時間に、商人の馬車がやってくる。
しばらくして、買い付けを終えたのだろう馬車が門へ向かった。
いつもなら見送るだけだ。
――だが今日は違う。
「兄さんたち。悪いが、荷台を見せてくれるかい」
商人たちが顔を見合わせる。
「なんだい、ブルーノさん。こんなこと普段しねえだろ」
「いや、事件があってね。警備強化中ってやつさ」
「へえ……まあ、そりゃ仕方ねえか」
商人が荷台を開ける。
果物、干し肉、野菜、酒樽。見慣れた積荷だ。
ブルーノは視線だけでざっと確認し、頷きかけ――そこで止めた。
「……待った。この樽、見せてくれ」
「酒樽だよ。見りゃ分かるだろ」
「中身をな」
空気が、わずかに硬くなる。
「開けたら質が落ちるんでね。そりゃ勘弁してくれ」
「酒樽でそんな話、聞いたことがねえな。金なら払う。俺も酒が好きでね」
冗談めかした声で言っても、商人の目は笑っていない。
ブルーノは腰の剣へ手をかける。
その瞬間。
樽の中から、声がした。
「待ってくれ、待ってくれ……!」
樽の蓋が内側から押し上げられ、男が這い出てくる。
「ブルーノさん……俺だよ。事情があってさ。みんなに協力してもらってんだ」
「……ロベルトか」
ブルーノは警戒を解かない。
ロベルトは苦笑いを作り、肩をすくめた。
「母親が急病なんだ。屋敷を出られる空気じゃない。だから――」
「そんなことがあるか」
ブルーノの声が低くなる。
「急病なら、監視を付けるなり何なりして堂々と出ていけばいい。お前が樽から出てくる理由にはならねえ」
ロベルトの表情から、笑いが消える。
「……見逃してくれりゃ、互いに幸せになれると思うんだがな」
「できねえ相談だ」
次の瞬間、商人の一人が懐からナイフを抜いて突っ込んできた。
ブルーノは半歩ずらして躱し、腕を切り裂く。
返す刃で、もう一人の脇腹を割った。
倒れるまでに、時間は要らなかった。
「ああ……予定外ばっかりだ。ブルーノさん、最悪だよ」
ロベルトが懐から取り出したのは、細い注射器だった。
「これだけは、やりたくなかったのに」
首筋へ突き立てる。
次の瞬間、ロベルトの身体が膨れ上がった。骨格が軋み、筋肉が盛り上がり、魔力が沸騰するように周囲へ漏れ出す。
(……ドーピングの類か)
ブルーノが構えるより早く、ロベルトが踏み込んだ。
見えない。だが――長年の勘が身体を動かした。
ブルーノは剣で受ける。
しかし、衝撃が全身を貫き、後ろへ吹き飛ばされた。
守衛室から若い守衛が飛び出してくる。
「お前らじゃ手に負えん! アデル様へ知らせろ!」
若い守衛が屋敷へ駆けるのが視界の端に映った。
ロベルトは一回り以上の巨体になっている。拳を握るたび、空気が鳴る。
「こうなると、手加減できねえぜ。ブルーノさん」
「若造が……調子に乗るな」
剣で受け流す。受け流す。
だが一撃一撃が重すぎる。手が痺れ、腕が悲鳴を上げる。
先に音を上げたのは――剣だった。
力を逃がしきれず、刃が折れる。
次の一撃で、ブルーノの身体が弾き飛ばされた。
視界が揺れ、地面が傾く。意識が遠のく中で、ロベルトの影だけが近づいてくる。
「だから言ったろ、ブルーノさん」
拳が振り上げられた、そのとき。
黒い影が差した。
ロベルトの殴打を――片手で受け止める者がいた。
少女だった。黒髪の、人間の少女。
受け止めたまま、けろりとした顔で言う。
「お前が悪い奴だな。――僕がやっつけてやる」




