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「神の手」を持つトリマーは、伝説の魔獣(もふもふ)と気ままな旅をする  作者: 藍城 優
第2章 旅立ちの空と、手のひらサイズの神様

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6. 売れ残りの依頼書と、泥だらけの「影」




「さて、記念すべき初仕事だが……」


ギルドの壁一面に張り出された掲示板の前で、レンジは腕を組んで唸っていた。

そこには羊皮紙が所狭しと貼られているが、その内容はレンジの想像とは少し違っていた。


【緊急】ゴブリンの群れ討伐(推奨ランク:D以上)

【常設】ジャイアント・バットの翼の納品(3枚〜)

【求む】地下水道の毒スライム駆除


「……殺伐としてるなぁ」


当たり前だが、冒険者の仕事は基本的に「魔獣を倒す」か「素材を剥ぎ取る」ことだ。

トリマーとして「動物を癒やす」ことを生業としてきたレンジにとって、積極的に受けたいと思える依頼は皆無だった。


「(おいレンジ。あの『レッド・ベア討伐』などどうだ?アレの胆嚢は高値で売れるし、手応えもありそうだぞ)」


足元のクオンが、血生臭い依頼を前脚で指し示してくる。


「却下だ。俺はトリマーだぞ。熊を殺すんじゃなくて、冬眠明けのボサボサになった毛をブラッシングしたいんだ」


「(……物好きな奴め。ならば、どうするのだ? このままでは日が暮れるぞ)」


レンジは掲示板の隅、他の依頼書の下に隠れるように貼られている、薄汚れた紙に目を留めた。

誰からも見向きもされず、風雨に晒されてヨレヨレになっている一枚の依頼書。


【害獣駆除】

内容: 西地区の裏路地に住み着いた「黒い獣」を捕獲、または追い払ってください。

場所: 旧市街・廃倉庫裏

報酬: 銅貨5枚

依頼人: 西地区の住民一同



「銅貨5枚……約500円か」


安い。命を懸ける冒険者の仕事としては破格の安さだ。

しかも「害獣駆除」という地味な響き。誰もやりたがらないわけだ。

だが、レンジの目はその依頼書の「備考欄」に釘付けになっていた。


備考: その獣は酷い悪臭を放っており、近寄るだけで目が染みるほどです。泥と汚物にまみれており、正体は不明です。


「……これだ」


レンジは迷わずその依頼書を剥がした。


「(は?正気か?報酬は端金、相手は悪臭を放つ泥の塊だぞ?)」


クオンが信じられないものを見る目でレンジを見上げる。

だが、レンジの瞳には職人としての炎が宿っていた。


「悪臭がするってことは、皮膚が腐敗してるか、皮脂腺が詰まって炎症を起こしてる可能性が高い。泥で固まってるなら、通気性が悪くてダニの温床になってるはずだ」


「(……貴様、相手が魔獣だとわかっているのか?)」


「魔獣だろうがなんだろうが、『毛のある生き物』が苦しんでるのを放っておけるかよ。行くぞ、クオン」


「(やれやれ……。我の主は、とんだお人好し……いや、変態だな)」


クオンは呆れ果てたように大きなため息をつき、優雅に尻尾を振って後に続いた。


          ◇


「ほ、本当にこの依頼を受けるんですか?」


カウンターに依頼書を出すと、さっきの受付嬢が目を丸くした。


「はい。何か問題でも?」


「いえ、問題というか……この依頼、もう一ヶ月も放置されているんです。何人か新人が挑んだんですが、あまりの臭さに断念したり、逃げ足が速すぎて捕まえられなかったりで……」


受付嬢は言い淀んだ後、声を潜めて忠告してくれた。


「それに、その『黒い獣』……ただの野良犬や猫じゃないという噂もあります。夜になると不気味に光る目を見たとか、影に溶け込んで消えたとか……」


「へぇ、影に溶け込む……」


レンジはむしろ興味をそそられたようだった。

影に溶け込むほどの汚れ。それはトリマーとしての腕が鳴るというものだ。


「大丈夫です。逃げ足には自信がありますから」


レンジがニカっと笑うと、受付嬢は頬を少し赤らめ、「ど、どうかお気をつけて……」とスタンプを押してくれた。


          ◇


ギルドを出たレンジたちは、地図を頼りに「西地区」へと向かった。

メインストリートの石畳とは違い、西地区は道が狭く、建物も古びていた。いわゆる下町、あるいはスラムに近い場所だ。


「(……臭うな)」


目的地である廃倉庫の裏手に近づくと、クオンが鼻をピクつかせた。


「(腐った生ゴミと、下水と……その奥に、微かだが奇妙な魔力の残滓を感じる)」


「魔力?」


「(ああ。ただの獣ではないかもしれん。……おいレンジ、あそこだ)」


クオンの視線の先。

ゴミ箱が倒れ、薄暗い路地の奥に、何かがうずくまっていた。

それは一見すると、ただのボロ雑巾か、泥の塊に見えた。

だが、レンジの『神の手』は見逃さなかった。

その泥の塊が、微かに呼吸し、小刻みに震えているのを。


「……シャーッ!!」


レンジたちが近づくと、泥の塊から威嚇音が響いた。

強烈な悪臭が鼻を突く。生ゴミの臭いではない。皮膚がただれ、被毛が腐りかけている特有の病的な臭いだ。


「(うわ、きたなっ。レンジ、よせ。あんな汚物に関われば、お前の服までダメになるぞ)」


クオンが露骨に嫌な顔をして後ずさる。

神獣であり、潔癖な彼女にとって、それは生理的に受け付けない存在のようだった。

だが、レンジは違った。

彼は静かに膝をつき、泥の塊――『黒い獣』と目線を合わせた。

その目は、かつて何千匹もの「噛みつき犬」や「暴れる猫」を大人しくさせてきた、カリスマトリマーの目だった。


「……辛かったな。もう大丈夫だ」


レンジは魔法鞄から一枚のタオルを取り出すと、迷うことなくその「悪臭の塊」へと手を伸ばした。


「フギャァァッ!!」


獣が跳ねた。

泥の中から、鋭い爪がレンジの手を狙って繰り出される。

速い。

だが、レンジの手はそれよりも速く、柔らかく動いた。

ヒョイッ。

爪をかわし、レンジの手は獣の首の後ろ――「うなじ」を正確に掴んでいた。

いわゆる「保定」だ。

急所を掴まれた獣は、反射的に脱力し、ダラリとぶら下がる。


「(ほう……。あの速度の爪を見切ったか。戦闘の心得はないはずだが、目の良さと手の動きだけは達人級だな)」


クオンが感心したように唸る。


「よしよし、いい子だ。……うわ、こりゃ酷い」


近くで見ると、惨状は明らかだった。

全身の毛が泥と油と汚物で固まり、タールのような鎧になっている。これでは皮膚呼吸すらままならない。

皮膚の至る所が炎症を起こし、ダニが食い込んでいるのが見えた。


「こいつを剥がすぞ。……クオン、少し離れててくれ。飛び散るかもしれない」


「(言われずともそうする。……まさか、ここで洗うつもりか?水も桶もないぞ)」


「心配ない。……実はさっきギルドで狼を助けた時、**『スキル』**を手に入れたんだ」


レンジは愛用の『聖銀のコーム』を取り出し、じっと見つめた。

あの時――グレイウルフの剛毛を解きほぐし、その苦痛を取り除いた瞬間。

レンジの中に眠る膨大な魔力が、指先の道具と「回路」が繋がったような感覚があったのだ。


『スキル熟練度が一定値に達しました。ユニークスキル【聖銀錬成シルバー・フォージ】を習得しました』


脳裏に浮かんだ無機質な声を、レンジは思い出した。

イメージするだけで、この聖銀の道具は形を変える。俺の魔力を動力源にして。


「試してみるか。……変形フォーム


レンジが強くイメージし、魔力を流し込む。

キィィィン……!

手のひらサイズのコームが、眩い銀色の光を放った。

光は急速に膨張し、複雑な幾何学模様を描きながら質量を増していく。

ガシャッ、ジャキッ!

数秒後。

そこに出現したのは、コームではなく、猫一匹がすっぽり入るサイズの、**美しい流線型の「銀の浴槽シンク」**だった。


「(なっ……!?貴様、その櫛……形を変えたのか!?)」


クオンが驚愕の声を上げる。

だが変形はそれだけではなかった。

シンクの縁から銀色のチューブが伸び、その先端がシャワーヘッドのようなノズルへと変化する。


「温度38度。水圧、弱。……よし、成功だ」


レンジがノズルのグリップを握ると、そこから「ジャーッ」と心地よい湯気が立つお湯が噴き出した。

レンジの魔力を変換し、最適なお湯を生成しているのだ。


「(……呆れたな。あの狼を癒やしただけで、道具を進化させるとは。お前の成長速度はどうなっている?)」


「さあな。ただ動物を助けたいって思ったら、手に入ったんだよ」


レンジは笑って、泥だらけの獣に向き直った。


「さあ、お風呂の時間だ」


「フギャ……(なにこれ……?)」


呆気にとられて固まっている獣を、レンジは優しく銀のシンクへと入れた。

聖銀には強力な抗菌・浄化作用がある。触れているだけでも、皮膚の雑菌が死滅していく。


「まずは『絶対解毛アブソリュート・アンタングル』」


レンジが指先に魔力を込め、固まった泥の鎧に触れる。

本来なら数時間かけてふやかす必要がある頑固な汚れが、魔法の如き手技によって、ボロボロと崩れ落ちていく。

拘束が解け、空気が皮膚に触れる感覚に、獣の怯えが薄らいでいく。


「よし、ここからはシャンプーだ」


レンジはシャワーノズルからきめ細かい泡とお湯を出し、優しく洗い始めた。

その手つきは優しく、しかし確実だ。

指の腹で皮膚をマッサージしながら、こびりついた汚れを洗い流していく。

黒い汚水が銀色の底に流れていくたびに、獣の本来の姿が露わになっていく。


「グルル……ゴロゴロ……」


最初は警戒していた獣も、レンジの『神の手』と、聖銀が生み出す極上の温水に、いつしか喉を鳴らし始めていた。

痒みが消え、痛みが引き、温かいお湯が冷え切った体を包み込む。


レンジがノズルのスイッチをイメージで切り替えると、今度は「ブォォォ……」と優しい温風が吹き出した。


「(……便利だな。乾燥機能もついているのか)」


「ああ、風量も自由自在だ」


魔力消費は激しいが、規格外の魔力を持つレンジには痛くも痒くもない。

そして、乾燥が終わった時。

そこにいたのは、泥の塊ではなかった。


「……へぇ。お前、こんなに美人だったのか」


現れたのは、夜空を切り取ったような漆黒の毛並みを持つ、一匹の猫だった。

ただの黒猫ではない。

額には三日月の模様があり、尻尾は二股に分かれている。

そして瞳は、右が金色、左が銀色のオッドアイだった。


「(……『シャドウ・キャット』か。しかも変異種だな)」


離れて見ていたクオンが、興味深そうに近づいてきた。


「(闇に溶け込み、人の夢を食らうと言われる魔獣だ。本来なら人里には降りてこぬはずだが……まだ幼体だな。親とはぐれたか)」


「魔獣か……。でも、今はただの迷子の子猫だ」


「ニャーン!」


黒猫は嬉しそうにレンジの胸に飛び込み、頬をスリスリと擦り付けた。

先程までの悪臭は消え、今は太陽のようなポカポカした匂いがする。


「お気に召したようだな」


レンジが顎の下を撫でてやると、黒猫はとろけそうな顔をした。

レンジは再びイメージを解除し、銀色のシンクを元のコームの形に戻して懐にしまった。


「さて、依頼は『駆除』か『捕獲』だったな。……こんな可愛い子を駆除なんてできるわけないし」


「(捕獲してどうする? 依頼主に突き出せば、殺処分かもしれんぞ)」


「まさか」


レンジは立ち上がり、腕の中の温かい重みを抱きしめ直した。


「俺が飼うよ。……いや、まずはギルドに連れて帰って、正式な手続きをしなきゃな」


「(……はぁ。次は猫か。お前の周りは騒がしくなりそうだな)」


クオンは呆れたように言ったが、その尻尾は少し楽しそうに揺れていた。

こうして、レンジの最初の依頼は、報酬銅貨5枚と、プライスレスな新しい家族シャドウ・キャットを得ることで幕を閉じたのだった。

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