一話
ヴェルダ樹海。
大陸西部――カルディア王国の国境に接していながら、そこは人間の国に属さない。
地図に名は刻まれても、踏み入ることは禁じられている。――禁じられた森。
ひとたび入れば、生きて帰れぬとさえ囁かれる。
黒竜が棲むからだ。
竜は数ある魔獣の中でも頂点に立つ。
過去には竜に襲われ、一夜にして滅びた国さえある。
もっとも、人間も無力ではない。
研鑽を積んだ剣と魔術は、時に竜の鱗さえ穿つ。竜殺しの英雄が語り継がれるのも、そのためだ。
――だが、黒竜の恐ろしさは個の力だけではない。
黒竜は群れる。
それは弱いから寄り集まるのではない。翼竜の群れとは違う。
一体一体が、国を滅ぼしうる力を持つ者たちが、家族として共に生きているのだ。
黒竜は知能も高い。人語を解し、情に厚く、仲間思いだという。
仮に人間の英雄が一体を倒せたとしても、その代償は国そのものになるだろう。黒竜は仲間を傷つけた者を決して許さない。
幸いにも黒竜は温厚で、よほど刺激しない限り人里に降りてこない。
だから人間は選んだ。――近づかない。刺激しない。
それが唯一、人間に許された選択だった。
※※※
黒竜の末っ子であるリィは、今日こそはと意気込んだ。
崖の縁に立ち、胸いっぱいに空気を吸い込む。
背後では兄のガルが爪を研ぎながら、「またか」という顔をしていた。
「僕の勇姿を見てて、ガル兄」
ガルが口を開く。
「おい、リィ。せめて――」
だが、その先は言わせない。
リィは返事を待たずに駆け出し、地面を蹴って崖から飛び出した。
身体がふわりと軽くなる。
風になったかのような気持ちになった。
今日こそ空を飛ぶのだ。
リィは、自由に空を駆ける自分の姿を思い描く。
――浮いた。
そう思ったのは一瞬だけだった。
宙に放り出された身体は、期待に反してじわじわと落ちていく。
崖の下には樹海が広がっていた。枝葉の海が、こちらへ迫ってくる。
「うわぁぁぁ~~~!」
黒竜の子とは思えない情けない声が、喉から飛び出した。
木にぶつかる――そう思った、その瞬間。
頭上で、バサリと重い音がした。
次いで、リィの身体がぴたりと止まる。
ガルに咥えられていたのだ。
そのままゆっくりと地面へ降ろされ、最後は吐き出すように落とされる。
「やれやれ。いつまでたっても危なっかしいやつだなぁ、リィは」
「今日こそは飛べると思ったんだ」
リィが拗ねた声で言うと、ガルは呆れ半分のまま、どこか慰めるように続けた。
「リィはまだ子どもだ。俺は三百年以上は生きてる。ヴァルに限っては千年以上だ。焦ることはない」
ヴァルはリィとガルの親にあたる。十体以上いる兄弟たちを束ねる黒竜の頂点。
それはつまり、このヴェルダ樹海の頂点に立つことを意味する。
「だけどさ~……みんなと違って、僕には翼がないんだもの……」
悔しさを隠さずに言うリィに、ガルは肩をすくめる。
「何度も言うが、俺らは翼で空を飛んでるわけじゃない。魔術で飛んでるんだ。翼は飾りみたいなものだ」
「魔術か……魔力量には自信あるんだけどな~」
「いずれ、リィも空を飛べるようになる」
それでもリィがなおもいじけていると、ガルはひょいと持ち上げ、背中に乗せた。
「さあ、家に帰ろう。帰りにヴェルダ角鹿でも狩って帰ろうか」
「じゅるり……角鹿大好き……」
機嫌が直ったのを悟ったのか、ガルはやさしく笑い、宙へと舞い上がった。
※※※
洞窟の外。岩壁を風よけにして、リィは小さく呪文を唱えた。
宙に灯った火種が乾いた枝へ移り、ぱち、と音を立てて炎が育った。
「ふふん。空は飛べないけど、火の魔術は得意なんだ」
得意げに胸を張るリィを見て、ガルが鼻先を鳴らす。
「さすがだな。ヴァルも火の魔術が得意だからな。……似たのかもしれん」
「ふふん。いずれ空も飛べるようになって、僕が最強になるんだ」
ガルが狩ってきたヴェルダ角鹿の肉を、炎の上へ放り込む。
じゅう、と油が弾け、香ばしい匂いが立ちのぼった。脂が火に落ちるたび、ぱちぱちと赤い火花が跳ねる。
ガルは爪で器用に肉を裂き、焼けたところから順にリィへ渡してくれる。
リィは大きく口を開けて、がぶりと齧り付いた。
「うまい!」
熱い肉をはふはふしながら頬張り、幸せそうにもぐもぐしていると――
ふいに、大気が揺れた。
遠くで風が唸ったような音。空気の密度が変わったような圧。
火の揺らぎさえ、ひとつ息を呑んだように小さくなる。
「ヴァルが帰ってきた!」
ガルでさえリィよりずっと大きい。だがヴァルはさらに大きい。
空から降りてくる影が月明かりを覆う。次の瞬間、重い衝撃が地面へ落ち、岩肌が低く震えた。
ヴァルは定期的に、大人の黒竜を引き連れて樹海の外へ遠征に向かう。
目的は戦ではなく、古い知己に会いに行くことが多い――と、ガルは言っていた。
リィは急いで残りの肉を頬張り、喉の奥へ飲み込むと、ガルのそばを飛び出して走り出す。
足をもつれさせそうになりながらも、ヴァルへ駆け寄っていく。
「やあ、リィ。元気にしてたかい?」
「元気にしてたよ、ヴァル! 外はどうだった?」
矢継ぎ早に言うと、ヴァルはくすりと笑うように鼻を鳴らした。
「まあまあ、落ち着きな。……ちょっと大きくなったかい?」
「わかる?」
言われて、リィは胸を張った。自分でもよくわからないが、言われると誇らしい。
リィをはじめとする年少組は、樹海の外へ出ることを禁じられている。
だから外の空気を知っているのは、ヴァルたち大人だけだ。
リィがヴァルに会うのは、三か月ぶりだった。
「わかる、わかる。寂しくなかったかい?」
「寂しくなかったよ。僕は強いからね。みんなも遊んでくれたし」
リィがちらりと振り返ると、ガルは火の始末をしているところだった。
肉の香りが薄れ、代わりに夜の冷たい空気が戻ってくる。
「それはよかった。……話は、みんなが集まってからにしよう」
ヴァルはそう言って、リィの顔をぺろりと舐めた。
舌は熱くてくすぐったい。肉の脂の匂いまで、いっぺんに持っていかれる気がする。
ヴァルが洞窟の中へ入っていく。
リィもその後を追って、洞窟へと駆け込んだ。
※※※
洞窟の中は、外よりずっと暖かかった。
岩肌がじんわり熱を持ち、吐く息が白くならない。入口から差し込む月明かりはすぐに細くなり、代わりに奥からほの赤い光が揺れている。
入口はやや手狭だが、中へ入れば別世界だった。
天井は高く、通路は幾筋も伸び、広い空間がいくつも連なっている。黒竜が十体以上も住むのだから、狭いはずがない。むしろ広すぎるくらいでないと、翼を広げただけでぶつかってしまう。
どこかで骨が転がる音がして、別の通路からは水が滴る音が聞こえる。
湿った土と、焼けた肉の残り香が混じり合っている。――リィにとって、これが家の匂いだった。
リィが駆け込むと、奥の広間で兄たちがすでに待っていた。
「お、リィが帰ってきた」
低い声。言ったのは、広間の端で岩に背を預けていた長兄のギィだ。
身体の線は太く、角の傷が古い。動かずとも、そこにいるだけで重みがある。
ギィは遠征に出ることもあるが、大抵は樹海に残り、ヴァルが不在の時はまとめ役を担う。
「おかえり、リィ。今日も落ちたの?」
くすくすと笑う声。今度は姉のグゥだ。
リィと最も年の近いグゥは、よくこうしてからかってくる。年が近いと言っても、何十年も離れているのだが。
背の線がしなやかで、鱗の色が少し淡い。
「落ちてない! ……落ちかけただけ!」
言い返すと、兄たちが小さく喉を鳴らした。
悔しくてリィは頬を膨らませ、ガルの背中によじ登る。ガルの背は、リィの特等席だった。
「はいはい。ほら、ヴァルが話をするぞ」
ガルの声が混じる。
その瞬間、広間の空気がすっと揃った。冗談の匂いが引き、火の揺らぎさえ小さくなる。
ヴァルが中央に座した。
ヴァルの姿は、座っているだけで山のようだった。
鱗は黒竜の名の通り黒い。だがただの黒ではない。古い岩を磨いたような艶と、深い水底のような暗さがある。
目は深い黒檀色。その視線がゆっくり広間を巡るだけで、皆が黙った。
「みんな元気そうで、なによりだ」
ヴァルの声は低いのに、耳の奥まで届いた。
洞窟そのものが振動しているみたいで、リィは思わず喉を鳴らし、姿勢を正す。
「今回はグリューデル峡谷まで行ってきた」
兄たちの鱗が、微かに擦れる音がした。
グリューデル峡谷は赤竜の縄張りだ。
「ヴァル、赤竜を倒したの?」
リィが興奮したように言うと、ヴァルの目がまっすぐリィを捉えた。
「いや、古い知己に会っただけだ。言葉が通じる相手なら、争う必要などない」
「え~。ヴァルなら赤竜だってこてんぱんにできるでしょう」
「そういうことではない。無暗に力を振るうのは、愚か者のすることだ」
ヴァルの言葉に、リィはふてくされたようにガルの背へ顔をこすりつけた。
その様子に、ヴァルはふっと笑う。
「そういえば、赤竜にこんな魔法を教えてもらったぞ」
ヴァルが口を開き、リィの方へ息を吐く。
青い炎が生まれた――と思った次の瞬間、それはリィを包むように広がった。
驚いて身じろぎしかけたが、熱さはない。
むしろ毛布の中へ沈むように、身体の芯がほどけていく。
「……なんか温かくて、気持ちいい……」
「癒しの炎だ。傷を焦がさず、痛みだけを薄める」
「怪我ばっかりのリィに、ぴったりね」
グゥが笑って言う。
リィはむっとするが、気持ちよさに勝てず、せめてもの抵抗にグゥへ舌だけ出した。
広間に、小さな笑いが戻る。
「みんな元気そうで安心した。今回の遠征も問題はない。しばらく外へは出ないつもりだ。何かあれば、すぐ言いなさい」
ヴァルがそう締めくくると、兄弟たちはぞろぞろと洞窟の奥へ引き返していった。
残ったのはガルとリィとグゥだけだ。
「次の遠征には僕も連れて行ってよ、ヴァル」
リィはガルの背から飛び降りると、ヴァルの前足にひしとしがみつき、上目遣いで見上げた。
こうやって頼むと、ヴァルは大抵少しだけ甘くなる――リィはそう学んでいる。
「なに言ってるの。空も飛べないくせに」
背後からグゥが声をかけてくる。
ガルは興味なさそうに爪を研いでいた。
「じゃあ、空を飛べるようになったら連れて行ってくれる?」
リィが食い下がると、ヴァルは困ったように笑った。
「ん~~。リィはそそっかしいからなぁ。外は危険がいっぱいなのだ」
「大丈夫! 僕、最強になるから!」
「さっきも言ったが、力を振るうことが正しいとは限らない。外の生き物は外のルールの中で生きている。力があるからと言って、それを壊すのはよくない」
「わかった! ガルも連れて行くから!」
「なにもわかってなさそうだが……」
ガルがぼそりと呟き、グゥが「ほらね」と笑う。
ヴァルは少しだけ考えるように目を細め――そして、折れた。
「……まあ、空が飛べるようになったら。考えるくらいはしてやろう」
「ほんと!? 約束だよ!」
「ヴァルはリィに甘いんだから」
グゥが呆れたように言うのを、リィは聞こえないふりをした。
「絶対! 絶対だからね! ガル、今から空飛ぶ練習をしよう!」
リィがガルへ駆け寄ると、ガルは面倒くさいことになった、という顔をする。
「……明日でいいだろ。もう遅い。今日は寝なさい」
そう言うなり、ガルはリィをひょいと咥えた。
そのまま洞窟の奥へ引っ込んでいく。
「わっ、ちょ、待って! 僕、まだ起きてられるよ!」
抗議は虚しく、リィの足が宙でぶらぶら揺れる。
遠ざかる広間の赤い光の中で、ヴァルの笑い声が聞こえた。




