1950年の独ソ戦争(バルバロッサ作戦)開戦から3ヶ月間
■ 独ソ戦争(バルバロッサ作戦)
1950年6月22日〜9月末までの推移(開戦3ヶ月間)
1950年6月22日、ドイツはソビエト連邦に対して宣戦布告を行い、同時に大規模な攻撃を
開始した。
開戦当初、ドイツはこれまでに完成させていた戦略核兵器を使用し、モスクワ、レニング
ラード、キエフの三都市に対して戦略攻撃を実施した。
これにより、ソ連政府中枢は壊滅的打撃を受け、最高指導層の大半が死亡あるいは行方不
明となり、国家としての指揮命令系統は初期段階で完全に崩壊した。
核攻撃の直後から、ドイツ国防軍は三方面からの電撃的侵攻を展開した。
北方軍集団はバルト三国からレニングラード方面へ、中央軍集団はベラルーシ経由でモス
クワ方面へ、南方軍集団はウクライナ・バルカン方面へ進撃した。
ソ連軍は初動での指揮系統喪失により組織的抵抗を行えず、多くの戦線がわずか数日で崩
壊した。
7月上旬までにドイツ軍はスモレンスク・ミンスクを占領、南方ではハリコフ・オデッサ
を制圧。
バルカン半島方面では、すでにドイツの影響下にあったルーマニア・ハンガリーが積極的
に後方支援を行い、黒海北岸の制海権を確保した。
7月末までにモスクワ近郊への進出が完了し、壊滅的な都市機能の残骸のみが発見され
た。
8月に入ると、ドイツ軍は進撃を継続し、ウクライナ中部からカスピ海北岸へと至る戦線
を構築。
バクー油田への進軍を最優先課題として南方戦線を拡大し、現地のトルコ系民兵や反ソ勢
力との協調体制を形成した。
同時に、ドイツはバルカス核施設群を完全な軍管区管理下に置き、戦略資源の確保に着手
する。
9月末までに、ヨーロッパロシアの大部分――西ウラル山脈以西の地域――は事実上ドイ
ツの支配下に入った。
ソ連の行政・軍事機構は消滅し、わずかに残った指導者・将校団がシベリア方面に退避し
て臨時政府を組織したとされるが、実際の統制力は極めて限定的であった。
ドイツはこれらの地域を「東方総督府(Ost-Gouvernement)」として再編する方針を発
表し、軍政官の派遣を開始した。
開戦からわずか三ヶ月で、ソ連の中枢国家機能は完全に崩壊し、ヨーロッパの勢力均衡は
根底から覆された。
この事態を、同時代の観測者たちは「史上最も短い大戦」「東方の沈黙」と呼んだ。




