3. 神技の解毛(グルーミング)
レンジは、目の前にそびえ立つ「汚泥の塊」を見上げた。
近づくと、その惨状がより鮮明になる。
腐敗臭と鉄錆のような血の匂い。そして、鼻の奥を焦がすオゾンのような魔力の刺激臭。
九本の尾は互いに癒着し、まるで巨大な芋虫のように脈打っている。
(さて……大見得を切ったはいいが、どうする?)
レンジは内心で冷や汗を流していた。
ステータス画面には「魔力を道具に流す」と書いてあった。
だが、肝心の「流し方」のマニュアルがない。今の彼にあるのは、身体の内側で暴れ回る未知のエネルギーの奔流と、使い慣れた形状の道具だけだ。
恐る恐る、レンジは聖銀のコームを、岩のように固まった毛の塊に当ててみた。
ガチッ。
硬い。まるでコンクリートだ。ただの物理的な力で梳かそうとすれば、間違いなくコームのピンが折れるか、狐の皮膚が裂ける。
(魔力を使うんだ。……でも、どうやって?「出ろ」と念じればいいのか?)
レンジはコームを握りしめ、うんうんと唸ってみた。
しかし、体内の熱はドクンドクンと脈打つだけで、指先から外へ出ていこうとはしない。
ダムの水門が閉じているような感覚だ。
「グルゥ……(…どうした?やはり口先だけか?)」
狐が疑わしげに鼻を鳴らす。
レンジは「待ってくれ」と手で制し、深く息を吐いた。
(落ち着け。焦るな。……トリミングと同じだ。力づくじゃダメだ)
彼は目を閉じ、かつての感覚を呼び覚ます。
ハサミを持つ指先に神経を集中させ、ミリ単位の誤差も許されないカットをしていた時の、あの極限の集中状態。
そして、シャンプーをする時、お湯と泡が毛の隙間に浸透していくイメージ。
(この体の中にある熱を……シャワーのお湯だと思え。腕というホースを通って、指先へ、そして道具へ……)
レンジは、腹の底にある熱源を、意識的に汲み上げるイメージを描いた。
最初はうまく動かなかった熱が、意識の誘導に従って、じわりと胸へ、肩へと這い上がってくる。
(そうだ、そのまま……肘を抜けて、手首へ……!)
ドッ!
不意に、力が溢れ出した。
「うおっ!?」
制御しきれなかった魔力が、手の中のコームに一気に流れ込む。
キィィィン!!
コームが悲鳴のような高周波音を立て、眩いほどの白銀の光を放った。
その衝撃で、レンジの手が勝手に弾かれる。
「ガアッ!?(な、なんだ今の殺気は!?)」
「す、すまない! 力の加減が、まだ……!」
狐がビクリと身を引く。レンジは慌ててコームを抑え込んだ。
手持ち花火がいきなり暴発したような感覚だ。
だが、今の失敗で「水門」の開け方はわかった。
次は、蛇口をひねるように、もっと繊細に。
(もっと細く。……スリッカーブラシのピン一本一本に、神経を通すように)
レンジは再び集中した。
今度は爆発させない。静かに、滑らかに。
脈打つ魔力を、糸のように細く絞り出し、コームの先端へと送り込む。
コームの振動が収まり、代わりにプラチナ色の淡く、優しい光がピンの表面を覆い始めた。
その瞬間だった。
フォォン、という電子音と共に、目の前に再びステータス画面がポップアップした。
【条件達成:魔力による道具の最適化を確認】
【固有スキル『神の手』の派生能力を習得しました】
――習得スキル:『絶対解毛』
「……習得した? 俺の技術が、スキルになったのか?」
レンジは驚いて自分の手を見た。
コームが、まるで体の一部になったかのように馴染んでいる。
『絶対解毛』。その名称が意味する効果が、直感的に理解できた。
「あらゆる現象・状態を無効化し、あるべき姿へ還元する」概念干渉。
「……おまたせ。今度こそ、行くよ」
レンジは、光を帯びたコームの先端を、再び汚泥の塊に突き立てた。
先ほどは弾かれた硬度。
だが今度は、まるで熱したナイフをバターに沈めるように、ヌルリと抵抗なく吸い込まれていった。
「グルッ……!?」
狐が身を強張らせる。
だが、レンジの手首は滑らかに動いた。
ガリッ、ボロッ。
コームを一掻きするたびに、長年蓄積された樹液と泥の層が、乾燥した粘土のように崩れ落ちていく。
覚えたばかりの『絶対解毛』の効果で、汚れが分子レベルで分解され、毛から剥離していくのだ。
(すごい……。これなら、いける!)
レンジの顔に、職人の笑みが戻る。
ここからは、彼の独壇場だ。
彼はスリッカーブラシ(に変形させたコーム)を使い、ミリ単位の繊細さで「ライン」を入れていく。
被毛を根元から掻き分け、一本一本を独立させる「ライン・ブラッシング」の神技。
不慣れな魔力操作も、長年培った「手の動き」と連動させることで、次第に呼吸のように自然なものへと変わっていく。
バチッ、バチチッ……シュウゥ……。
尾の中で暴れていた青白い火花が、レンジのコームに絡め取られ、霧散していく。
魔力回路のショートが、物理的な「解毛」によって正常化されていくのだ。
「いい子だ。呼吸を楽にして……そう、その調子」
左手で毛束を優しく押さえ、右手でときほぐす。
絡まり(ノット)を見つけては、魔力を注いで潤滑させ、するりと抜く。
そのリズムは徐々に早まり、やがて目にも止まらぬ銀閃と化した。
ザッ、ザッ、ザッ。
心地よいリズム音だけが、森に響く。
「(あ、ああ……そこは、ずっと痒かった場所……)」
狐の喉が、ゴロゴロと鳴り始めた。
硬直していた筋肉が弛緩し、巨大な体躯が地面に沈み込む。
それは、長年の拷問から解放された者が漏らす、魂の安堵だった。
そして、最後の難関。
右から三番目の尾の付け根。すべての歪みが集約し、鬱血して黒ずんでいる「核」だ。
「あと少しだ。……ここを通すぞ」
レンジは指先に集中させた魔力の出力を、さらに一段階上げた。
もう迷いはない。
魔力の波動で結び目を振動させ、優しく、しかし確実に隙間を作る。
コームのピンが、結び目の中心を捉えた。
「開け……!」
レンジが手首を返すと同時、コームが「核」を貫通した。
パァンッ!!
乾いた音が弾け、目に見えない拘束具が砕け散る。
その瞬間。
ブワァッ!!
圧縮されていた九本の尾が、一気に弾けた。
今まで「塊」だったものが、扇のように四方八方へと広がる。
こびりついていた泥と死毛が衝撃で吹き飛び、中から現れたのは――
「……美しい」
レンジは手を止め、呆然と呟いた。
そこに現れたのは、太陽そのものだった。
一本一本が光の糸で織られたかのような、透き通る黄金の尾。
空気を孕んでふわふわと広がり、先程までの醜悪な姿が嘘のように、神々しい輝きを放っている。
鬱血していた皮膚は、スキルの治癒効果ですでにピンク色の健康な状態を取り戻し、魔力の循環も正常化していた。
九つの尾がゆらりと揺らめくたび、金色の燐光が舞い散る。
狐がゆっくりと起き上がった。
その身軽さは、先程までとは別物だ。
狐は自分の背後を振り返り、信じられないものを見る目で、大きく広がった九本の尾を見つめた。
「(重さが……ない。痛みも、焼けるような熱さも、すべて……)」
狐は尾を一本ずつ動かし、その感触を確かめるように空を撫でた。
そして、ゆっくりとレンジの方へ向き直る。
紅玉の瞳から、殺気と狂気は完全に消え失せていた。
あるのは、王としての威厳と、そして――
「(……人間。いや、神の手を持つ者よ)」
狐が顔を近づけてくる。
レンジは逃げなかった。
巨大な鼻先が、レンジの胸元に触れる。
匂いを嗅ぎ、そして親愛を込めて頬を舐めた。
「(見事だ。……礼を言うぞ)」
「いや、俺も楽しかったよ。久しぶりに良い仕事ができた」
レンジは緊張の糸が切れ、その場にへたり込んだ。
ドッと疲れが出た。
体内の魔力は、これだけ使ってもなお底が見えないほど溢れている。
疲弊したのは、その奔流を細い針の穴に通すような、極限の集中力を強いた脳と神経の方だ。
重い頭を振り、彼は濡れた頬を拭うと、目の前のフワフワの胸毛に顔を埋めた。
その時だった。
「(……人間。お前、どこから来た?)」
頭上から降ってきた声には、物理的な音波以上の「力」が込められていた。
レンジが顔を上げるより早く、黄金の瞳が光を放つ。
耳鳴りと共に、レンジの視界が白く染まった。
隠すことも、拒むこともできない。
自分の魂の奥底、記憶の図書館に土足で踏み込まれる感覚。
「(……ほう。白い箱のような城……ガラスと鉄の道具……)」
狐の瞳の中で、レンジの記憶が高速で再生されていた。
深夜のペットサロン。鳴り止まない電話。疲れ果てて倒れる瞬間。そして、最期に抱きしめた老犬のぬくもり。
レンジの人生の全てが、わずか数秒で露わにされる。
「(なるほど。お前は『向こう側』で死に、ここへ流れてきたか。……己の命を削ってまで他者に尽くし、果てたというのに。まだ懲りずに毛繕いとはな)」
「……覗いたのか?」
「(天狐にとって、人の子の記憶など水面に映る月も同然。隠し立てはできん)」
狐はふん、と鼻を鳴らしたが、その口調には侮蔑ではなく、奇妙な敬意が混じっていた。
神話級の生物だけが持つ、圧倒的な上位者としての知覚能力。
レンジは改めて、自分がとんでもない存在を相手にしていることを理解した。
「(して、レンジよ。我の尾を解いた今、お前はどうするつもりだ? 記憶にあったあの『白い城(店)』も、帰るべき家も、この世界にはないぞ?)」
「ああ。……まあ、気の向くままに歩いてみるさ」
レンジは記憶を覗かれたことに腹を立てることもなく、あっけらかんと空を見上げた。
「この世界には、君みたいに……魔力に苦しんでいる動物が、まだたくさんいるんだろう?」
「(……あぁ、)」
狐の表情が、ふっと曇った。
紅玉の瞳が、森の彼方、あるいはもっと遠くの世界を見つめる。
「(この世界はいま、病んでいる。大気には魔素が澱み、かつての我のように理性を失い、怪物へと堕ちる獣が増え続けているのだ。……お前が救おうとしているのは、そういう修羅の世界だぞ)」
「なら、なおさら行かなくちゃな」
レンジは膝についた土を払い、立ち上がった。
あてはない。だが、不思議と不安もなかった。
手にはハサミとコーム。体には溢れる魔力。そして目の前には、綺麗になった「患者」がいる。
それだけで十分だった。
「(……ほう、物好きだな)」
狐は呆れたように鼻を鳴らしたが、その瞳には明確な興味の色が宿っていた。
少しの沈黙の後、狐は威儀を正して告げた。
「(ならば、我が同行しよう)」
「え?」
レンジは顔を上げた。
「(命を救われた借りを返さぬのは、王として有るまじき行為だ。……それに一一)」
狐はレンジの全身をじろりと見た。
「(お前のような無防備な人間が、その強大すぎる魔力を持ったまま一人で歩き回るなど、危なっかしくて見ていられん。その身に宿す魔力は、澱んだ獣たちを引き寄せる松明のようなものだぞ)」
それは、不器用ながらも最大の賛辞であり、守護の申し出だった。
孤独だったレンジの旅路に、最強の伴侶が並び立つ。
「(名はクオンだ。……よろしく頼むぞ、我が主治医殿)」
「ああ、こちらこそ。……よろしくな、相棒」
温かい風が吹いた。
店も、縛りも、時間の制限もない。
伝説の神獣を最初の旅の道連れとする、元店長レンジの、終わりのない気ままな旅がここから始まる。
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