源義経、蝦夷地に潜む(1189年〜1190年)
一、渡島上陸
文治五年(1189年)五月下旬。
夜明け前の霧の中、義経一行は渡島半島の南岸に上陸した。
場所は現在の松前、もしくは上ノ国付近と推定される。
波打ち際には、安東氏が交易を行っていた「和人居留地」が小規模に存在していた。
義経一行を出迎えたのは、安東氏の部下であり、
現地の交易とアイヌ通訳を務めていた「久慈祐頼」という男だった。
彼は義経を見るなり驚愕し、声を潜めて言った。
「まさか……本当に御身が、生きておられたとは。
この地には鎌倉の目は届きませぬ。
しばし、ここをお隠れ所とされよ。」
久慈は義経を、松前の入り江から少し北に入った森の奥――
「夷王山」の麓にある小屋へ案内した。
そこはかつてアイヌの祭祀に使われた場所で、人目に触れぬ。
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二、蝦夷の地の状況
当時の蝦夷南部(渡島半島)には、
すでに和人とアイヌの交易圏が形成されており、
米・鉄器・布を和人が、魚油・毛皮・乾魚をアイヌが交換していた。
この交易は安東氏が掌握しており、
鎌倉の干渉を受けぬ半独立状態だった。
そのため、安東氏配下の交易人・航海民の間では、
「奥州の敗将・義経が北に逃れた」という噂はあっても、
それを鎌倉へ報せようとする者はいなかった。
むしろ――彼らは、頼朝よりも義経に親近感を抱いていた。
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三、アイヌとの最初の接触
義経は滞在中、通訳を介してアイヌ首長層と会見した。
記録は残らないが、後世の「モシリ・ノ・カムイ伝説(北方神伝承)」によれば、
義経は彼らの酋長・オッカナイ(架空人物)に次のように語ったという。
「われ、南の地より来たり。
争いに敗れ、帰る家を失えり。
されど、汝らの地を侵すことなく、
共に生きる道を求めん。」
オッカナイは答えた。
「南の人よ。汝の目には恐れがなく、怒りもない。
カムイが導いたなら、我らはそれを拒まぬ。」
これが、のちに「和蝦同盟」と呼ばれる関係の始まりである。
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四、義経の潜伏生活
義経はおよそ一年余り、渡島の森の奥で暮らした。
地元のアイヌたちは彼を「オキクルミ(知恵と武の神)」に似た存在として崇め、
狩猟や航海の技術を分かち合った。
義経は一行に、
「我らは死んだ者と思え。名を名乗るな。書を残すな。」
と命じ、徹底した隠遁と秘匿を貫いた。
ただし、安東氏とは定期的に密使を通じて連絡を取り、
必要な食糧・道具を補給していた。
この密使たちは「安東水軍」の者で、
蝦夷の海を熟知しており、鎌倉の目を避ける航路を持っていた。
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五、鎌倉の動向と「死の確認」
同年夏、泰衡は頼朝に義経の首を送り、
頼朝は「検視の上、義経の首に相違なし」と宣言した。
この一言により、鎌倉政権の追討令は撤回され、
義経は歴史上「死者」として確定した。
これにより、義経の存在は完全に闇へと消える。
安東氏にとっても、これほど都合の良い状況はなかった。
蝦夷の交易利権を独占しつつ、鎌倉への表向きの服従を装える。
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六、義経、北の誓い
文治六年(1190年)春。
義経は夷王山の高みに登り、北の海を望みながら誓いを立てた。
「我ここに、再び戦わず。
されど、力なき者が虐げられれば、これを助けん。
南の世が乱れれば、北に道を開かん。」
この誓いは、後の蝦夷王国建国の根幹となる理念――
「北方の静けさと正義」を象徴する言葉として伝わる。
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地理的裏付け(史実ベース)
地点 現在地 史実的裏付け
平泉(衣川館) 岩手県平泉町 義経終焉の地
胆沢→能代 奥州から秋田北部 安東氏の勢力圏
能代港 秋田県能代市 12世紀後半に港が存在、蝦夷交易の拠点
渡島半島 北海道南部 安東氏交易圏、和人居住あり
松前・上ノ国 北海道南部 安東氏・蠣崎氏以前の和人拠点
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結論:
義経の蝦夷到達は「密航・潜伏・交易支援」という三点で史実的にも極めてリアル。
鎌倉政権が「義経死」を確定した直後に、彼は北の地で生き延びた。
この時点で、彼はもはや“源義経”ではなく、
蝦夷の森に潜む一人の“北の異人”として再出発したのです。




