40. 魔法の石と、潮騒の予感
スズと別れてから、数日が過ぎた。
魔導車両『銀の箱舟』は、東の国境を越え、南へと続く街道をひた走っていた。
窓の外の景色は、乾いた荒野から徐々に緑豊かな植生へと変わりつつある。
この数日間、ただ漫然と運転していたわけではない。レンジは休憩の合間や、見通しの良い一本道での運転中に、以前購入した『生活魔法全集・入門編』を引っ張り出し、密かに特訓を重ねていたのだ。
「よし……イメージは完璧だ。いくぞ、クオン」
「(……またか。運転に集中しろ)」
助手席で呆れるクオンをよそに、レンジはハンドルを握ったまま、指先をヒラヒラと動かした。
「【洗浄】!」
シュワァ……。
レンジの指先から微細な泡が発生し、ハンドルに付着していた手垢や油汚れを瞬時に分解し、キラキラと輝かせた。
「見ろよクオン!この出力調整!本来は洗濯や食器洗いに使う魔法らしいが、魔力を極限まで絞ることで『皮膚を傷つけない超低刺激シャンプー』として応用できるぞ!」
「(……ほう。本来の使い方とは違うが、器用なものだ)」
「だろ?次はこれだ。【温風】!」
ブォォォ……。
今度は絶妙な温度と風量の風が吹き出し、車内の空気を循環させる。
「よし、いい感じだ!本来ならコームを『変形』させてドライヤーにするんだけど、いちいち形状を変えるのも手間だろ?魔法なら、コームを持ったまま片手でサッと乾かせる!これなら作業効率が段違いだ!」
レンジはご機嫌だった。
攻撃魔法には興味がないが、こういう「ケアに使える技術」となると、彼の習得速度は天才的だった。
そんな平和な旅路の中、レンジはふと、数日前の別れ際にスズが使ったアイテムのことを思い出した。
「そういえばさ、スズが最後に使ったあの石……あれ、一体なんだったんだ?なんか光ったと思ったら、スズが一瞬で消えちまったけど」
「(ああ、あれか。あれは『転移魔法石』だ。東の国の秘宝の一つだな)」
「てんい……?ってことは、一瞬で遠くに移動できるのか!?」
「(うむ。座標さえ登録しておけばな)」
その言葉を聞いた瞬間、レンジの目の色が変わった。
「す、すげぇ!あれがあればさぁ……『あそこの国の羊がモフりてぇ!』って思った瞬間に現地に行って、トリミングして、『はい、お疲れ!』って言って夕飯までに帰って来れるだろ?移動時間ゼロだぞ?革命的じゃないか!」
レンジは目を輝かせたが、クオンは深い、本当に深いため息をついた。
「(……貴様という男は。あの石がどれほどの価値を持ち、どれほどの高等魔術が封じ込められているか分かっておらんのか)」
「価値?高いのか?」
「(国が買えるほどだ。それに、あれは使い捨てではないが、魔力充填に膨大な時間とコストがかかる。貴様の『ちょっと羊を撫でに』という欲望のために浪費していい代物ではない)」
「ええー……ケチくせぇなぁ」
レンジは不満げに唇を尖らせた。
彼にとって魔法やアイテムの価値基準は、「トリミング(仕事)に役立つか」「モフモフ生活が快適になるか」の二点のみである。
「ま、地道に車で行くしかないか」
◇
その日の夜。
周囲が完全に闇に包まれた頃、レンジたちは街道を少し外れた平原で野営をすることにした。
『銀の箱舟』のサイドオーニングを広げ、簡易テーブルと椅子を並べる。
「今日は良い肉が手に入ったからな。シンプルにステーキといこう」
ジュウウゥゥ……!
熱した鉄板の上で、分厚い肉が食欲をそそる音を立てる。
香ばしい匂いが漂うと、車内からルナとエメが飛び出してきた。
「ニャーン!(おにくー!)」
「キュウ!(ごはんー!)」
「はいはい、ちゃんとあるぞ。……ほら、クオンも」
「(……うむ。悪くない焼き加減だ)」
焚き火の明かりに照らされながら、一人と三匹は夕食を囲んだ。
満天の星空の下、パチパチと爆ぜる薪の音と、ルナたちが肉を頬張る音だけが響く。これぞ旅の醍醐味だ。
食後、レンジは油でギトギトになった皿を重ねると、ニヤリと笑って指を鳴らした。
「さて、ここでも特訓の成果を見せるか。【洗浄】!」
キィン……ッ!
レンジが指を弾いた瞬間、ただ汚れが落ちただけではない、鋭い金属音が響いた。
次の瞬間――皿は、まるで発光しているかのように異常な輝きを放ち始めた。
「どうよこれ!単に汚れを弾くだけじゃ、目に見えない雑菌や匂いが残るだろ?だから魔力で皿の表面をスキャンして、汚れだけを分子レベルで分解・消滅させた!ついでにナイフでついた微細な傷も全部コーティングして埋めておいたから、新品……いや、製造直後よりツルツルだぞ!」
レンジが得意げに掲げた皿は、鏡のように周囲の景色を反射し、一切の曇りも傷もない完全な平面と化していた。
「(……は?)」
クオンが飲んでいた紅茶のカップを倒しそうになる。
「(き、貴様……それは『洗浄』ではない。もはや『物質修復』や『錬金研磨』の領域だぞ!?国宝級の美術品の修復に使うような超精密な魔力操作を、まさか……野営の皿洗いに使ったのか!?)」
「え?だって、傷の隙間に菌が入ったら不衛生だろ?トリミング器具の手入れと同じだよ。基本だろ?」
「(……こやつに魔法を教えた本の著者が聞けば、憤死するかもしれんな)」
クオンは深々とため息をつき、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
レンジにとって魔法とは、「神秘」ではなくあくまで「便利なメンテナンスツール」でしかないのだ。
「さて、皿もピカピカになったし、食後の運動といきますか」
レンジがそう呟いた瞬間、足元に二つの影が飛び込んできた。
「ニャッ!(やるー!)」
「キュウ!(ボクもー!)」
ルナがお腹を見せてゴロンと転がり、エメが背中を向けて待機する。
レンジは嬉しそうに目尻を下げた。
「はいはい、順番な。まずはルナから」
レンジは聖銀のコームを取り出すと、まずはルナの漆黒の毛並みにクシを通す。
実体があるようでない「影」の毛並みだが、レンジの技術なら問題ない。魔力を纏わせたコームは、影の淀みを取り除き、艶やかな闇色へと整えていく。
「ニャニャ〜(そこそこ〜)」
ルナは喉をゴロゴロと鳴らし、恍惚とした表情でレンジの手のひらに頬を擦り寄せた。その影の体は、あまりの気持ちよさに輪郭が甘くなり、とろとろに溶けてしまいそうだ。
「……はい、一丁上がり!」
レンジがポンと頭を撫でると、ルナは名残惜しそうに、しかし大満足で定位置のクッションへと戻っていった。
「次はエメだな」
「キュウ~……」
エメのふわふわとした体毛は、念入りに空気を含ませるように梳かす。額のエメラルドも専用のクロスで磨き上げると、焚き火の光を浴びてキラリと輝いた。
二匹が満足して丸くなったのを確認し、レンジは最後にクオンの隣へ座り直した。
「お待たせ。最後はメインディッシュだな」
「(……フン、待たせおって。今日は念入りに頼むぞ)」
クオンがゴロンと横になり、その黄金の毛並みをさらけ出す。
レンジは再びコームを構え、慣れた手付きでブラッシングを始めた。
焚き火の暖かさと、極上のモフモフ感。レンジにとって至福の時間だ。
レンジが時間を忘れ、完全に至福のトランス状態に浸りながら手を動かし続けていると――
「……ん?なんか風が変わったな」
ブラッシングの手は止めず、レンジが夜空を見上げる。
頬を撫でる夜風が、少し生温かく、湿り気を帯びていた。
「(……ああ。南の風だ)」
「なんか、匂いもするな。森の匂いとは違う……もっと濃い匂いだ」
「(ふふ……明日には分かるさ)」
クオンは意味ありげに笑うと、再び目を閉じてレンジの施術に身を委ねた。
◇
翌日。
車はさらに南下を続けた。
昨夜感じた湿り気はさらに強くなり、街道沿いの木々も、針葉樹から背の高いヤシのような広葉樹へと変わり、空の色も濃さを増していく。
「やっぱり、空気が変わってきたよな」
レンジがシャツの襟元をパタパタと扇ぐ。
「(……うむ。この湿気、そしてこの匂い……間違いないな)」
クオンが鼻をひくつかせた。
オイルや排気ガスの匂いではない。
もっとこう、塩辛くて、濃厚な生命力に満ちた匂い。
「匂い?」
「(……そろそろ峠を越えるぞ。見えてくるはずだ)」
クオンの言葉通り、車が長い坂道を登りきり――視界が一気に開けた瞬間だった。
「…………うおぉぉっ!?」
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く水平線。
太陽の光を浴びて宝石のように輝くエメラルドグリーンと、深い藍色が入り混じった広大な世界。
「すげぇ!海だーッ!!」
「ニャーン!(おさかなー!!)」
「キュウ!(うみー!!)」
後部座席のルナとエメも、窓に張り付いて歓声を上げる。
長旅を続けてきた一行にとって、この圧倒的な開放感は格別だった。
白い砂浜と、青い海。陸の景色とは何もかもが違う。
「よし、あそこに見える港町まで一気に行くぞ!南国特有の『モフモフ』がいるかもしれないしな!」
「(……あるいは、『プルプル』か『ヌルヌル』かもしれんがな)」
クオンの冷静なツッコミも風にかき消される。
レンジはアクセルを踏み込んだ。
潮風が車内に吹き込み、レンジの髪を揺らす。
この先に待つのが、陸の常識が通用しない「深海の怪物たち」だとは知らず、一行は新たな冒険の舞台へと滑り込んでいった。
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