十話
ハイツはヴェルダ樹海の砦に常駐する衛兵だった。
この持ち場の仕事は、正直言って少ない。
黒竜が出てきたとしても、迎撃など最初から想定されていない。
できるだけ刺激しないことを上から厳命されている。
そして、外から勝手に森へ入っていく人間など滅多にいない。
死にに行くようなものだからだ。
……だからこそ、少し前の出来事はやけに印象に残っていた。
第一王子名義の通行許可。
そして馬車から降りてきた貴族令嬢――ローゼンベルク公爵家の娘。
冷えた印象のする眼差しだった。淡々としていて、他人の同情など必要ないと言わんばかりで。
それでも――美しかった。
(もったいない……)
ヴェルダ樹海に入る以上、無事では済まないだろう。噂では第一王子の不興を買ったという。
だからといって、若い令嬢ひとりを禁じられた森へ放り込むなど、碌でもない話だ。
暇を持て余したハイツは、同僚と詰所で水で薄めた酒を口に運んでいた。勤務中だが、ここは辺境だ。砦を訪ねる者もまずいない。
――だからこそ、気づくのが遅れた。
「……おい。誰か来るぞ」
同僚が声を潜めて言う。
ハイツは杯を置き、外へ出た。柵の向こう、樹海側の道を見て――息を呑む。
女の子が二人、こちらへ歩いてくる。
片方は、見覚えがあった。
あの令嬢だ。生きている。
もう一人は、大陸では珍しい黒髪の少女。年は同じくらいか、少し幼い。
まさか無事に戻ってくるとは思わなかった。――いや、それ以上に。
(あの黒髪の少女は何者だろう?)
ハイツは慌てて号令を飛ばし、開門の準備をさせた。
門が開く。
二人が門前に立つ頃には、ハイツは兜を整え、反射的に最敬礼で迎えていた。
「アデル様。ご無事で――」
アデルは息を整えるように一度だけ肩を上下させ、それから淡々と告げた。
「砦の者に頼みたいことがあるの。公爵家のセルバと、グランヴェール学園へ至急連絡して。迎えを要請してほしい。――それと、少し休める場所はあるかしら」
「はっ、承知いたしました。すぐに手配を」
反射で答えたあと、ハイツは隣の少女へ視線を向ける。
「……失礼いたします。そちらの方は?」
アデルは一瞬だけ言葉を選ぶ間を置いた。
「森の中で出会った子よ。ローゼンベルク家で保護する。問題はないわ」
第一王子の不興を買っているとはいえ、公爵令嬢だ。
それに、彼女たちは樹海に入るのではなく出ていくのだ。止める理由などない。
同僚と目が合う。互いに同じ顔をしていた。
――面倒なことになった。
相手は公爵家。後で上へ報告するとして、ひとまず通す。
「かしこまりました。こちらへ。粗末ではありますが、詰所の奥に休める部屋がございます」
「ありがとう」
アデルは礼を言い、黒髪の少女を伴って中へ入る。
少女は周囲をきょろきょろと見回し、好奇心を隠しきれていない。
ハイツは門の向こう、暗い森を一度だけ振り返った。
あの少女はいったい、何者なのだろう。
※※※
砦に最初に到着したのは、公爵家の馬車だった。
門の前で馬が止まり、扉が開く。
降りてきたのはセルバと、その娘クラリスである。
セルバは公爵家の執事長――実務の取りまとめを担う男だ。
アデルは、公爵家の内に内通者がいると疑っている。
その中で数少ない信じられる者が、セルバだった。
「アデル様。ご無事で、なによりでございます」
いつも通り恭しく頭を下げる。
セルバの目が一度、アデルの全身をなぞった。怪我の有無を確かめたのだろう。
「ご苦労様、セルバ。……早速だけど、頼みがあるわ」
アデルは隣に立つリィへ視線を投げる。
「この子を、公爵家で保護してほしいの。私は直接、学園へ向かう」
「……かしこまりました」
セルバは即答しつつ、リィへ目を向けた。
リィは興味深そうにセルバを観察している。品定めというより、ただの好奇心だ。
「差し支えなければ。こちらの方は――」
アデルはセルバのそばへ一歩寄り、声を落とした。
「樹海で出会った子よ。黒竜の庇護下にいた」
セルバの眉がわずかに動く。
「この子自体も、黒竜に匹敵する力を持っている。できるだけ内密に保護して」
一瞬だけ、セルバの目が細くなる。
だが次の瞬間にはいつもの執事長へ戻り、静かに頷いた。
「……承知いたしました」
アデルは声を戻し、二人を紹介する。
「名前はリィ。リィ、こちらはセルバ。私の――家族みたいなものよ」
「光栄なことでございますが、私はただの家令にすぎません」
セルバは穏やかに笑い、リィへ丁寧に一礼する。
「リィ様。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
「アデルの家族か。よろしくな」
リィはぱっと腕を伸ばした。
セルバは一瞬だけ間を置き、それから恭しくその手を取る。
「……はい。よろしくお願いいたします」
アデルはリィへ視線を落とした。
「リィはセルバについて行って。屋敷で、いろいろ教えてもらうことになるわ」
「アデルはどうすんだ?」
「学園に行って、殿下と話してくる」
「殿下? 悪い奴か? 僕がぶっ飛ばそうか?」
即座に拳を作って宙に向かって振りかぶる。
アデルはため息をつきつつ、きっぱり言い切った。
「いいえ。大丈夫よ。リィは屋敷で休んでいて」
そしてセルバへ向き直る。
「セルバ。あとはお願い」
「承知しました。クラリスを置いていきます。学園の使用人はこちらに呼び寄せているので、しばらく彼女が世話します」
クラリスは、セルバ・アグネス夫妻の娘である。
セルバ同様、アデルが物心ついた頃から傍にいた。アデルにとっては姉のような存在だ。
「お久しぶりでございます、アデル様」
「会えてうれしいわ、クラリス」
セルバがリィを連れていく。
リィは渋々という顔で馬車へ乗り込む。扉が閉まる直前までちらちらとアデルを見てくるのが――可愛らしい。
馬車が動き出し、砦の外へ抜けていく。
アデルはそれを見送ってから、ようやく小さく息を吐いた。
これから第一王子ジークフリートと話す。
胸の奥に冷たいものが沈む。それでも立ち止まるわけにはいかない。
アデルは背負袋の口に指を入れ、黒竜の鱗に触れた。
硬く、冷たい感触が掌に残った。
※※※
リィを送り出して数刻後、学園の迎えが砦に着いた。
馬車が走り出すと、遠ざかる樹海の匂いが少しずつ薄れ、代わりに人の気配が増えていく。
学園が近づくにつれ、喧噪が戻ってきた。
笑い声。石畳を駆ける足音。
樹海にいたのは一週間ほど。たったそれだけで懐かしいと思ってしまうのだから不思議だ。
黒竜たちは歓待してくれた。けれど、そこは人間が休むために作られた場所ではない。
馬車が学園の門をくぐったあたりで、身体に溜め込んでいた疲れがどっと溢れた。
まず寮に馬車をつけさせた。
同時に若い兵へ指示し、第一王子ジークフリートへ伝令を飛ばす。
部屋に戻ると、アデルはようやく背中の力を抜き、ソファに沈んだ。
柔らかな布が身体を受け止める。
クラリスが荷物を受け取り、手早く片づけを始める。
「疲れたわ。殿下から返事が来るまで、少し休みたいの」
「承知いたしました。紅茶を。砂糖は少な目でよろしいですね」
「……ええ、お願い」
クラリスは音もなく動き、湯を沸かす。
ほどなくして紅茶の香りがふわりと広がった。
アデルがむくりと起き上がると、テーブルには紅茶とクッキーが置かれている。
アデルはカップに口をつけた。
「……おいしい」
たった一口で、身体がほどけていく。
この一週間、口にしたのは水と乾パン、それに魔獣の肉。紅茶の淡い甘さが、じんわりと内側を満たした。
クラリスは少しだけ視線を伏せる。
「お嬢様。本当に……よくぞご無事で」
「まだ終わっていないわ。殿下との話が済むまで、安心はできない」
アデルはカップを置き、クラリスを見た。
「……クラリスは、私を疑っていないの? 殺害未遂の件」
クラリスは一拍置いた。
「疑っておりません」
淡々と、無表情のまま言い切る。
「父――セルバも同様です。家臣の中で疑っている者はいません。アデル様はそこまで愚かではありません」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
それでも甘えすぎないよう、声は平らに保った。
「……ありがとう」
「お礼は後ほど。今は休んでください。殿下の返事が来たら起こします。必要であれば、殿下は待たせておきます」
「……いえ、起こしてちょうだい」
アデルは思わず小さく笑ってしまった。
紅茶の湯気が揺れる。その揺れの向こうで、アデルはようやく目を閉じた。
※※※
ジークフリートから返事が来たのは、数刻後だった。
結局、顔を合わせるのは明日の朝となった。
アデルが疲れているから、という配慮ではないだろう。
あちらもアデルの帰還に驚き、準備を整える時間が欲しいのかもしれない。
その夜、アデルは久しぶりに柔らかいベッドの感触を噛みしめながら眠った。
翌日。疲れは取り切れていない。それでも目覚めは妙に澄んでいた。
起き上がると、クラリスがすでに朝食の準備を整えていた。
「今日は決戦です。腕を振るいました」
「……殿下に会うだけよ」
クラリスの中では、ジークフリートは完全に敵認定されているらしい。
言葉の端々が刺さる。けれどそれがアデルのためだと思うと、少し嬉しかった。
朝食の最中、来客の報せが入る。
「……ヘルミーネ教諭がお見えです」
「なにかしら……通して」
ヘルミーネは学園の教師で、魔道具が専門だ。
人工魔導石の研究をしているアデルは、研究の場で何度か顔を合わせたことがある。
客間へ移り、待つ。
ほどなくしてヘルミーネが現れた。女性にしては背が高く、体格も良い。
「あら、アデルさん……無事でよかったわ。心配してたの……」
「ありがとうございます、ヘルミーネ先生」
礼を取った瞬間、ヘルミーネが抱きついてきた。
分厚い体温に押され、思わず息が詰まる。
離れたあと、ヘルミーネはにっこり笑って続けた。
「それで、アデルさん……黒竜の鱗を持ち帰ったって本当?」
「……もう話が広まっているんですか。早いですね」
ヘルミーネは視線を少し下げ、悩ましげな表情をつくった。
「いえ。殿下に頼まれたのよ。あなたが持ち帰った鱗が本物か、確かめてほしいって」
「なるほど……」
「魔力量を鑑定すれば、黒竜のものかどうかは判断できるわ」
「……少し待ってください」
アデルはしまっていた鱗を取り出す。
ヘルミーネの目が、わずかに見開かれた。
「……どうやって、こんなものを……」
「黒竜の子と共闘しました。樹海に侵入した魔獣を退けた礼として、いただいたのです」
「そんなことが……」
ヘルミーネの返事は上の空だった。
鱗から目を離せない――そんな顔をしている。
「鑑定してくるわ。預かってもいいかしら? 殿下の許可はもらっているわ」
「……はい」
答えると、ヘルミーネは鱗を慎重に包み、まるで宝物のように抱えて去っていった。
扉が閉じたあと、部屋に残った空気だけが少し冷える。
アデルはカップに残った紅茶の表面を見つめた。
湯気はもう、ほとんど立っていなかった。




