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北の暁  作者: circlebridge
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独ソ不可侵条約(1939年8月23日) — スターリンの“東方への時間稼ぎ” —

Ⅰ. 国際情勢の転換(1938〜1939)

1938年末、欧州ではヒトラーの膨張主義が加速し、

オーストリア併合・チェコスロバキア危機を経て、ヨーロッパは再び戦争の影を帯びてい

た。

同時期、極東ではノモンハン事件でソ連が敗北。

英米傀儡の満州国が辛うじてソ連軍を退け、

赤軍の威信は地に落ちた。スターリンはこれを「帝国主義との戦いでの敗北」と受け止

め、

極東政策の再構築を迫られた。

「我々が満州を放置すれば、アメリカがウラジオストクにやってくる」

— スターリン、1939年2月の政治局会議にて

ソ連にとって、英米が支援する満州・朝鮮・蝦夷の三地域は、

まさに“防共の壁”であり、極東覇権を阻む最大の障害だった。

---

Ⅱ. スターリンの戦略転換

ノモンハン敗北の後、スターリンは次のような三段階の方針を定めた。

1. ヨーロッパを一時的に静止させる

→ ドイツとの中立協定で西方の安全を確保。

2. 東方に戦力を集中する

→ シベリア・モンゴル方面軍の再建。新型戦車T-34、KVシリーズの開発。

3. 英米の注意を欧州に向けさせる

→ ドイツがポーランド・フランスに侵攻する間に、極東での準備を完了。

つまりスターリンにとって、**独ソ不可侵条約は「東方戦争の前段階」**だった。

---

Ⅲ. ベルリン・モスクワ間の接近

ドイツ側でも、ヒトラーはポーランド侵攻を目前に控え、

二正面戦争を避けるためにソ連との妥協を模索していた。

1939年8月、外相モロトフとリッベントロップの間で極秘交渉が行われる。

モロトフは「我々は西で戦う意思はない」と述べ

、ドイツは「東方を脅かさぬ」と応じ

た。

両者の利害は明確だった。

• ドイツ:西へ進むための東方安定。

• ソ連:東へ進むための西方安定。

こうして、互いに“後背を預ける”密約が急速に成立した。

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Ⅳ. 条約の内容

公開条項(表向き)

1. 相互不可侵 — いかなる形でも相手国を攻撃しない。

2. 中立維持 — 一方が第三国と戦争になった場合、他方は中立を守る。

3. 経済協定 — 石油・金属資源の相互供給を再開。

秘密議定書(史実と異なる点)

• ポーランドの分割ではなく、**「行動圏の非干渉」**を確認。

(ポーランドはドイツ単独支配、ソ連は関与せず。)

• ソ連の東シベリア軍再編・極東輸送の自由をドイツが黙認。

• ドイツの欧州侵攻に際し、ソ連は情報提供を控える。

この裏取引により、スターリンは堂々と極東に兵力を集中できる体制を整えた。

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Ⅴ. 世界の反応

英米

条約成立を「独裁者同士の一時的取引」と見なし、

「これでソ連は欧州から手を引いた」と楽観視した。

だが英米の外交筋は、ソ連の極東鉄道の輸送量急増を掴んでおり、

“スターリンは別の戦場を見ている”と警戒していた。

日本

すでに朝鮮・満州から撤退していたため直接的影響は少なかったが、

ソ連が極東で再軍備を進める報を受け、

北太平洋の警戒を強化。蝦夷・日本間の軍事情報共有が始まる。

蝦夷国

樺太方面でソ連艦の活動が活発化し、警戒を高める。

同時に英米から通信監視協力の要請を受け、

「北方の防波堤」としての重要性が急速に高まる。

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Ⅵ. 東方への静かな準備(1939〜1941)

独ソ不可侵条約成立後、ソ連は瞬く間に東シベリアへ兵力を移動した。

その数、およそ80万。

航空基地はチタ、ウラジオストク、コムソモリスクに再整備され、

満州・朝鮮国境の向こうには新鋭戦車師団が並ぶようになった。

モンゴル人民共和国は完全なソ連軍政下に入り、

ソ連参謀本部はこの時点で「極光作戦(Операция Заря)」――

すなわち満州・蝦夷・朝鮮同時侵攻計画を立案する。

「東の防共陣を打ち砕けば、太平洋の扉は開く」

— 赤軍参謀、ジューコフの極秘メモ(1940年春)

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Ⅶ. 結果と意義

観点 内容

ドイツ 欧州侵攻に専念できる体制を得て、翌年フランスを制圧。

ソ連 西方の脅威を除き、東方侵攻の自由を得る。極東に圧倒的兵力を集中。

英米 欧州大戦に引き込まれ、極東防衛が手薄化。

蝦夷・満州・朝鮮 緊張が高まり、防衛線の再編に追われる。

この条約は、史実のような「短期的な共謀」ではなく、

スターリンの東方拡張戦略を覆い隠す外交的仮面であった。

結果的に、英米は極東の危機を過小評価し、

ソ連は約2年の猶予を得て「極東戦争」の準備を完了させる。

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Ⅷ. 歴史的評価

後世の歴史家は、この条約を次のように評している。

「独ソ不可侵条約は、ドイツのための休戦ではなく、

ソ連のための再軍備条約であった。」

— H. ケンブリッジ『極東に眠る雷鳴』(1972)

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総括

• 独ソ不可侵条約は、ドイツが西方侵攻を進める裏で、

ソ連が東方(満州・蝦夷・朝鮮)侵攻準備を整えるための戦略的欺瞞協定であった。

• 英米は欧州での対独戦争に巻き込まれ、極東防衛を軽視。

• そして1941年春、ソ連はついにその沈黙を破る――。

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