インドシナ戦争(1958年〜1968年)
◇ 背景
1950年代後半、ヴィシー・フランス政権は欧州ではドイツの庇護下にあったが、
インドシナ(仏領東洋植民地)は次第に帝国圏の影響圏外へと逸脱しつつあった。
地中海〜インド洋航路は英米蝦日同盟の制海権下にあり、
ドイツからの軍事・経済支援はほぼ途絶していた。
このためインドシナ総督府は、実質的に現地駐留フランス官僚と民兵部隊が運営する
半独立政権に変質していた。
ヴィシー政権はこれを「南インドシナ自治政府」として形式上承認するが、
実態は「帝国圏から孤立した植民残余」であった。
その一方で、北部トンキンでは民族解放を掲げる地下組織が勢力を拡大しており、
彼らは英米蝦ブロックの情報部門・軍事顧問団の支援を受けていた。
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◇ 開戦経緯(1958年)
1958年5月、ハノイ周辺で民族解放戦線(NLF)と仏系治安部隊との間で
激しい衝突が発生。数日間の戦闘の末、北部行政区が瓦解した。
これを受けて南インドシナ自治政府は「北ベトナム地域の反乱鎮圧」を名目に
大規模な掃討作戦を開始したが、ゲリラ戦術の前に各地で被害を拡大。
同年末、英米蝦同盟は「民族自決の擁護」を理由に北部に対する
限定的な物資供与・顧問団派遣を決定した。
これがベトナム戦争の開幕である。
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◇ 戦争の推移(1959–1963)
戦闘は北部・中部山岳地帯を中心に泥沼化した。
• ヴィシー軍は旧式装備と補給難に苦しみ、都市と主要街道のみに勢力を保持。
• 北部民族解放軍は連合国の物資・顧問支援を受け、ゲリラ戦・夜襲・破壊工作を展開。
ドイツからの支援は主に旧式兵器の売却に限られ、
外人部隊(Légion étrangère)の再編成によって辛うじて南政権は体裁を保っていた。
1961年、ハノイ一帯で北側勢力が主導権を確立し、
英米蝦の支援を受けて「ベトナム民主共和国」の成立を宣言。
ヴィシー政権はこれを「帝国反乱」と非難するが、実質的な介入手段を欠いた。
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◇ 拡大と停滞(1964–1966)
1964年、ドイツは外交的圧力を避けるため直接介入を否定。
南インドシナ政府は名目的には帝国陣営でありながら、
事実上「放置された植民政権」と化した。
同時期、英米蝦は戦争の長期化を見越して顧問団を増派し、
空軍による限定的な制空行動を実施。
ハノイ・ハイフォンへの空襲が散発的に行われる一方、
サイゴン周辺では連日テロと破壊工作が相次いだ。
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◇ 終結への過程(1967–1968)
1967年以降、南政権内部での離反が相次ぎ、
都市部のフランス系官僚層が国外脱出。
南ベトナム軍は士気低下と補給欠乏により各地で崩壊。
1968年2月、ベトナム民主共和国(北)軍は全線攻勢に転じ、
同年6月にはサイゴンが陥落。
南インドシナ自治政府は消滅し、
ヴィシー帝国は正式にインドシナの支配権を失った。
その後、北側主導による「ベトナム社会主義共和国」が成立し、
名目上の独立と統一を達成する。
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◇ 国際的影響
• 帝国陣営の威信低下:
ドイツは直接的な損失こそなかったが、海洋圏の干渉を防げず、
「帝国ブロックの限界」を内外に露呈した。
• 海洋同盟の勢力拡大:
英米蝦日は「アジアにおける民族自決の勝利」として宣伝し、
太平洋・東南アジアへの影響力を強化。
• ヴィシー体制の動揺:
フランス本国では敗戦責任を巡る抗議が拡大し、
政治的改革運動(「新ガリア主義」)が台頭した。
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◇ 戦後処理
戦争終結後、ドイツは正式な抗議を行うことなく、
インドシナを「政治的自決の結果として承認」した。
ヴィシー政権は名目上これに抗議したが、実質的にはドイツの黙認のもとで沈黙。
以後、帝国ブロックはアジアへの関与を事実上放棄し、
欧州・中東・アフリカを中心とした大陸的勢力圏の維持に専念することとなる。
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このインドシナ戦争は、
この世界における冷戦構造の転換点として位置づけられます。
海洋ブロック(英米蝦日)の影響圏がアジア全域に拡大し、
大陸ブロック(独・伊・ヴィシー)は東欧と中東のみに閉じ込められる。
――「アジアの解放」と「帝国の退潮」を象徴する戦争、
それがこの世界のベトナム戦争です。




