35. 暴走する銀狼と、トリマーの覚悟
『■■■■■■ォォォォォォ…………ッ!!』
バグり散らかした咆哮と共に、黒い巨体が雪崩のように押し寄せてきた。
フェンリルの突進だ。
ただ走るだけで周囲の雪を巻き上げ、黒いタールの飛沫を散弾銃のように撒き散らす。
「くっ、避けろ!」
レンジはハンドルを切り、間一髪で突進を回避する。
だが、フェンリルが通り過ぎた後の地面は、ドロドロの粘液で埋め尽くされ、強烈な異臭を放っていた。
「ダメだ、速すぎる!あんな巨体で、なんであんな動きができるんだ!」
レンジは車を岩陰に滑り込ませると、暴走するフェンリルを凝視した。
疑問の答えは、その足元にあった。
「なるほど……。走ってるんじゃない、『滑って』やがるのか」
レンジは舌打ちした。
溢れ出る大量の粘液が潤滑油となり、雪面との摩擦を極限まで減らしていたのだ。
自重数トンの巨体が、自らの油で作ったスケートリンクの上を滑走しているようなもの。あの異常な加速と、慣性を無視したドリフト機動の正体はそれだ。
「制御不能の暴走ソリかよ。タチが悪すぎる」
「(レンジ!悠長に分析している暇はないぞ!)」
クオンが叫ぶ。
フェンリルが岩肌を蹴り(滑り)、再びこちらへ向き直ったからだ。
赤い瞳が、憎悪と苦痛で濁りきっている。
「(……チッ。ならば、無理矢理にでも押さえつけるまで!)」
クオンが車のドアを蹴破る勢いで飛び出した。
空中で黄金の狐火を纏い、巨大な九尾の狐――本来の神獣形態へと変化する。
「(来るがいい、堕ちた狼よ!天狐が相手をしてやる!)」
『■■■■ガァァァァッ!!』
フェンリルがクオンに飛びかかる。
黄金と漆黒(元白銀)。
二柱の神獣が激突し、衝撃波が雪山を揺らした。
「(……重いな!貴様、どれだけ余計なものを背負い込んだ!)」
クオンがフェンリルの前足を尻尾で受け止めるが、その表情は苦悶に歪む。
物理的な重さだけではない。尻尾を通じて伝わってくるのは、底なしの密度を持った「呪い」の質量だ。
「(……馬鹿な男だ。麓の民たちに流れるはずだった呪いを、すべて己の身一つで堰き止めたというのか)」
クオンは悟った。
機巧結社が撒き散らした呪いは、本来なら雪解け水と共に麓の集落へ流れ込み、獣人たちを全滅させていたはずだった。
だが、このフェンリルは自らその源流に立ち塞がり、全ての汚染をその身に吸い上げたのだ。
民を守るために、誇りである白銀の毛皮を犠牲にして。
『■■■……コロ……セ……』
「(……民を守ってこのザマか。……フン、相変わらず虫酸が走るほど『高潔』な男よ!)」
クオンは吐き捨てるように叫び、フェンリルを弾き返した。
彼女の声には、愚直なライバルへの呆れと、それでも王としての矜持を貫いたことへの苛立ちが混じっていた。
だが、決定打にはならない。フェンリルの体は幾重もの油と呪いの層で守られており、打撃が深くまで届かないのだ。
「クオン、離れろ!準備できたぞ!」
岩陰からレンジが飛び出した。
その手には聖銀のコーム――ではなく、魔法鞄から取り出した巨大な樽が抱えられていた。
「まずはそのガチガチの鎧を剥がす!滑るのが得意なら、もっと滑りやすくしてやるよ!」
レンジは樽を放り投げた。
空中でクオンが尻尾で樽を打ち砕く。
中から飛び散ったのは、白く泡立つ粘度の高い液体――レンジ特製の「高濃度アルカリ魔法石鹸水」だ。
バシャァァァッ!!
頭から大量の石鹸水を浴びたフェンリルが、驚いて動きを止める。
「スズ、今だ!お湯をぶっかけろ!」
「はい! 一一『熱湯瀑布』ッ!!」
スズが御幣を振るうと、虚空から熱々の温水が鉄砲水のように噴出した。
石鹸と熱湯が混ざり合い、フェンリルの体表で化学反応を起こす。
強固だった油の結界が、乳化作用によってドロドロと溶け出し始めた。
『■■■!? ア゛、ア゛ア゛……!?』
油が浮き上がり、フェンリルが体勢を崩す。
足元の雪がぬるぬると滑り、踏ん張りが効かなくなったのだ。
「(……今だ、レンジ!)」
クオンがフェンリルの四肢を、九本の尻尾で縫い止める。
「おうよ!」
レンジは地面を蹴り、フェンリルの背中へと飛び乗った。
鼻をつく腐臭と油の臭い。
足元はヌルヌルして立っているのもやっとだが、レンジは構わずにコームを構えた。
「暴れるなよ!ここからは『神の手』の時間だ!」
レンジの手の中で、聖銀のコームが眩い光を放つ。
彼はそれを、フェンリルの背中の最も毛玉がひどい部分――呪いの核となっている場所へ突き立てた。
「【絶対解毛】ッ!!」
ザシュッ!!
刃物で切る音ではない。
何千本もの絡まった糸が、一瞬でほぐれる心地よい音。
コームが通った軌跡から、黒いタールと紫色の呪いが霧散し、その下から――。
「……!」
目が覚めるような、美しい「白銀」の輝きが現れた。
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今後とも『「神の手」を持つトリマーは、伝説の魔獣と気ままな旅をする』を宜しくお願い致します!




