日露戦争後の極東国際秩序(1905〜1914)
1905年:ポーツマス条約と極東の再分割
日露戦争の講和交渉(ポーツマス条約)では、
日本・蝦夷・ロシア・英米の複雑な利害がぶつかる。
最終的な妥結点は以下のように決まる:
項目 布告内容
樺太島 全島を蝦夷国領とする(南北の分割なし)。ロシアは完全撤退。
満州 ロシアの勢力圏として承認。鉄道・軍駐留権を保持。清国の名目主権は維持。
朝鮮半島 英米が共同で中立を保障。事実上の「英米経済保護国」。日本・ロシアは干渉
権を放棄。
遼東半島 日本の租借継続が認められる(史実の関東州に相当)。
賠償金 蝦夷国が樺太・アラスカ資源の一部を担保に米国資本から融資を受け、ロシアに
代わって日本への一部戦費を肩代わり。
この結果、
• ロシア:満州を確保しつつ極東の膨張を一時停止。
• 日本:遼東・台湾を維持したが、朝鮮喪失で失望感。
• 蝦夷:領土を倍増し、資源・港湾・漁業の中心地へ成長。
• 英米:朝鮮・北太平洋で経済的影響力を拡大。
---
1906〜1909年:蝦夷国の北方黄金期
• 樺太全島を統合した蝦夷政府は、旧ロシア資産(港・鉄道・鉱山)を接収し、国家主導
で再開発。
• 樺太の石炭・木材・漁業が急速に発展。
• 米国資本が入ることで、近代的な製紙・造船・鉄道産業が芽吹く。
• 米国との関係強化の一環として、
→ 1907年:アラスカ売却条約締結。
• アラスカを米国に売却。
• 代償として巨額のドル投資・技術援助を獲得。
• 米国の北太平洋航路(シアトル〜函館〜ウラジオ)開通。
• 蝦夷の経済構造は「米国型」へ。
• 自由貿易・鉄道開発・農工併立。
• 英国の金融資本、米国の工業資本が流入。
---
1908〜1912年:日本の苦境と南進構想
• 日本は朝鮮を失い、満州への進出もロシアに阻まれる。
→ 「北方ルート閉鎖」と呼ばれ、経済・軍部ともに危機感が強まる。
• 政府は方針を転換:
• 南洋諸島・台湾・東南アジアへの進出構想を強化。
• 南方資源(ゴム・砂糖・石油)開発を視野に入れた「南進論」誕生。
• 国内では軍備再建よりも産業基盤整備が優先され、
→ 財閥による鉄鋼・造船・化学工業の近代化が進む。
---
1910〜1914年:蝦夷・日本・ロシアの三極均衡
• 蝦夷国:北樺太・千島・北海道・樺太を結ぶ「北方産業連合圏」を形成。
• 港湾都市函館・小樽・稚内・大泊が経済中枢に。
• アメリカ・カナダとの貿易が活況。
• ロシア:満州にシベリア鉄道を延伸。ハルビンを拠点とする軍政体制を構築。
• 清国の弱体化を背景に「満州ロシア化政策」を強行。
• 日本:ロシア・蝦夷との直接衝突を避け、
• 対外関係では英米協調を重視。
• 内政では軍部と政党政治の対立が深まる。
• 朝鮮:英米の「中立監視国」として事実上の自由港化。
• 釜山・仁川・ソウルには英米商社・金融機関が集中。
• 日本製品の販路にもなり、緩衝地帯として機能。




