十四話
リィは寝ぼけた目でこちらを見ていて、状況の深刻さをまだ飲み込めていない。
室内の空気だけが、石のように固まっていた。
アデルは乾いた喉をどうにか動かし、声を絞り出す。
「リィ……どうして、ここにいるの?」
リィはきょろきょろと周囲を見回し、口元をわずかに強張らせた。
「僕……一人で寝るの、好きじゃない。だから、アグネスと一緒に寝てた」
その言葉で、樹海の洞窟で気づけば自分にくっついて眠っていた姿が脳裏をよぎる。
それに、アグネスの部屋はリィの客室のすぐ隣だ。
「昨日の夜のこと、覚えてる? 寝る前よ」
「えーと……お腹すいたから、ご飯作ってもらって……食べたら眠くなって、アグネスの部屋に行った」
リィはベッドの上で、たどたどしく指を折りながら説明する。
「アグネスは『まだ仕事があるから先に寝てなさい』って。僕、ベッドに入ったらすぐ寝ちゃった」
「……なるほど」
アデルは頭の中で時系列を組み立てる。
リィが眠ったあとに、アグネスが襲われた可能性が高い。
アデルはセルバに視線を移した。
「セルバ。軟禁部屋の鍵は見つかった? 盗まれていたのかしら」
セルバは短く頷き、アグネスの衣服、机の上、引き出しの中を手早く探っていく。
やがて引き出しの奥から鍵束を取り出した。
「ありました。軟禁部屋の鍵も……この私室の鍵も、どちらも残っています」
「……妙だわ」
鍵が残っているなら、少なくとも鍵を持ち出して逃げた線は薄い。
そのぶん、犯人像はかえって曖昧になる。
「あの……いったん状況を整理します」
扉のそばにいたクラリスが近寄ってきた。顔色はさすがに青い。
「エステルさんは、鍵の掛かった軟禁部屋で斬殺されていました。鍵を管理できたのは父と母だけです。
一方、母はこの私室で後頭部を殴られて倒れていた」
クラリスは視線を落とし、言葉を選ぶように続ける。
「この部屋は鍵こそ開いていましたが、内側から本で塞がれていて……疑似的な密室状態でした。
しかも、軟禁部屋の鍵も、この部屋の鍵も室内に残されていた。
そのうえで――この部屋の中に、リィ様が寝ていた」
アデルは黙って頷く。
状況だけを並べれば、残酷なくらい単純だ。
「これだけ見れば、リィが犯人に見えてしまう。……でも、もしそうなら、逃げずに寝ている理由がないわ」
「エステルさんの件だけ見れば、父も容疑者の一人になります。鍵を持っていた以上は」
クラリスの声は硬い。
だが、エステルとアグネスは同一犯の可能性が高い。偶然、同じ夜に別々の理由で襲われたとは考えづらかった。
「……どちらも疑っていないわ。密室に見せかけるにしても、本で塞ぐなんてあまりに作為的だもの」
アデルは低く言う。
「でも、このまま王都の治安隊に届け出れば、リィかセルバが容疑者として拘束されかねない」
王都で殺人事件が起きれば、公爵家の内輪で済ませることはできない。
治安隊が介入し、捜査と取り調べが始まる。
しかも――第一王子の手が、どこまで伸びているか分からない。
公爵家としては、リィの存在が表沙汰になるのは避けたかった。
アデルは一息つき、決断を口にした。
「治安隊への正式な連絡は今晩にする。それまでに、こちらで犯人の尻尾を掴むの」
「承知いたしました。ただ……形式だけでも、私とリィ様は隔離しておくべきでしょう。後から何を言われるか分かりません」
「分かった。任せるわ。クラリスは私と一緒に動いて」
「かしこまりました」
アデルはリィへ向き直る。
「リィ。セルバと一緒に部屋へ戻って」
「……わかった」
全部は理解していなくても、ただならないことが起きたのは分かっているのだろう。
リィは子どものように不安げな目で、アデルを見上げた。
アデルは安心させるように、口元だけ柔らかくする。
「大丈夫。あとで会いに行くわ」
「……ほんとだぞ」
「約束する」
セルバが一礼した。
「リィ様、こちらへ」
促され、リィが扉へ向かう。
最後に一度だけ振り返り、アデルを見る目が――少しだけ揺れた。
その背が廊下へ消えるのを見届けて、アデルは静かに息を吐いた。
※※※
アグネスが運び出され、セルバとリィが去ると、部屋は嘘のように静まり返った。
アデルはゆっくり室内を歩く。
窓は固く閉ざされている。外を覗けば庭が見えた。ここは三階――外からの侵入は難しいだろう。
本棚には大きな空白ができていた。扉の前の本の山は、ここから引き抜かれたものだろう。
並んでいるのは魔術書、薬学書、帳簿の控え――アグネスらしい、実用に寄った選書だ。
本棚の上には薄く埃が積もり、花瓶の花は萎れていた。
水も、しばらく替えていないようだ。几帳面なアグネスにしては珍しい。――本当に、最近は忙しかったのだ。
「……不自然なところが多いわね」
アデルはこめかみを軽く押さえながら言う。
クラリスが頷いた。
「ええ。作為的です」
「リィに疑いを向けさせるにしても、かなり乱暴なやり方よ。リィが犯人なら、さっさと部屋を出れば済む話だもの」
「そもそも、エステルさんを殺すことだけが目的で……リィ様の存在は想定外だった可能性もあります」
「でも、眠っていただけなら放置することもできたはずよ。わざわざ密室まで作る必要はないわ。……リィを狙った犯行でもあると考えた方が自然ね」
言ってから、アデルは口を閉じた。
分からないことを考えていても、答えは出ない。
「……とりあえず、密室の方を片づけましょう」
「犯人は、なぜ密室を作ったのでしょう」
クラリスが静かに呟く。
「リィを疑わせるため。それ以外、思いつかないわ。問題は、どうやって本を扉の前に積み上げたかよ」
アデルは扉の前に崩れた本の山を見た。
「一番単純なのは、犯人が部屋を出たあとで外から本を動かす方法だけれど……」
「屋敷の窓と扉は耐魔加工です。外側から術式は通りません」
「ええ。だから、扉越しに魔術で本を動かすことはできない。しかも――」
アデルは本を一冊拾い上げ、背表紙を撫でた。
「これ……魔術書ね。これ自体にも耐魔加工が入っている。物体操作の魔術では動かせないわ」
「では、物理的に動かすしかありませんね」
「そう。ぱっと思いつくのは、糸で引く方法だけど……」
アデルはクラリスを見る。
「試してみましょう。糸、用意できる?」
クラリスが糸を持ってくる。
アデルは本を数冊、同じ高さになるよう揃え、扉の近くに並べた。下へ糸をくぐらせ、輪を作ったまま部屋の外へ出る。
扉の隙間から糸を引くと、本がずるずると引きずられる音がした。
狙った位置まで来たところで、輪の片側だけを引き抜いて回収する。
「できましたね」
クラリスの声は淡々としている。けれど、ほんの少しだけ嬉しそうだ。
「……あっさり、できたわね」
アデルが扉を押すと、本が突っかかって止まる。
さらに力を込めると――本が雪崩を打って崩れた。
「状況は再現できました」
「でも、これを見て」
アデルは崩れた本を拾い、クラリスに見せる。
本の中央に薄い窪み。糸が擦れた跡が残っていた。
「これだけ厚い本を十冊以上重ねたら、二十キロ近い。糸で引けば、こういう跡が残るのが普通よ」
「……では、犯人は跡が残らない方法で動かした、ということですか」
クラリスが即座に返す。
アデルは本の山を見下ろし、思考を深く沈めた。
すぐには思いつかない。けれど、密室自体は作れなくはない気がする。
ただ――目的が見えない。
そう考えているうちに、廊下から昼を告げる気配が近づいてきた。
時計を見れば、正午を回っている。
「……いったん休憩ね。頭を冷やしましょう」
※※※
「私も厨房へ向かうわ。リィのことを知っていた者は限られている。
もし誰かが意図的に嵌めたのだとしたら――知っている側に、手がかりがあるかもしれない」
「料理長ロベルトと副料理長マリアですね。食事を受け取るついでに、話を聞きましょう」
クラリスはそう言うと、先に立って廊下を歩き出した。
「守衛長のブルーノと、侍女のルイーズにも話を聞きたいわ。
それと……エステルの件、イリスとニーナにももう一度聞く必要があるわね」
厨房に着くと、昼時らしく活気があった。
蒸気と油の匂い、鍋の蓋が鳴る音。手際のよい指示が飛び交っている。
忙しいところ悪い――そう思いはしたが、ここは公爵家の別邸だ。
アデルが姿を見せれば、呼び出すことはできる。
ほどなくして料理長ロベルトと、副料理長のマリアが手を止めて出てきた。
「どうしました、アデル様。お食事ならすぐ持たせますが」
ロベルトは逞しい腕を組み、職人らしい目でアデルを見た。
マリアはその半歩後ろで、落ち着いた顔を保っている。
「ええ、食事の件も。――でも先に確認したいことがあるの」
アデルは声の調子を落とした。
「いま滞在している客人――リィの食事は、あなたたちが用意しているのよね?」
ロベルトとマリアが視線を交わした。
「ええ。セルバ様から内密にと聞いてます」
ロベルトが答え、マリアが小さく頷く。
「そのことは、他に誰かへ話した?」
「まさか。口は堅い方ですぜ」
ロベルトは即答した。マリアも頷く。
「……確認よ。昨夜も、リィの夕食は用意したの?」
「ええ。昨日は俺が。基本は交互ですが、昨日は俺の番でした」
ロベルトが少し考え込んでから付け加える。
「夜食も用意しました。最近は夜食も欲しいってことが多いんでね」
「夜食……?」
アデルの問いに、マリアが口を挟んだ。
「ルイーズさんに頼まれます。日付が変わる少し前にお願いされることが多いですね」
以前、自分がマリアに夜食を頼んだことを思い出した。
アデルは頷き、次の質問へ移る。
「夜食を用意したあと、あなたたちはどうしていたの?」
ロベルトが肩をすくめた。
「朝食の仕込みを少し。そっからは部屋に戻って寝ました。……何か疑われてます?」
ロベルトは少し困惑したような顔をしている。
マリアは慌てず、淡々と続けた。
「私は片づけをして、部屋に戻りました。夜中に外へ出たりはしていません」
「そう。ありがとう。念のための確認よ」
アデルは微笑み、話を切り上げた。
クラリスが食事を受け取り、二人で厨房を出る。
※※※
食事が終わった後、アデルたちは守衛室へ向かった。
守衛室の中で休んでいた男がこちらに気づき、姿勢を正す。
守衛長のブルーノだった。
「アデルお嬢様。お久しぶりでございます」
「ブルーノ。元気そうでよかったわ」
ブルーノはセルバと同じく、先代の頃からローゼンベルク家に仕える古参の男だ。
好々爺めいた穏やかな顔つきをしているが、ニーナ曰く「私よりずっと強い」らしい。
見た目に反して、歴戦の男である。
「それで、お嬢様。今日はどのようなご用件で?」
「昨夜、アグネスが襲われたの。外から屋敷へ侵入できた可能性はあるかしら?」
ブルーノはわずかに驚いたようだが、すぐ表情を戻した。
顎に手を当て、ゆっくり思い出すように目を細める。
「昨夜の夜番には、わしも入っておりました。……特に異変はありませんでしたな」
「夜中に怪しい気配も?」
「うむ。少なくとも、人の出入りは確認しておりません」
「……やっぱり、内部の犯行の線が濃いということね」
「そうでしょうな。……ただ、出入りでいえば、夕刻ごろに商人連中が来ております」
「商人?」
「ええ。ほぼ毎日です。料理番が買い出しをするので」
「その商人は、すぐ帰ったのね」
「はい。荷を下ろして代金を受け取り、長居はしておりません」
アデルはブルーノの言葉を咀嚼する。
夕刻の出入りは、今の事件とは時間が合わない。――ただ、記憶には留めておく。
「ブルーノも夜番についていたのね。夜中は二人以上で?」
「はい。夜番は二人以上が原則ですので」
それなら、ブルーノ単独での犯行は難しい。
ブルーノが犯人である可能性は低いだろう。
「……そういえば、今朝から屋敷を出入りした者は?」
「わしは先ほどまで休んでいましたが……いないと聞いております」
「そう……なら、お願いがひとつあるの」
アデルは声を落とした。
ブルーノの空気がわずかに引き締まる。
「屋敷の人間が勝手に出ていかないか、見ていてほしいの。犯人が逃亡する可能性があるわ。
どうしても外へ出る必要があるなら、私に許可を取らせて」
ブルーノは即座に頷いた。
「承知しました。わしの目で見張っておきましょう」
「ありがとう。頼むわね」
ブルーノは敬礼で答える。
アデルは小さく頷き、守衛室を後にした。




