26. トルネード・スピン・ドリル(笑)と、約束の一番風呂
火竜の背中から黒いタールが完全に剥がれ落ち、炎獄山の山頂に青空が戻った。
レンジはガスマスクを外し、心地よい達成感と共に大きく息を吐いた。
「ふぅ……。終わったな」
「(……プッ)」
不意に、背後から吹き出すような音が聞こえた。
振り返ると、元の小さなキツネの姿に戻ったクオンが、前足で口元を押さえながら震えている。
「(クククッ……。『トルネード・スピン・ドリル』……ぶふっ!)」
「……おいッ」
「(いや、すまぬ。あまりにもそのまんまな名前だったものでな。あの緊迫した場面で、まさか幼児のお遊戯のような技名を叫ぶとは……思い出し笑いが止まらぬ)」
クオンは涙目になりながら、地面をバンバンと叩いて笑っている。
レンジの顔が一気に赤くなった。
「うっさい!勢いだよ、勢い!必殺技っぽく叫んだ方が気合い入るだろ!?」
「(ふふっ。まあよい。その『回転ドリル』とやらのおかげで助かったのは事実だ。……礼を言うぞ、ドリル使い)」
「ドリル使いって呼ぶな!」
レンジとクオンがそんな漫才をしていると、目の前の巨大な影が動いた。
鮮やかな紅蓮のウロコを取り戻した火竜が、長い首を下げ、レンジの目の前に顔を寄せたのだ。
その瞳は、先ほどの狂乱が嘘のように穏やかで、深い知性を宿していた。
『……小さきヒトの子よ』
頭の中に直接、重厚な声が響いた。念話だ。
『我が背の重荷を取り除いてくれたこと、感謝する。……あのままでは、我は自身の熱で内側から溶け、この山ごと吹き飛んでいたであろう』
「仕事をしただけですよ。あんたが無事でよかった」
レンジが照れくさそうに答えると、火竜は満足げに喉を鳴らし――そして、ふとレンジの肩に乗る金色の狐に視線を移した。
『……フン。それにしても、あの「性悪な天狐」が人間に懐くとはな。……明日は槍でも降るか?』
「え?」
レンジはきょとんとした。
(性悪な天狐……?やっぱり、同業者同士だと、クオンの性格の悪さは有名なのか?)
クオンはそっぽを向き、鼻を鳴らした。
「(……黙れ、トカゲ。余計な口を叩くと、もう一度その薄汚い背中に栓をしてやるぞ)」
『カカッ、相変わらず口の減らん女狐よ。……だが、その減らず口が聞けるのも五百年ぶりか』
火竜は愉快そうに笑ったが、レンジにはそれが「一触即発の睨み合い」に見えた。
(うわぁ……。やっぱり高位の魔獣同士って仲悪いんだな。煽り合ってるよ)
火竜は再びレンジに向き直ると、その喉元からカラン、と何かが落ちてきた。
それは拳ほどの大きさがある、真っ赤に輝く宝石のような「ウロコ」だった。
『我が力の欠片だ。持っていくがよい。その石は決して冷めることなく、あらゆる炎を退ける加護を持つ』
「いいのか?……ありがたく頂くよ」
レンジがそのウロコを拾い上げると、ほんのりと温かかった。
『我はしばし、マグマの底で傷を癒やす。……西の地を汚す者どもに、我の炎が鉄槌を下すその日まで』
火竜はそう言い残し、最後にチラリとクオンを一瞥してから、ザブンとマグマの池へと潜っていった。
後には、穏やかな熱気だけが残された。
◇
下山する頃には、空はすでに茜色に染まりかけていた。
麓の村まで戻ったレンジたちを迎えたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした湯守の爺さんだった。
「おおぉぉ……!戻った!湯が戻ったぞぉぉ!!」
宿の裏手にある源泉升からは、先ほどまでのヘドロが嘘のように、無色透明で清らかなお湯がこんこんと湧き出していた。
あたりに漂っていた腐臭も消え、本来の香ばしい硫黄の香りが戻っている。
「すげぇ……。これが本物の『神の湯』か」
「ああそうだ!これぞ『赤龍楼』が誇る、万病を癒やす霊泉だ!」
爺さんはレンジの手を両手で握りしめ、頭を下げた。
「疑ってすまなかった!あんたは本当に世界一の掃除屋……いや、トリマー様だ!約束通り、一番風呂を開けてやる!さあ入ってくれ!」
「遠慮なくご馳走になりますよ。……正直、汗と灰ですごいことになってるんでね」
レンジたちは爺さんの厚意に甘え、部屋で少し休憩を取ってから風呂へ向かうことにした。
やがて日は完全に落ち、温泉街に静かな夜が訪れた。
◇
案内されたのは、宿の最上階にある展望露天風呂だった。
眼下には闇に沈んだ温泉街、頭上には満天の星空が広がっている。
湯船を満たすのは、火竜の加護を受けた極上の源泉かけ流しだ。
「うおぉぉ……生き返るぅ……」
レンジはザブンとお湯に浸かり、心の底から安堵の息を漏らした。
熱めのお湯が、酷使した筋肉と神経にじんわりと染み渡っていく。ただ浸かっているだけで、疲れきった身体が満たされていくのが分かった。
「ニャ〜♪(おさかなさ〜ん)」
「キュゥ〜……(とけるぅ……)」
ルナはタオルを頭に乗せてプカプカと浮き、エメは岩場の浅瀬で半身浴をして目を細めている。
最高の気分だ。レンジが岩にもたれて夜空を見上げた、その時だった。
ふわりと、夜風の匂いが変わった。
鼻をつく硫黄の香りに混じって、どこか甘く、脳髄を痺れさせるような高貴な伽羅の香りが漂ってきたのだ。
ペタッ……ペタッ……。
静かな足音がして、湯気の向こうから誰かが歩いてくる気配がした。
「(ふぅ……。やはり、仕事の後の湯は格別だな)」
鈴を転がすような、涼やかで艶のある声。
レンジがそちらを見た瞬間、思考が真っ白に塗りつぶされた。
そこにいたのは、狐ではない。
月明かりの下、黄金の光を糸にして織り込んだような長い髪と、内側から発光しているかのように透き通った白い肢体を持つ、絶世の美女だった。
「……ッ!?」
レンジは言葉を失い、目を見開いたまま凍りついた。
彼女は薄いバスタオルを一枚、豊かな胸元に巻いているだけ。
濡れた黄金の髪が、滑らかな肩や深くくびれた腰にまとわりつき、滴る水滴が白い肌の上を滑り落ちていく。
湯気で上気した頬、少し潤んだ切れ長の金色の瞳、そして熟れた果実のように濡れた唇。
ただ美しいだけではない。
人間とは根本的に造りが違う、神々しいまでの「美の暴力」。
直視すれば目が潰れてしまいそうなほどの圧倒的な色香が、夜の闇に溶け出していた。
「(……なんだ。そのような呆けた顔をして)」
美女――人の姿をとったクオンは、妖艶に唇の端を吊り上げると、しなやかな動きで湯船の中へと足を踏み入れた。
チャプン……。
ゆらりとお湯が波打ち、彼女の豊満な肢体が沈んでいく。
レンジのすぐ隣、吐息がかかるほどの距離に彼女が腰を下ろすと、甘美な香りが一層強く鼻腔をくすぐった。
「お、おい……嘘だろ……クオン、なのか……?」
「(いかにも。……それとも何か?あの勇敢なる『トルネード・スピン・ドリル』の使い手様は、女の裸体ごときで怖気づくのか?)」
クオンが楽しげに笑い、レンジの顔を覗き込む。
その距離、わずか数センチ。
長い睫毛の一本一本まで見える距離で微笑まれ、レンジの心臓は早鐘のように打ち鳴らされた。
「ち、近すぎだ馬鹿!それに、そんな姿……聞いてないぞ!」
「(姿など、ただの器に過ぎぬ)」
クオンはあきれたように吐息を漏らし、濡れた指先でレンジの胸板をツツッとなぞった。
「(我の『本来の姿』ならば、其方は毎日飽きるほど見ているではないか。風呂に入れ、毛を梳き、尻尾の付け根までまさぐって……今さら、何を恥じらう必要がある?)」
「そりゃ獣の姿の時の話だろ!?人間の姿じゃ意味が全然違うんだよ!」
「(フン……。人間というのは、妙なところで線引きをする生き物だな)」
クオンは悪戯っぽく目を細めると、湯の中でレンジの手を捕まえ、自身の滑らかな太腿の上へと導いた。
「っ!?」
「(……だが、この姿も悪くはあるまい?)」
指先に伝わる、驚くほど滑らかで弾力のある肌の感触。
レンジの顔が一気に沸騰した。
男装の麗人であるコクヨウも美しかったが、目の前にいるのは「美」の概念そのものが服を着て(いや、着ていないが)歩いているような存在だ。
クオンはレンジの動揺をたっぷりと堪能した後、ふと真面目な表情になり、遠くの夜空を見上げた。
「(……それにしても、良い湯だ。あの黒く濁っていた山が、よくぞここまで澄み渡ったものよ)」
彼女は湯を掬い、愛おしそうに自身の肩へと掛けた。
黄金の髪を伝って、しずくが鎖骨の窪みに溜まり、そして胸の谷間へと消えていく。
「(礼を言うぞ、レンジ。……其方のおかげで、友が一人救われた)」
「……友?」
「(ああ。あの火竜とは、五百年前からの喧嘩友達でな。……変わり果てた姿を見た時はどうなるかと思ったが、其方のおかげで助かった)」
クオンはレンジの手を強く握り返した。
その手は小さく華奢だが、確かな体温と信頼がそこにあった。
「(……これからも頼むぞ、我が相棒)」
「……ああ。任せとけ」
レンジは直視できない気恥ずかしさを誤魔化すように、視線を夜空へと逃がした。
夕暮れの風が吹き抜け、温泉街に久しぶりに穏やかな時間が流れる。
最初の任務は、大成功で幕を閉じたのだ。
……そう、綺麗に終わるはずだった。
「……ところでクオン。そのタオル、結び目が解けかけてないか?」
レンジが親切心で指摘すると、クオンは自分の胸元を見た。
「(ん?ああ……)」
彼女はニヤリと意味深に笑うと、タオルを押さえるどころか、指先でその結び目を摘まんだ。
「(いっそ、邪魔くさいな)」
「は?」
バサァッ。
一瞬の躊躇もなく、彼女は自らバスタオルを取り払った。
月明かりと白い湯気の中、神の完全なる美が、一切の隠し事なく解き放たれる。
「ぶふぉあアアアアアッ!?馬鹿野郎、何してんだお前ーーッ!!」
レンジは鼻血が出そうなほどの衝撃を受け、盛大にお湯の中へひっくり返った。
「(何を叫んでいる?まったく、騒がしい男だ)」
湯守の爺さんが言った「一番風呂」は、レンジにとって別の意味でも刺激的すぎる、忘れられない夜となったのだった。
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