5. 冒険者ギルドと、トリマーの洗礼
重厚な木製のスイングドアを押し開けると、そこは熱気と喧騒の渦だった。
昼間だというのに、ジョッキをぶつけ合う音、怒号のような笑い声、そして煙と脂の匂い。
『冒険者ギルド』
ファンタジー世界の象徴とも言えるその場所に、レンジは足を踏み入れた。
一瞬、入り口付近の空気が変わった。
視線が集まる。
ガレスに見繕ってもらった最高級の「飛竜革のジャケット」を着た優男と、その足元にちょこんと座る、愛らしい金色の小狐。
どう見ても、荒事とは無縁な「お坊っちゃん」の観光客に見えたのだろう。
あちこちから、値踏みするような下卑た視線が突き刺さる。
「(……む。汗臭いな。それに手入れされていない獣の臭いがする)」
クオンが不快そうに鼻に皺を寄せた。
レンジも同感だった。トリマーとして、この空間に充満する「不潔な獣臭」は看過しがたいものがある。
「登録カウンターはあっちか」
レンジは突き刺さる視線を無視して、奥のカウンターを目指した。
だが、そう簡単には通してもらえないのが「お約束」だ。
「おいおい、ここはミルク臭いガキがペットと、お使いに来る場所じゃねぇぞ?」
ドカッ、と進路を塞ぐように、巨漢の男が立ちはだかった。
全身に傷のある革鎧をまとい、背中には大剣。そしてその横には、腰の高さほどもある黒い狼型の魔獣が唸り声を上げていた。
「(……『ペット』だと?)」
レンジの脳内に、クオンの極低温の声が響く。
どうやらレンジの整った顔立ち(転生特典で肌も若々しい)と、場違いに綺麗な服を見て、完全にナメているらしい。
「すいません、通りたいんですけど」
「ああん? 無視してんじゃねえよ。怪我したくなかったら、通行料を置いてきな。……おっ、その犬、可愛いじゃねえか。毛並みもいいし、高く売れそうだ」
男がニヤニヤしながら、クオンに汚い手を伸ばそうとした瞬間だった。
「(……殺すか)」
「(待て待て!街中で死体を作るな!)」
レンジが慌てて念話で止めようとした時、男の横にいた狼が動いた。
「ガルルルゥッ!!」
主人の命令を無視し、制御不能になったかのように暴れ出し、レンジの方へ飛びかかろうとする。
周囲の冒険者たちが「おい、アイアン・ウルフが暴走したぞ!」「止めろ!」と騒ぎ出す。
「ッ! やめろグレイ!待て!」
男が慌ててリードを引くが、狼の力は強く、男自身がズルズルと引きずられる。
牙を剥き出し、充血した目でレンジに迫る狼。
だが、レンジは逃げなかった。
彼の『神の手』を持つ目には、狼の「殺意」ではなく、別のものが見えていたからだ。
(……痒いんだな。それも、死ぬほど)
【解析結果】
対象:アイアン・グレイウルフ
状態:換毛期不全による皮膚炎、ダニの寄生、ストレス過多
この狼の剛毛は、抜けるべき冬毛が分厚いフェルト状の鎧となって皮膚に張り付き、通気性を遮断していた。
蒸れた皮膚の上をダニが這い回り、その不快感と痒みで発狂寸前だったのだ。
狼がレンジに向かったのは、彼から漂う「自分を楽にしてくれそうな匂い(スキルの気配)」を本能的に感じ取ったからだ。
レンジは魔法鞄から、愛用の『聖銀のコーム』を取り出した。
男が「危ない!食われるぞ!」と叫ぶより早く、レンジは狼の懐へ飛び込んだ。
驚異的な身体能力。レベルやステータスなどまだ確認していないが、今のレンジの動きは手練の冒険者すら目で見えぬ速さだった。
「ここだろ?」
ザシュッ!!
レンジは狼の喉元にコームを突き立て――そして、手首を返した。
刃物で斬りつけたような鋭い音が響いた。
「ギャウンッ!?」
狼が悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。
周囲が凍りついた。
新入りがいきなり、先輩冒険者の相棒を殺した――
誰もがそう思った。
だが。
「……クゥ〜ン……ハァ、ハァ……(極楽……)」
地面に横たわった狼は、死んでいなかった。
それどころか、白目を剥いて涎を垂らし、後ろ足で空を蹴って痙攣している。
それは断末魔ではない。長年の痒みから解放された、極上の快楽による悶絶だった。
そして、狼の周囲には――。
バフッ、ボフッ!!
まるで爆発したかのように、山のような「灰色の毛玉」が降り積もっていた。
レンジが一瞬で、狼の全身を覆っていた死毛の塊を「解体」したのだ。
「うわ、すげぇ量。……こりゃ痒かったはずだわ」
レンジはコームについた毛をフッと吹き飛ばし、狼の首元(皮膚炎を起こして赤くなっていた部分)に魔力を込めた指を当てた。
『神の手』による治癒。
炎症は瞬時に引き、ただ涼しい風が皮膚を通り抜ける。
「ワォン!(好き!お兄さん大好き!)」
スッキリして一回り小さくなった狼が、レンジに飛びついて顔を舐め回した。
先程までの狂暴さはどこへやら、完全に忠犬のそれだ。
「な、なんだこれ……?俺のグレイが……?」
男は腰を抜かし、呆然と変わり果てた(小綺麗になった)相棒を見つめていた。
「ちゃんとブラッシングしてやんなよ。この子、剛毛種だから蒸れやすいんだ。今のままだと皮膚病で戦うどころじゃなくなるぞ」
レンジは男にそう言って、何事もなかったかのようにカウンターへ向かった。
静まり返っていたギルド内が、どよめきに包まれる。
「あいつ、何者だ?」「剣も抜かずにアイアン・ウルフを無力化したぞ」「いや、あれは……ブラッシングか?」
「(……フフッ。相変わらず見事な手際だ。少し嫉妬するな)」
足元のクオンが、機嫌よさそうに笑った。
「(だが、あの男への制裁は必要ないのか?我を『犬』呼ばわりした罪は重いぞ)」
「その狼が幸せそうなんだ。飼い主への罰は、懐かなくなることで十分だろ」
見ると、狼は男がリードを引いても無視し、レンジの方を名残惜しそうに見つめ続けていた。
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「と、登録ですね! 承知いたしました!」
カウンターの受付嬢は、一部始終を見ていたせいか、少し引きつった笑顔で対応してくれた。
「では、まず登録料として銀貨一枚を頂戴いたします」
「銀貨……ですか?」
レンジは少し眉を上げた。
屋台の件で学習した通り、銀貨は日本円で「約一万円」だ。ただの登録料にしては高額に感じる。
「はい。少々お高く感じるかもしれませんが、これは『試験』でもあるのです」
受付嬢は真面目な顔で説明を続けた。
「冒険者は命に関わる危険な職業です。半端な覚悟で登録し、すぐに命を落とす方を減らすため……また、最低限の装備を整えられる経済力があるかを証明していただくために、あえて高額な設定となっております」
「なるほど、納得しました」
レンジは頷いた。確かに、装備も買えない状態で荒野に出るのは自殺行為だ。
「覚悟の対価」と考えれば高くはない。
「では、これで」
レンジは魔法鞄から硬貨を取り出し、カウンターに置いた。
チャリン、と重い音が響く。
「……あ、あの、お客様?これは……」
「え?足りませんでした?」
「いえ!これ、大銀貨です!!」
受付嬢が目を丸くして叫んだ。
周囲の冒険者たちが「おい、新入りが大銀貨を出したぞ」「どこのボンボンだ?」とざわめく。
「あ、すみません。細かいのがなくて……お釣り、ありますか?」
「は、はい!少々お待ちください!」
受付嬢は慌てて金庫を開け、銀貨九枚を並べた。
レンジはそれを受け取りながら、ため息をついた。
(……やっぱりガレスさんのせいで、財布の中身が高額すぎる)
「それでは、こちらの『水晶板』に手を置いて、魔力を流してください。お客様の適性職業と魔力量を測定し、ギルドカードを作成いたします」
レンジは頷き、カウンターに置かれた透明な板に手を乗せた。
クオンからの忠告を思い出す。
『お前の魔力は規格外だ。抑えろ』
(よし、イメージだ。……蛇口をほんの少しだけ開ける……一滴だけ……)
レンジは慎重に、体内の巨大な魔力炉からほんのわずかな魔力を指先へ送った。
ポチョン。
水滴が落ちるようなイメージで。
カッ!!!!
「うわっ!?」
水晶板が、直視できないほどの純白の光を放った。
ギルド内が真昼の太陽に照らされたように明るくなる。
受付嬢が「ひゃっ!」と悲鳴を上げて目を覆った。
バヂィッ……ピキキキッ……!
嫌な音がした。
光が収まった後、そこには、蜘蛛の巣状にヒビが入った水晶板があった。
「あー……」
レンジは気まずそうに手を引っ込めた。
「すいません、力みすぎました」
「……」
受付嬢は口を開けたまま固まり、壊れた水晶板とレンジの顔を交互に見た。
そして、震える声で言った。
「そ、測定……不能、です」
「エラー?」
「は、はい。たまにあるんです。魔力の質が特殊だったり、あるいは……いえ、恐らく機材の故障かと。予備を持ってきますので!」
受付嬢は慌てて奥へ引っ込んだ。
どうやら「魔力が多すぎて壊れた」と認めるには常識外れすぎたため、「最初から壊れていた」と判断されたらしい。レンジとしては好都合だった。
(危なかった。一滴でこれかよ……)
「(……不器用な奴め。まあ、人間の魔道具などその程度だろう)」
クオンが呆れつつもフォローを入れる。
結局、予備の水晶板(中古)で行った再測定では、レンジは魔力を「完全に遮断」した状態で触れることで、「魔力反応:微弱」という結果を出すことに成功した。
「職業適性は……『ヒーラー』や『魔術師』の反応はありませんね。前衛職の適性も低いようです」
受付嬢が困った顔をする。
特技欄に何か記入する必要があるらしい。
「あ、職業は『トリマー』でお願いします」
「トリマー……ですか?えっと、それは?」
「毛並みを整える仕事です。さっきみたいに」
「あ、ああ!なるほど、『調獣師』の一種ですね!ではそのように!」
こうして、数分後。
レンジの手には、一枚の金属プレートが握らされていた。
【冒険者ギルドカード】
氏名:レンジ・アマノ
ランク:F(新人)
職業:調獣師
パーティ:レンジ、クオン(従魔)
「Fランクか。……まあ、下積みは嫌いじゃないさ」
レンジは新品のカードを眺めて満足げに笑った。
かつてカリスマと呼ばれた男は、この異世界で再び「見習い」からスタートする。
その隣には、最強の神獣(小狐の姿)がすまし顔で座っていた。
「(さあ、行くぞレンジ。まずは依頼だ。……我の毛並みを維持するための資金を稼いでもらわねばな)」
「資金なら一生分あるだろ……まあいいけどさ」
レンジは肩をすくめ、掲示板の方へと歩き出した。
懐には大量の硬貨、隣には天狐。
だが今の彼に必要なのは、世界を救うことでも、魔王を倒すことでもない。
この広い世界で待っている、まだ見ぬ「モフモフ」を癒やすための――記念すべき最初の仕事だった。
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