■ 東方総督府体制の形成(1950年10月〜1951年末)
1. 占領地域の範囲と初期軍政
1950年10月、ドイツ政府は「東方総督府(Ost-Gouvernement)」の設置を布告。
対象地域はウラル山脈以西の旧ソ連領すべてであり、行政区分として以下の五大管区が設
けられた。
• バルティッシュ総督区(旧バルト三国・レニングラード方面)
• モスコヴィア総督区(中央ロシア・モスクワ周辺)
• ウクライナ総督区(キエフ・黒海北岸・バクー油田方面)
• コーカサス総督区(コーカサス山脈以南・トルコ国境地帯)
• ヴォルガ総督区(ヴォルガ川流域・ウラル山脈西麓)
それぞれに**ドイツ国防軍出身の総督(Gouverneur)**が任命され、
軍政・治安・資源管理・民族政策の全権を掌握した。
首都機能はワルシャワおよびミンスクに分散して置かれた。
2. 生存圏政策と民族移住計画
ドイツはこの地域を**「新東方生存圏(Neuer Lebensraum)」**として制度化。
ウクライナ・コーカサスなどの肥沃地帯・資源地帯を優先的に開発対象とし、
現地スラヴ系住民の強制移住とドイツ系入植を同時に推進した。
1951年初頭から、中央ヨーロッパおよびバルカン諸国から約200万人のドイツ人およびド
イツ系移民が移送され、
ウクライナ・モスコヴィア各地に「帝国開拓地(Reichs-Kolonien)」を設置。
農業・鉱山・インフラ整備に従事させられた。
現地住民は民族別に分類され、
「同化可能民族(スラヴ・バルトの一部)」と「強制労働民族(ロシア人・ベラルーシ
人・タタール人など)」に区分。
同化不能とされた者はシベリア以東への追放、あるいは収容区域への移送対象となった。
3. 資源確保と軍需再編
最優先対象はバクー油田・ウクライナ穀倉地帯・ドンバス炭鉱群であった。
ドイツは軍直轄企業「東方資源庁(Reichsrohstoffamt-Ost)」を設立し、
これらの資源地帯を完全な軍需直結体制に組み込んだ。
鉄道網・燃料パイプライン・港湾整備が急速に進められ、
黒海・カスピ海間の輸送ルートは1952年半ばには機能を回復。
これにより、ドイツは石油自給率を大幅に高め、経済的自立を実現する。
4. 抵抗運動と治安対策
1951年春以降、ウラル西方・モスクワ周辺・ウクライナ森林地帯を中心に
旧ソ連軍残党・共産党員・民兵による抵抗が激化。
彼らは自らを「東方解放軍(Osvoboditel’naya Armiya)」と称し、各地でドイツ軍の通
信線・補給線を攻撃した。
ドイツはこれに対し、**親独民兵組織(ロシア秩序軍/Russische Ordnungsarmee)**を
創設。
旧白系ロシア人・反共貴族・宗教勢力などを動員し、治安維持に当たらせた。
同時に、報復政策として「一村一報復制」が導入され、ゲリラ活動が起こった地域の住民
全体に制裁を加える方式が採られた。
5. 政治構造の再編と宗教政策
1952年、ベルリン政府は「東方再建憲章」を公布し、
これら総督区を形式上は自治領としつつ、実質的には帝国直属の植民統治とした。
行政言語はドイツ語、補助言語としてロシア語・ウクライナ語が限定的に認可された。
宗教面では、正教会の再編を許可。
モスクワ総主教座は再設立されたが、完全に親独的立場を取るよう監督下に置かれた。
宗教的象徴の利用により、反共と反無神論を掲げる統治理念が強調された。
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■ 総括(1953年時点)
1953年までに、ヨーロッパロシア西部の主要都市はほぼ再建され、
鉄道・港湾・油田・農業地帯は帝国の生産網に組み込まれた。
しかし、スラヴ系住民の反抗と地下組織の蜂起は止まず、
治安維持に総兵力の4割が投入される慢性的な消耗状態が続いた。
ドイツは政治的には東方領有を達成したが、
「征服したが統治できない帝国」と評されるようになっていく。




