27. 南の大樹海と、錆びついた森
翌朝。
『赤龍楼』の朝食会場には、げっそりと目の下に隈を作ったレンジと、対照的にツヤツヤと肌(毛並み)の調子が良いクオンの姿があった。
「……おはようございます」
レンジが死んだ魚のような目で席に着くと、給仕をしてくれた湯守の爺さんが不思議そうに声をかけた。
「おや、どうした兄ちゃん?せっかくの一番風呂だったのに、あんまり気持ちよくなかったか?」
「いえ、温泉は最高だったんですけど……」
レンジは言葉を濁し、恨めしげに足元の金色の狐を見た。
昨晩の浴室での一幕――湯気の中から現れた、神々しくも扇情的な美女の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れないのだ。
鼻血を出してのぼせたレンジを、クオンが面白がって介抱(という名のいじり)をしたおかげで、結局明け方まで動悸が収まらなかった。
「……ちょっと、刺激が強すぎまして」
「あん?湯あたりでもしたか。だらしねぇなぁ」
爺さんはガハハと笑い、熱いお茶を注いでくれた。
その横で、クオンは小皿に乗った温泉卵をペロリと平らげ、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「(ククッ。……なんとひ弱な精神よ。あれしきのことで取り乱すとは、まだまだ修行が足りぬな)」
レンジは何も言い返せず、黙々と焼き魚を口に運んだ。
◇
朝食を終え、爺さんに別れを告げた一行は、再びレンジの愛車である魔導車両に乗り込んだ。
レンジが運転席に座り、助手席のスズが地図を広げる。
「西の山は片付きました。残る異変箇所は二つ……北の『白銀嶺』と、南の『緑海』」
スズが地図をなぞる。
「南に行こう」
レンジはハンドルを握りながら即決した。
「北の雪山も心配だが、ここからだと南の方が近い。それに……」
レンジはフロントガラス越しに、南の空を見上げた。
どんよりとした鉛色の雲が、南の地平線をべったりと覆っているのが見える。
「あの雲の色、ただの雨雲じゃないな。西の火山と同じで、空気が死んでる」
「……流石ですね。南の『緑海』は、この国の空気を浄化する『肺』のような場所なんです。あそこが止まれば、国中に毒が回ってしまいます」
スズが膝の上で拳を握りしめた。
「なら急がないとな。……ナビ頼むよ、スズさん」
「はい、お任せください!」
◇
車は整備された街道を外れ、鬱蒼とした森へと入っていった。
最初は青々としていた木々だが、奥へ進むにつれて、徐々に異様な光景が広がり始めた。
「……なんだ、これ?」
レンジは速度を落とし、窓の外を凝視した。
森の緑色が、徐々に「赤茶色」へと変貌しているのだ。
紅葉ではない。枯れているのでもない。
「錆……?」
木の幹や葉が、まるで鉄が酸化したように赤黒く変色し、ガサガサに乾いている。
地面の草も、針金のように硬く変質し、タイヤが踏むたびにパキパキと不自然な金属音を立てて折れた。
「(……臭うな。鉄と、鼻を刺す薬の臭いだ)」
後部座席のクオンが鼻をひくつかせ、不快そうに顔をしかめた。
「ああ。毛染め液とか漂白剤なんかより、もっと強烈だ。……鼻の奥が焼けるような、『酸』の臭いがする」
レンジの言葉に、スズが悔しげに頷く。
「この森の水源付近に、機巧結社の『装甲強化工房』が建てられたという噂がありました。機巧兵器を強化するための『錬金薬液』……恐らく、その排水と煙突から出る金属粉が原因です」
自然の中に、無理やり毒を垂れ流す。
それは西の火山で見た光景と同じ、あるいはそれ以上に悪質な「環境破壊(呪い)」だった。
「ッ!?」
不意に、レンジはブレーキを踏み込んだ。
車の前方に、道を塞ぐように倒れている巨大な影が見えたからだ。
「あれは……なんだ?」
レンジたちが車を降りて駆け寄ると、そこにいたのは一頭の巨大な「大鹿」だった。
体高は5メートルほどあるだろうか。本来なら威厳ある森の守り神のはずだが、今の姿はあまりにも痛々しかった。
「酷い……」
大鹿の全身の毛は、赤茶色の錆と、得体の知れない半透明の樹脂でガチガチに固められていた。
関節部分には特に分厚く樹脂がこびりつき、足が曲がらなくなっている。
まるで、生きながらにして「銅像」にされてしまったかのようだ。
「……ヒュー……ヒュー……」
大鹿は苦しげに息を吐いているが、その呼吸音すらも笛のように鳴っている。鼻の穴まで樹脂で塞がれかけているのだ。
レンジはそっと大鹿の首元に触れた。
【解析結果】
対象: 緑海の主(霊鹿)
状態: 全身硬化、金属汚染、窒息寸前
汚染原因: 工業用強力樹脂&酸化鉄粉
症状詳細: 錬金薬液を含んだ雨と粉塵により、被毛が「繊維強化プラスチック(FRP)」のように硬化。関節の自由を奪われ、皮膚が壊死し始めている。
推奨施術: 特殊溶剤による「溶解」および、防錆(サビ取り)洗浄。
「……樹脂と鉄粉で、全身を塗り固められてる。これじゃ皮膚呼吸ができなくて、じわじわ窒息していくだけだ」
レンジの診断に、スズが口元を押さえた。
「そんな……!神様を、こんな作り物のように……!」
「(許せぬな。神を汚すにも程がある)」
クオンの体から、怒りの黄金のオーラが立ち上る。
だが、レンジは冷静に魔法鞄を探った。
ここに来る途中、ルリデンのガレス商会で補充しておいた「ある道具」が役に立つはずだ。
「スズ、泣いてる場合じゃないぞ。まだ息はある。……『解体作業』の開始だ」
レンジは鞄から、大型の噴霧器と、金属製のスクレイパーを取り出した。
「相手はガチガチに固まった樹脂だ。ハサミもバリカンも通らない。……まずは、溶かして剥がす!」
レンジはゴーグルを装着し、大鹿の前に立った。
西の火山が「削岩」なら、南の樹海は「溶解」だ。
錆びついた森の主を救うため、錬金毒との戦いが幕を開ける。
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