十三話
魔導石には大きく分けて、紅晶と碧晶がある。
以前カナリアから渡された紅晶は、魔術の補助器として用いられるものだ。
一方で碧晶は、主に耐魔付与に使われる。
この世界の地下深くには地脈があり、魔力が循環している。
そこから漏れ出た魔力が海へと流れ、海底に溜まり、高圧の環境にさらされることで――碧晶は結晶化する。
海底から採れる碧晶には、魔術を分解し、魔力を吸収する性質がある。
資源に限りがある点は紅晶と同じだ。ただ、紅晶ほど逼迫しているわけではない。
「この別邸の扉にも碧晶が使われているのよ。魔術で壊されにくくなるの。耐火や耐水の付与もできるわ」
「なるほど。不思議石ってことだな」
「そう。簡単に魔法で壊されないようにしてあるの」
アデルはリィに魔術の授業をしていた。
これはリィの方から望んだことだ。
長らく空を飛べなかったリィを、飛べるようにしたのはアデルだった。
飛べるようになったのに、リィは獅鷲に苦戦した。
だからリィは、もっと魔術を使えるようになりたいと願う。
その願いが、どこか切実なのが、アデルにはわかった。
あの樹海で、自分の無力さを痛感したのはアデルも同じだった。
「いまリィが使えるのは、火炎魔術と飛行魔術。それと無意識だけれど――かなり高等な防御魔術も働いているわ」
「うん」
「火炎魔術と飛行魔術は、どちらも難易度が高い。……これがどういう意味か、分かる?」
「えーと……僕がすごいってことか?」
「すごいのは確かよ。でもね、普通は簡単な魔術から順番に身につけていくものなの」
アデルは言葉を選び、リィの顔を見た。
「だから、いまは土台を固めましょう。簡単なものから、段階を踏んで覚えていくの」
「わかった!」
アデルがリィに手渡したのは、初等魔術の魔術書だった。学園でも使われているものだ。
そのついでに、碧晶の話を説明した。
「私は学園では魔導石を専門に研究しているのよ」
「へぇ。アデルは石が好きなんだな」
変わった趣味だと言いたげな顔に、アデルは小さく息を吐いた。
魔導石は人気分野だと説明してもいいが、授業の主題が逸れる。
「……はいはい。まずは魔術書の内容ね。最初は物質操作から」
「やってみる!」
リィは元気よく返事をして、魔術書を読み込む。
文字を追う目が真剣で、時折くちびるが動く。
――ただ、時々。
「うっ」と喉を鳴らして、読み間違えた箇所を指で押さえ、もう一度最初から読み直す。
竜に育てられたリィが文字を読めるだけでも、十分すごい。
わからない箇所はアデルが教えていく。
リィは魔力だけなら途方もない。
なのに魔術の形にするのが苦手だ。おそらく強力な自動防御魔術が、邪魔をしているのかもしれない。
簡単なはずの操作が、逆に難しい――そんな不器用さがある。
リィとの魔術練習は、その後も、しばらく続いていくことになる。
※※※
夜も更け、クラリスとルイーズは先に下がらせた。
リィの集中力はすさまじい。だが、魔術が苦手なのは確からしい。
何度もやり直し、手元が止まっては、眉間に皺が寄る。
唇が尖る。拳が小さく握られる。
それでも投げ出さない。
――そして、ついに。
リィの前に置かれた筆ペンが、ゆらりと浮いた。
紙の上を、ゆっくり滑る。
なにやら絵を描いているようだ。線は歪んでいるが――かろうじて人の顔だと分かる。
リィがふうっと息を吐いた瞬間、筆ペンがころんと落ちた。
「アデル、やったぞ。ついに動いたぞ!」
「よかったわね。それで……これは何かしら」
「なに言ってんだ、アデルの顔だぞ」
リィに悪いが全然似ていなかった。
だが、リィは自慢げに胸を張っている。
「……ありがとう。嬉しいわ」
集中が切れたのか、リィはそのままソファに倒れ込んだ。
次の瞬間、腹の虫が大きく鳴る。
「アデル、お腹がすいたぞ……」
「……あら、困ったわね。こんな時間に」
アデルは笑いを噛み殺し、立ち上がった。
「少し厨房を覗いてくるわ。――いい? 部屋から勝手に出ないでね」
「わかった!」
アデルはため息をつきながら、部屋を出た。
※※※
夜の廊下は薄暗く、足音がやけに響く。
人の気配が少ない分、壁の軋みや、どこかで鳴る水音が不気味に聞こえる。
厨房に着くと、まだ明かりが灯っていた。
「誰かいるかしら?」
声をかけ、そっと中を覗く。
仕込みをしている女性がひとり――副料理長のマリアだ。
「アデル様!」
マリアが気づいて駆け寄ってくる。
そのときだった。
ズドン。
マリアが足を滑らせ、尻もちをついた。
「大丈夫!?」
アデルは慌てて手を貸し、マリアを起こす。
「い、いてて……申し訳ございません。床が濡れていたみたいで……」
「あら、危ないわね」
「ここ、氷冷室の前なんです。氷が溶け出して、床が濡れることがあって……」
マリアは苦笑しながら、濡れた床を見下ろした。
そして、気を取り直したように尋ねる。
「それで、こんな時間にどうなさいました? お夜食をご用意しましょうか?」
「ええ、お願い。リィ――いま滞在している客人の分を」
「ああ、あのお肉が大好きなお客様ですね……承知いたしました。用意してお持ちします」
「遅くに悪いけど、よろしく頼むわ」
アデルは礼を言って踵を返しかけ――ふと思い立ち、振り向いた。
「最近、変わったことはなかった? 些細なことでもいいの」
「変わったこと……ですか? ……あっ」
マリアは二人きりにもかかわらず、内緒話でもするように身を寄せた。
「料理長のロベルトさん……最近、彼女ができたみたいなんですよ」
「彼女?」
「妙に浮かれちゃって。相手は分かりませんけど……」
「そうなの……ありがとう」
内通者とは関係なさそうだ。
礼を言うと、アデルは厨房を後にした。
廊下へ戻ると、先ほどより暗さが濃い。
灯りの間隔が広く、歩くたび影が伸び縮みする。
まぶたが重い。
リィに夜食のことだけ伝えて、自分も私室へ戻ろう――そう思いながら、アデルは足を速めた。
※※※
アデルが別邸に戻って、一週間が経った。
リィの訓練を手伝いながら、内通者の調査も進めていた。
特に、エステルの母親のこと。イリスの男のこと。
それから、屋敷全体――家臣や出入りの者まで含めて、関係を洗い直している。
事件が動き出したのは、その一週間目の朝だった。
朝食を終え、クラリスが淹れた紅茶を口に運んでいたところへ、セルバが訪れる。
「アデル様。エステルの母親ですが――病を患っていることが判明しました」
セルバが調査結果を持ってきたのだった。
「……それで最近、話題に出さなかったのね」
「はい。加えて、治療のために高位の治療術師のもとへ通っていた形跡があります」
淡々と報告しているが、言葉の端に別の意味が混じっている。
アデルはカップを置いた。
「……どういうこと?」
「少なくとも、エステルの給与だけでは支払いが不可能です」
「なるほど。どこからかお金を工面しているのね」
息を吐き、視線を上げる。
「お金の出どころは分かっているの?」
「それは、まだ不明です」
「……直接聞きましょう」
「はっ」
セルバが恭しく礼をし、先導する。
別邸の廊下は静まり返っていた。
足音だけが妙に響く。
軟禁用の部屋の前で、セルバが鍵を差し込み、解錠する。
扉を開けた瞬間――彼の動きが止まった。
「……お待ちください、アデル様。近づいてはなりません」
セルバの声が、珍しく硬い。
アデルは扉の隙間から中を覗き、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
そこには、エステルがいた。
床に座り込むような姿勢で、両手で首元を押さえている。――押さえても止まらなかったのだろう。
指の間から血がこぼれ、床に広がっていた。
覗く喉元は、ぱっくりと裂けている。
まるで――言葉を封じるために切り裂かれたみたいに。
そして、開いたままの瞳が――こちらを見ていた。
「……口止めかしら」
アデルの声は、思ったより落ち着いていた。
いや、取り乱したらいけないことをわかっているだけだ。
「おそらく……。いずれにせよ、まだ別邸内に犯人がいるはずです」
セルバの言葉に、アデルは即座に切り替える。
エステルの部屋の中を見回す。そこには、エステル以外の気配はない。
窓も高いところにあり、小さいため人の出入りはできない。
「……さっきまで鍵は閉まっていたわよね。鍵を持っているのは、あなただけ?」
セルバが一瞬、言葉を失ったように視線を落とす。
「……予備の鍵は、アグネスが管理しています」
セルバの顔色が、目に見えて青くなる。
アデルの背筋を、冷たいものが滑った。
「アグネスのところへ向かうわ」
「……承知しました」
セルバは明らかに足を速めた。
それにアデルとクラリスも続く。
アグネスの私室の前。
セルバが声をかけるが、返事はない。
鍵束を取り出したところで、セルバの手が止まった。
「……鍵が掛かっていません」
眉間に皺を寄せ、扉に指先を添える。
少しだけ隙間が空くが、すぐに扉が止まる。
「ですが――内側で、何かが引っかかっているようです」
セルバが肩を入れて押し込む。
ぎ、と扉が開いた、その瞬間。
扉のすぐ内側に積まれていた本が、雪崩を打って崩れ落ちた。
床に散らばるページの音が、やけに大きい。
だが、それよりも先に目に飛び込んできたものがあった。
床に倒れたアグネスの姿だ。
「――アグネス!」
セルバの叫び声が、部屋を震わせる。
彼は駆け寄り、膝をついてアグネスの身体を抱き起こしかけて――すぐに止めた。
クラリスは扉のそばで、息を呑んだまま立ち尽くしている。
アデルも恐る恐る近づく。
アグネスの後頭部から、血が滲んでいた。
意識はない。それでも、胸はかすかに上下している。
「……息はあります。アデル様、医師を呼んでまいります。ここでお待ちを」
「ええ、お願い」
セルバが踵を返し、部屋を飛び出していく。
取り残された静けさの中で、アデルは改めて室内を見渡した。
扉の内側に崩れた本。窓は閉まっている。――それに、ここは三階だ。
鍵は掛かっていなかった。
だが、本により扉は塞がれていた。
(誰も出入りできないように見える……)
しばらくして、セルバが医師を連れて戻ってきた。
老齢の医師が手早く状態を確認し、眉を寄せる。
「危ないところでしたが、一命は取りとめるでしょう。ただ……目を覚ますまで時間がかかるかもしれません」
「そう……」
アデルは頷き、改めてセルバを見る。
いつもはどんなときでも平静な顔をしているのに、今は青白い。
そのときだった。
部屋の奥――ベッドの方から、眠たげな声が上がった。
「……う~ん。アデル、こんなところで何してんだ?」
毛布の隙間から顔を出したのは、リィだった。
寝癖で髪が跳ね、目をこすっている。
それは、状況をなにも理解していない顔だった。




