ノモンハン事件(1939年5月〜9月) ― 英米傀儡国家「満州国」とソ連の国境戦 ―
背景:満州とモンゴルの緊張激化(1938〜1939年初頭)
項目 内容
満州国の体制 1932年に英米の支援で成立。溥儀を象徴元首とし、実権は「満州顧問団
(英米合同)」が握る。ハルビンに駐留する英軍と米軍が治安維持を担当。
英米の狙い 満州を国際秩序の「模範植民地」として近代化・安定化させる。極東におけ
る共産主義封じ込めの最前線とする。
ソ連・モンゴル側 1930年代後半、モンゴル人民共和国を事実上の衛星国化。スターリン
は極東での勢力拡大を狙い、満州国境への軍備を増強。
蝦夷国の立場 北の友邦として英米を支援するが、直接的な軍事関与は避ける。樺太・千
島の防衛と北太平洋航路の維持を重視。
1938年、満州北西部(ノモンハン周辺)では、遊牧民の放牧地をめぐる衝突が頻発。
双方が軍事哨戒を強化する中、ハルハ河の帰属をめぐって緊張が頂点に達する。
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導火線:ハルハ河国境衝突(1939年5月)
1939年5月11日、モンゴル騎兵隊(ソ連顧問付き)がハルハ河東岸の満州国領内に侵入。
現地警備隊(満州国軍第7騎兵連隊、英軍少佐ロバートソンが顧問)が退去を要求した
が、応じず銃撃戦に発展。
数日で両軍合わせて100名以上の死傷者が出る。
英米顧問団は直ちに停戦交渉を模索するが、ソ連側は「モンゴル防衛」を口実に戦車部隊
を動員。
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拡大する戦闘(1939年6〜7月)
6月初頭、ソ連極東軍(指揮:ゲオルギー・ジューコフ少将)は兵力3万・戦車200輌で越
境。
英米は国際連盟に抗議を提出しつつ、「防衛行動」を認める。
満州国防衛軍(主力3万人)に加え、英米から義勇航空隊・砲兵顧問が派遣される。
陣営 主力 兵力 補足
ソ連・モンゴル連合軍 BT-7戦車、I-16戦闘機 約5万 東シベリア軍から増援。航空支援重
視。
満州国防衛軍 騎兵・歩兵・野砲 約3万 英米顧問指揮下。士気は高いが装備劣る。
英米支援部隊 RAF第11航空群、米陸軍航空隊第3群 約5000 爆撃・偵察・通信支援中心。
蝦夷国 非参戦 — 旭川・稚内から医療物資・燃料補給を提供。
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ノモンハン会戦(1939年7〜8月)
6月末、ソ連軍がハルハ河を渡河し満州側陣地へ突入。
英米顧問団が防衛線を再構築し、戦線は膠着状態に入る。
7月中旬、両軍は同時攻勢を実施。
• ソ連軍:BT-7・T-26戦車を集中投入し、突破を狙う。
• 英米満連合軍:地形を利用した逆襲。航空偵察でソ連後方補給路を把握。
• 7月末、RAFの爆撃でソ連補給車列を破壊、戦線が崩壊。
8月上旬、満州国軍が反撃に転じ、ソ連軍を国境外へ押し戻す。
ジューコフは再攻撃を命じるが、英米航空優勢の下で損害が拡大。
8月20日、ソ連軍は撤退を開始。
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停戦・国際的決着(1939年9月)
• 英米が国際連盟を通じて停戦提案。ソ連は受諾。
• 国境線はハルハ河西岸をモンゴル領、東岸を満州領とすることで確定。
• 双方とも戦勝を主張したが、戦略的には満州国=英米側の防衛成功。
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損害と評価
陣営 死傷者 備考
ソ連・モンゴル連合軍 約12,000名 戦車200輌、航空機80機喪失。
満州・英米連合軍 約4,500名 うち英米顧問・航空兵数百名戦死。
蝦夷 直接戦闘なし 医療支援で高い評価。
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結果と影響
観点 内容
英米 満州防衛の正当性を確立。マッカーサーが極東防衛の英雄視される。
満州国 国際連盟加盟への道が開かれ、「安定した近代国家」として認知される。
ソ連 東方政策が頓挫。以後は西方(ポーランド・欧州)への軍事的比重を移す。
蝦夷国 後方支援国として英米から感謝されるが、あくまで中立を維持。
日本 直接関与せず。英米との協調姿勢を強化し、経済発展を優先。
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歴史的意義
この世界のノモンハン事件は、
「英米傀儡国家・満州国がソ連の侵入を防衛した事件」であり、
「東アジアにおける共産主義封じ込めの初戦」として記憶される。
この勝利によって英米は極東の政治的主導権を確立し、
同時にソ連はドイツとの接近を強め、
翌年の独ソ不可侵条約へとつながっていく。
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蝦夷国の視点からのまとめ
• 戦争当初から「中立的友邦」として物資・医療支援を実施。
• ソ連に対する地政学的警戒が強まり、英米との軍事通信網を整備。
• この事件以降、蝦夷は**「北太平洋のシンガポール」**と呼ばれるほどの戦略的要地と
して位置づけられる。
• だが同時に、英米資本への依存度が増し、経済的従属への懸念も国内で生まれる。




