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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
二章

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15/22

十五話

 時刻は、もう夕方に近かった。

 それでもアデルは、事件の全容を掴めていなかった。


 治安隊への届け出を、いつまでも引き延ばすわけにはいかない。

 今日の夜が、実質の期限だろう。


 アデルが向かったのは、イリスの部屋だった。

 扉を開くと、イリスはわざとらしいほど明るい笑顔を貼りつけて迎えた。


「アデル様、どうしました? もう話せることはないと思うんですが……」


「……エステルが亡くなったわ」


 イリスの笑顔が、ほんの一瞬だけ凍る。

 けれど、すぐに眉を下げ、悲しそうな顔を作った。


「それは……残念です。本当に……」


 そして少し間を置いてから、恐る恐る付け加える。


「……それで、私を疑ってるんですよね? でも、部屋からは出られませんよ?」


「疑っているわけじゃないわ」


 アデルは淡々と告げ、視線を逸らさずに続けた。


「あなたたちの部屋は並びよね。昨夜、何か物音はしなかった?」


「うーん……昨日は早めに寝たので。特に気になったことはないです」


 事件が起きたのは深夜だろう。

 気づかなくても不思議はない。


「もうひとつ。エステルの件だけど――どこからか大金を工面していたことが分かったの」


 イリスが目を瞬かせる。


「……お母さんのためですか?」


「そう。母親が病気だったみたい。最近、急に羽振りが良くなったとか、そういう様子はなかった?」


「いえ……そういうのは特に。ただ……前にお話しした通り、最近はお母さんのことをあまり話さなくなっていた気はします」


 イリスは頬に指を当て、記憶をたぐるように答えた。


「お金の工面先に、心当たりは?」


「少なくとも私じゃないです。お金の貸し借りはしない主義なので」


 イリスはにこりと笑う。

 その軽い笑みが、妙に薄く見えた。


「口封じに殺されたんでしょうか。エステルが内通者だったってことですよね? 私、もう釈放されます?」


「……悪いけど、もう少し待ってちょうだい」


「えー。私、何日この部屋にいると思ってるんですか?」


「ごめんなさい。エステルの件が片付くまでよ」


 イリスは不満そうに唇を尖らせた。

 だが次の瞬間には、意地悪く口元を歪めて笑っている。


 アデルは大きく息を吐き、部屋を出た。


※※※


 続いて、ニーナのもとへ向かった。

 同じように事情を告げると、ニーナは目を伏せ、短く息を吐いた。


「……やはり、殺されましたか」


「やはりって、どういうこと?」


「昨夜。二時ごろ、廊下の足音で目が覚めました」


 ニーナは淡々と続ける。


「二時……起きていたの?」


「冒険者でしたから。音には敏感で」


 いつも通りの、はきはきした答えだった。

 だがその表情は、報告というより悔恨に近い沈み方をしている。


「他には?」


「詳細までは分かりません。ただ――一度、足音が止まりました。扉の前で、息を殺すように」


「エステルの部屋の前?」


「おそらく、そうです。次の瞬間……小さな物音がしました」


 ニーナは拳を握り、悔しそうに言う。


「気づいていたのに、止められませんでした」


「……あなたのせいじゃないわ」


 アデルがそう言うと、ニーナは一度だけ目を閉じた。


(犯行時刻は二時ごろ。アグネスのほうも……同じ頃のはず)


 アデルは唇を引き結び、情報を組み立てていく。

 礼を告げて部屋を出ると、クラリスが歩幅を合わせた。


※※※


「いろいろと難しいわね……」


「軟禁されている以上、少なくともイリス様とニーナ様の犯行は難しいでしょう」


 クラリスの言い方は冷静だった。

 だが、アデルの胸の内は焦りでざらついている。


 密室の謎を解けなければ、リィに疑いが向く。

 密室が解けても、犯人を絞れなければ時間切れだ。


 アデルはリィの客室へ向かった。


 ノックしてしばらくすると、悲鳴とともに「ドスン」と鈍い音がした。

 反射的に身構えると、扉が開き、ルイーズが顔を出した。痛そうに腰を押さえている。


「も……申し訳ございません、転んでしまって……」


「そんなに慌てなくていいのよ」


「い、いえ……うっかり花瓶の水をこぼしてしまって。床が濡れていたんです」


「そう……気をつけてね」


 慰めながら、アデルの頭の片隅にルイーズの言葉が引っかかった。

 けれど、まだ形にはならない。


 部屋の奥へ進むと、意気消沈したリィがソファに座っていた。

 怒られた子どもみたいに背中が丸い。


 リィはアデルに気づくと、ぱっと顔を明るくし、駆け寄って抱きついた。


「うわ~ん、寂しかったよ……なんか、僕、悪いことしたのか?」


「いいえ。たぶん、何もしていないわ」


 顔をこすりつけてくる頭を、アデルはゆっくり撫でる。

 そのままルイーズへ視線を向けた。


「ルイーズ。何か変わったことはあった?」


「あ……そういえば、ありました」


 ルイーズはとてとてと部屋の奥へ入り、すぐ戻ってくる。

 手にしていたのは、リィの寝巻だった。


「これ……今朝、着ていたものです」


「……これが?」


「切り裂かれているんです。リィ様は覚えがないと……」


 ふわふわの生地だから、遠目には分かりにくい。

 だが近くで見れば、確かに裂け目がいくつも走っている。


 ルイーズは悲しそうに続けた。


「もう、捨てるしか……」


「リィ。心当たりは?」


 リィはアデルの胸から顔を上げ、悩ましげに首を振る。


「……起きたら、こうなってた」


「……そう」


 裂け目ができた理由が、すぐには想像できない。


「私たち以外に、誰か来た?」


 ルイーズが思い出すように首を傾げた。


「……そういえば、ロベルトさんが。昨日の夜食の食器を受け取りに来ました」


「ロベルトだけ?」


「はい。セルバさんはリィ様を私に預けたあと、すぐ自室へ戻られました」


 ルイーズは、何でもないように付け足す。


「ちょっと珍しかったんです」


「珍しい?」


「いつもは私が食器を下げに行ってました。ロベルトさんが受け取りに来るなんて……食器が足りなかったのかなって」


 その言葉が落ちた瞬間、いくつもの違和感がアデルの中で一本につながった。


 アデルは息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。

 事件の全体像が、ようやく輪郭を持ちはじめていた。


※※※


 アデルは準備を整えると、クラリスを伴ってアグネスの私室へ向かった。

 散らかりは相変わらずだ。扉の内側に崩れた本の山も、そのまま残されている。


「アデル様……どういうことですか?」


 クラリスが控えめに問う。


「密室の作り方が分かったの」


 クラリスの眉が、わずかに動いた。


「……まさか」


「クラリス。氷をひとつ貸して」


 アデルはここへ来る前に厨房へ寄っていた。

 マリアに頼み、氷冷室から氷をひとつ拝借している。


「……簡単な仕掛けだけどね」


 氷塊はずしりと重い。

 アデルはそれに糸を括りつけ、その上へ本を一冊、二冊と積んでいく。


「それでは本が濡れてしまいます」


 クラリスが懸念を口にする。

 アデルは魔術書を一冊取り、見せた。


「土台にするのは魔術書よ。魔術書は耐魔加工だけじゃなく、耐水加工もされているわ」


 積み終えると、二人は部屋の外へ出た。

 扉の隙間から糸を通し、ゆっくり引く。


 ずる……ずる……。


 氷を台車のようにして、本の束が扉の内側へ寄っていく。


「これなら、本の束そのものを床に擦らずに運べる。そして……」


 アデルは扉の前へ手を翳した。


「扉の向こうに直接魔術を通すことはできない。でも、扉の手前の空気を温めて、その熱を伝えることはできる」


「……氷を溶かすんですね」


「ええ。氷が溶ければ、本だけがその場に残る」


 クラリスが小さく息を呑む。

 アデルは部屋を見回した。


「アグネスの花瓶の水が減っていたでしょう。この部屋の温度が一時的に上がっていたなら、あれも説明がつく」


「確かに……だから花も萎れていたんですね」


「氷を溶かすために室温を上げた。花瓶の水まで一緒に持っていかれた――そう考えると辻褄が合うわ」


 アデルは短く息を吐いた。


「でも、この部屋にはリィ様がいたんですよね。氷が溶けるほど室温が上がれば、さすがに起きるのでは?」


「そこが、この事件が妙な理由よ」


 クラリスが不思議そうに問い返す。


「どういうことでしょうか?」


「犯人は、さぞ驚いたでしょうね」


 アデルはクラリスの目を見た。


「毒殺したつもりのリィが、アグネスのベッドでぐうぐう寝ていたんだから」


※※※


「毒殺……?」


 クラリスが問い返す。


「思えば、リィの存在ってまだ謎だらけなのよ。黒竜に育てられたから、だけでは説明がつかない」


 アデルの熱魔法によって、部屋の空気が少しずつ温まっていく。

 それでも、アデルは推理を続けた。


「犯人は――ロベルトでしょうね」


「ロベルト……?」


「ロベルトの狙いは、エステルとリィの殺害だった。でも、そこで問題が起きたの」


 クラリスが目を見開き、息を呑む。


「どうやっても、リィを殺せなかったの。毒を盛っても、刃を当てても」


「それで、寝巻がずたずたになっていたんですね」


 アデルは頷く。


「そう。毒が効かないことは、私も想定していなかった。……ただ、まったく効いていないわけじゃないと思うの。

 目が覚めなかったのは、毒のせいでしょう。本人も、食事を食べたら眠くなったと言っていたわ」


 アデルは言葉を区切り、続けた。


「犯人はしばらく、眠っているリィを殺そうと試したはずよ。でも、何をしても防御魔術に弾かれて致命傷にならない。――それでも、目が覚めないことには気づいた」


「……なるほど」


「犯人にとっては予想外だったはずよ。何をしても死なない相手がいるなんて。だから仕方なく、その場の思いつきでリィが犯人に見える状況を作った。うまくいけば、治安隊が捕まえてくれる――そう願って」


 しばらくすると、アデルは扉を開けた。

 本が引っかかり、押し込むと本が崩れる音がする。

 部屋はかなり暖かくなっており、氷はきれいさっぱりなくなっていた。


「リィとセルバを連れて――ロベルトを捕えましょう」


 クラリスが、一拍遅れてあとに続いた。


※※※


 ブルーノがローゼンベルク公爵家の守衛を務めて、三十年余り。

 そろそろ引退の二文字が現実味を帯びてくる頃だった。


 先代の公爵夫人ナタリア――コンラート閣下の母。

 あの一見冷たそうに見える女性に、アデルはよく似ている。

 だが実際のナタリアは冷たいどころか、常に周囲に気を配っているような人だった。

 あの人のためなら命を賭けてもいいと、心から思っていた。


 だからか、ブルーノはアデルに甘い。


『屋敷の人間が勝手に出ていかないか、見ていてほしいの』


 アデルの頼みを受け、ブルーノは自ら出入り口に立っていた。

 今日は使用人の出入りはない。屋敷全体が張りつめている。


 夕刻。

 いつもの時間に、商人の馬車がやってくる。

 しばらくして、買い付けを終えたのだろう馬車が門へ向かった。


 いつもなら見送るだけだ。

 ――だが今日は違う。


「兄さんたち。悪いが、荷台を見せてくれるかい」


 商人たちが顔を見合わせる。


「なんだい、ブルーノさん。こんなこと普段しねえだろ」


「いや、事件があってね。警備強化中ってやつさ」


「へえ……まあ、そりゃ仕方ねえか」


 商人が荷台を開ける。

 果物、干し肉、野菜、酒樽。見慣れた積荷だ。


 ブルーノは視線だけでざっと確認し、頷きかけ――そこで止めた。


「……待った。この樽、見せてくれ」


「酒樽だよ。見りゃ分かるだろ」


「中身をな」


 空気が、わずかに硬くなる。


「開けたら質が落ちるんでね。そりゃ勘弁してくれ」


「酒樽でそんな話、聞いたことがねえな。金なら払う。俺も酒が好きでね」


 冗談めかした声で言っても、商人の目は笑っていない。

 ブルーノは腰の剣へ手をかける。


 その瞬間。

 樽の中から、声がした。


「待ってくれ、待ってくれ……!」


 樽の蓋が内側から押し上げられ、男が這い出てくる。


「ブルーノさん……俺だよ。事情があってさ。みんなに協力してもらってんだ」


「……ロベルトか」


 ブルーノは警戒を解かない。

 ロベルトは苦笑いを作り、肩をすくめた。


「母親が急病なんだ。屋敷を出られる空気じゃない。だから――」


「そんなことがあるか」


 ブルーノの声が低くなる。


「急病なら、監視を付けるなり何なりして堂々と出ていけばいい。お前が樽から出てくる理由にはならねえ」


 ロベルトの表情から、笑いが消える。


「……見逃してくれりゃ、互いに幸せになれると思うんだがな」


「できねえ相談だ」


 次の瞬間、商人の一人が懐からナイフを抜いて突っ込んできた。

 ブルーノは半歩ずらして躱し、腕を切り裂く。

 返す刃で、もう一人の脇腹を割った。


 倒れるまでに、時間は要らなかった。


「ああ……予定外ばっかりだ。ブルーノさん、最悪だよ」


 ロベルトが懐から取り出したのは、細い注射器だった。


「これだけは、やりたくなかったのに」


 首筋へ突き立てる。

 次の瞬間、ロベルトの身体が膨れ上がった。骨格が軋み、筋肉が盛り上がり、魔力が沸騰するように周囲へ漏れ出す。


(……ドーピングの類か)


 ブルーノが構えるより早く、ロベルトが踏み込んだ。

 見えない。だが――長年の勘が身体を動かした。


 ブルーノは剣で受ける。

 しかし、衝撃が全身を貫き、後ろへ吹き飛ばされた。


 守衛室から若い守衛が飛び出してくる。


「お前らじゃ手に負えん! アデル様へ知らせろ!」


 若い守衛が屋敷へ駆けるのが視界の端に映った。

 ロベルトは一回り以上の巨体になっている。拳を握るたび、空気が鳴る。


「こうなると、手加減できねえぜ。ブルーノさん」


「若造が……調子に乗るな」


 剣で受け流す。受け流す。

 だが一撃一撃が重すぎる。手が痺れ、腕が悲鳴を上げる。


 先に音を上げたのは――剣だった。

 力を逃がしきれず、刃が折れる。


 次の一撃で、ブルーノの身体が弾き飛ばされた。

 視界が揺れ、地面が傾く。意識が遠のく中で、ロベルトの影だけが近づいてくる。


「だから言ったろ、ブルーノさん」


 拳が振り上げられた、そのとき。


 黒い影が差した。


 ロベルトの殴打を――片手で受け止める者がいた。

 少女だった。黒髪の、人間の少女。


 受け止めたまま、けろりとした顔で言う。


「お前が悪い奴だな。――僕がやっつけてやる」

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