プロローグ
--午前2時。東京都心のビル街は死んだように静まり返っていた。
冷たい雨がアスファルトを叩く音が、分厚いコンクリートの壁を通して鈍く響いてくる。港区の裏路地にひっそりと店を構える高級ペットサロン「Ciel」の裏口から、微かなモーター音だけが漏れ出していた。
店内は清潔だがどこか冷ややかな白亜の空間だ。最新鋭の設備が整えられたトリミングルームの中央、昇降式の油圧テーブルの傍らに、店長の天野蓮司(28歳)は立っていた。
レンジの視界は白く霞んでいた。連日の激務による疲労は、肉体の限界をとっくに超えている。カフェインの過剰摂取による動悸が、肋骨の裏側で早鐘を打っていた。それでも、彼の指先だけは、まるで別の生き物のように冷静かつ鋭敏に研ぎ澄まされていた。
テーブルの上で震えているのは、ゴールデンレトリバーだ。かつては美しい黄金色の被毛を誇っていただろうその老犬は、いまや泥と排泄物、そして自身の抜け毛が複雑に絡み合った「鎧」をまとい、小さく身を縮めていた。
飼育放棄。その四文字が、レンジの脳裏に重くのしかかる。
飼い主は「引っ越すから」という理由で、毛玉だらけのこの子を保健所に持ち込もうとしたらしい。それを偶然見かけたレンジが、なかば強引に引き取ってきたのだ。
「大丈夫だ、怖くないよ。ただのブラシだ」
レンジの声は意識して低く、ゆっくりとしたトーンに調整されている。
これは犬の心拍数を同調させて下げるための技術であり、同時にレンジ自身が理性を保つための呪文でもあった。
彼は右手にしたスリッカーブラシ――「く」の字に曲がった無数の金属ピンが植え込まれたブラシ――を、犬の皮膚に対して数ミリの隙間を保ちながら、並行に滑らせた。
決して力任せには引かない。毛を引っ張ることなく、死毛だけをピン先に絡め取り、手首を返して抜き取る。
サッ、サッ、という乾いた音が静寂な店内にリズミカルに響く。
「……ひどいな。皮膚が呼吸できてない」
ブラシが入るたび固まった毛の塊がほぐれ、その下から蒸れて赤くただれた皮膚が露わになる。
犬の皮膚は人間の三分の一ほどの薄さしかない。ダブルコート(二重被毛)を持つ犬種にとって、換毛期に抜け落ちずに残った下毛は、湿気を含んでフェルト状に固まり、通気性を完全に遮断する「拘束衣」となる。
それは単なる不快感ではない。真菌や細菌の温床となり、膿皮症を引き起こし、夏場であれば熱中症で死に至ることさえある危険な状態だ。
(痛かったろうな。痒かったろうな……)
レンジの胸に、怒りと悲しみが混ざり合ったドロリとした感情が湧き上がる。だが、それを指先に伝えてはいけない。トリマーの感情は、リードや手を伝って犬に伝播するからだ。
犬が不快感で振り返ろうとするたびに、レンジは視線を合わせず、ゆっくりと大きな「あくび」をして見せた。
カーミングシグナル。犬同士が「敵意はない」「落ち着こう」と伝え合うためのボディランゲージだ。彼は目を細め、わざとらしく視線を逸らし、体の側面を見せる。
——僕は敵じゃない。君を傷つける意思はない。ただ、君を楽にしてあげたいだけなんだ。
その無言の対話が成立するまで、数分。
やがて、老犬の緊張の糸がふっと緩んだ。小さく鼻を鳴らし、全身の力を抜いてテーブルに顎を乗せる。
「ふぅ……」という深いため息が、老犬の鼻先から漏れた。それは、長い苦痛の末にようやく安息を見つけた者の、信頼の証だった。
その瞬間だった。
レンジの脳内で、何かが弾けた。
(あ、れ……?)
強烈な頭痛というよりも、脳の回路が物理的に焼き切れたような、乾いた衝撃だった。
視界が急速に暗転していく。
足元の床が液状化したかのように感覚を失い、膝が崩れ落ちる。
スリッカーブラシが手から滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。
(ああ、まずいな。まだ、この子の耳の裏が残ってるのに……)
プロとしての未練が、薄れゆく意識の縁に引っかかる。
耳の裏は毛玉ができやすく、皮膚が薄くて痛がりやすい場所だ。一番の難所を残して倒れるわけにはいかない。
立たなければ。手を動かさなければ。
しかし、体は鉛のように重く、指一本動かせない。
冷たい床の感触が頬に伝わる。
その直後、温かく湿った感触が顔を撫でた。
薄目を開けると、テーブルから降りてきた老犬が、倒れ込んだレンジの顔を必死に舐めていた。
ザリ、ザリとした舌の感触。
その瞳は、不安に揺れているようにも、感謝を伝えているようにも見えた。
「ワン……」
弱々しく、けれど優しい鳴き声が、遠くのほうで聞こえた。
(ごめんな。驚かせちゃったな)
レンジは心の中で謝った。
走馬灯のように、これまでの人生が駆け巡る。
専門学校を出て、安月給の下積み時代を耐え、ようやく自分の店を持つことができた。だが、待っていたのは経営という名の重圧と、終わりのない労働だった。
「カリスマトリマー」ともてはやされ、予約は三ヶ月待ち。顧客の要望はエスカレートし、休日は消え、睡眠時間は削られ続けた。
動物が好きで始めたはずなのに、いつしか数字と時間に追われるだけの機械になっていた。
(次は……もっと、ゆっくりと)
レンジの意識は、深い海の底へと沈んでいく。
ドライヤーの送風音が遠ざかり、代わりに不思議な静寂が満ちてくる。
(ただ、君たちを癒してあげられるだけの時間が欲しい。ノルマも、時間も関係なく……ただ、この温かい毛並みを整えて、君たちが気持ちよさそうに眠る顔を見ていたい……)
それが、レンジ――天野蓮司という人間の、最期の願いだった。
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