2.堕ちた金色の王
森の奥へ進むにつれ、空気の質が変わった。
肌にピリピリと突き刺さるような静電気にも似た感覚。先ほどステータス画面で認識した「魔力」というエネルギーが、この空間には濃密に充満しているようだ。
レンジは無意識に喉を鳴らし、シダ植物の壁をかき分けた。
視界が一気に開ける。
そこは、森の一部が巨大なスプーンで抉り取られたかのような、すり鉢状の空間だった。
なぎ倒された巨木、ガラス状に溶解した地面。
その破壊の中心に、それはうずくまっていた。
「……嘘だろ」
レンジは思わず息を呑んだ。
巨大な狐だ。
体高は3メートルを優に超えている。
本来であれば、陽の光を吸い込んだような黄金の毛並みを誇っていただろう。
だが、今の姿はあまりにも痛々しい。
黄金の毛は泥と血、そしてタールのような黒い粘液で固められ、本来の輝きを失っている。
何よりレンジの目を奪ったのは、その背後に引きずられた異様な「塊」だった。
一本、二本……数え切れぬほどの尾。
樹液と枯れた蔦、そして自身の抜け毛によって複雑怪奇に絡まり合い、一つの巨大な「こぶ」となってしまっているのだ。
「グルルゥ……ッ」
狐が身じろぎした、その時だった。
バチバチッ!
その「こぶ」の隙間から、青白い閃光が迸った。
「うわっ……!?」
レンジは反射的に目を細めた。
静電気などという可愛いものではない。まるでショートした電線のように、激しい火花が狐の身体を走っている。狐はそのたびにビクンと身体を痙攣させ、苦悶の声を漏らしていた。
(なんだ今の光は……。あれが『魔力』ってやつなのか?)
さっき自分の体内で感じた力が、この狐の場合は外に漏れ出し、暴れているように見える。
レンジの胸の奥で、トリマーとしての直感が警鐘を鳴らした。
あれは、ただ絡まっているだけじゃない。もっと深刻なことが起きている。
(確かめないと……『神の手』!)
彼は強く念じ、ステータス画面にあったスキルを発動させた。
フォォン……。
視界に再び半透明のウインドウが重なる。今度は、狐の身体の上に、レントゲン写真のように詳細な情報がタグ付けされて表示された。
【解析結果】
対象: 九尾の狐(天狐・神堕寸前)
状態:魔力回路 短絡:九尾癒着による循環不全、尾根部の壊死性皮膚炎(重度)、全身打撲および棘刺傷
精神: 極度の人間不信、絶望
「回路の……ショート……?」
表示された文字を見て、レンジは戦慄した。
『魔力』というものが何なのか、まだ詳しくはわからない。だが、『回路』が『ショート』しているという言葉の意味なら、現代人の彼には痛いほど想像がついた。
(体の中を巡るエネルギーが、行き場を失って爆発してるってことか……!?)
改めて、火花を散らす狐を見る。
その痛みは、単に毛が絡まる不快感とは次元が違うはずだ。
(あれは……神経に直接、高圧電流を流され続けているようなものじゃないか…)
想像するだけで吐き気がする激痛だ。
よく発狂せずに正気を保っていられる。
レンジの胸に、恐怖以上の強烈な義憤が湧き上がった。
「カァァァッ!!(去れ!人間め、我が尾を斬り落としに来たか!)」
「っ……!」
殺気が物理的な突風となって吹き荒れる。
レンジは咄嗟に腕で顔を覆ったが、体は吹き飛ばされなかった。
体内の『魔力』が自動的に防御膜を作り出しているのか、強烈なプレッシャーの中にあっても、足の裏が地面に吸い付いたように安定している。
レンジは恐れを押し殺し、顔を上げた。
普通の人間なら逃げ出す場面だ。だが、彼の目には「怪物」ではなく、「助けを求める患者」が映っている。
彼は一歩、踏み出した。
「ガアアッ!(寄るなと言っている!)」
ドォン!
狐の前脚が叩きつけられ、レンジの足元数メートルの地面が爆ぜた。
熱波が髪を焦がす。
だが、レンジは止まらない。解析結果を見た以上、もう引き返せなかった。
「……なあ、聞こえるか」
レンジは声を張り上げず、あえて低く、落ち着いたトーンで呼びかけた。
「一番辛いのは、右から三番目の尾の下……そこが他の尾に巻き込まれて、ねじれている場所じゃないか?」
ピクリ、と狐の耳が動いた。
「コォ……(……なぜ、それを知っている?)」
「視えるんだ。俺には」
レンジはゆっくりと、敵意がないことを示すように両手を見せながら、その場にあぐらをかいて座り込んだ。
「俺はトリマー……いや、ただの『毛並み整え屋』だ。君を狩りに来たんじゃない。その絡まった尾があまりに痛そうで、放っておけないだけのお節介な通りすがりさ」
「(……人間が、我を助けるだと? 笑わせるな。貴様らはずっと、我の毛皮と魔石を狙って追い回してきたではないか)」
狐の瞳から警戒の色は消えない。
レンジはポケットから、愛用の――今や聖銀の魔道具となった――コームを取り出した。
「待ってくれ。これは武器じゃない」
レンジはコームを自分の腕に当て、優しく撫でて見せた。
「これは『コーム』。君のその絡まった毛を、一本も切らずに解くための道具だ。……俺は、君の美しい金色の毛皮を傷つけたりしない。ただ、元の姿に戻してあげたいだけなんだ」
狐の視線が、レンジの目と、手元のコームを行き来する。
レンジはまっすぐに狐を見つめ返した。
「俺も、もう何かに縛られるのは御免なんだ」
レンジは自嘲気味に笑った。
かつて店という箱の中で、数字と時間に追われ、心をすり減らした日々。
だからこそ、目の前の狐が「絡まり」という檻に縛られ、苦しんでいる姿を見過ごせなかった。
「……なあ、俺に賭けてみないか? もし俺が君を少しでも傷つけたら、その狐火で俺を灰にしてくれて構わない」
森に沈黙が落ちた。
九尾の狐は、レンジの魂の色を見定めるように、長い間じっと彼を凝視していた。
やがて、狐の口から、深い溜息が漏れた。
「(……よかろう。今のまま腐り落ちるのを待つよりは、マシかもしれん)」
ズズズ……と地響きを立てて、巨体が動く。
狐はレンジに背を向け、最も無防備で、最も醜悪に絡まり合った九本の尾を差し出した。
「(ただし、少しでも痛みを伴えば、即座に喉笛を喰らうぞ。……人間)」
「ああ、約束する」
レンジは立ち上がった。
全身の血が沸騰するような高揚感。
ステータス画面の『魔力』が呼応し、指先が熱く脈打つ。
「最高の癒やしを約束するよ」
彼はハサミとコームを構え、地に堕ちた金色の王へと歩み寄った。
異世界に来て最初の施術が、今始まる。
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