蝦夷国の中立期(1870〜1890)
Ⅰ. 外交:中立国家としての確立(1870〜1878)
• 1870年
戊辰戦争終結後、蝦夷政府は「日本内戦不介入宣言」を発表。
同時に、日本(明治政府)およびロシアとの間で「北太平洋三国交誼協定」を締結。
内容は以下の通り:
- 宗谷海峡を国際航路とする。
- 蝦夷国は中立地帯として軍事活動を行わない。
- 各国の難民・移民の受け入れは蝦夷政府の判断に委ねる。
• 1871〜1875年
日本の明治政府は、北海道開拓のために「開拓使」を設置。
しかし蝦夷国とは宗谷以北を境に明確に区別。
両国間で「文化・交易・航海」の三協定を締結し、外交関係が事実上樹立される。
• 1876年
ロシアとの間で「樺太航路安全条約」締結。
この頃には蝦夷はすでに外交文書を自国名で発行するようになっている。
ただし国号はまだ「蝦夷共和国」ではなく、
義経血統を象徴とする「蝦夷統合府」または「蝦夷統領府」という伝統的呼称を用い
る。
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Ⅱ. 経済:北太平洋交易と蝦夷銀貨(1875〜1885)
• 蝦夷の経済発展はきわめて特徴的。
明治維新で混乱する日本や、シベリア開発に集中するロシアに比べ、
蝦夷は中立貿易国家として安定的に繁栄。
• 1875年ごろ:
函館・小樽・釧路が「自由港」として指定され、
外国船が寄港可能に。
イギリス・オランダ・フランス商人が拠点を設け、毛皮・海産物・鉱石・木材貿易が急
成長。
• 1878年:
蝦夷政府が独自通貨「蝦夷銀貨(Azo Coin)」を発行。
表面にスパイラル文様、裏面に義経巫女の印章が刻まれ、
象徴的かつ文化的価値を持つ。
• この時期、蝦夷の経済は北方産業(漁業・林業・鉱山)と南方貿易(日本経由)をつな
ぐ中継経済として成立。
「東アジアのスカンジナビア」と称されるようになる。
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Ⅲ. 移民と社会構成:日本からの「静かな流入」
◉ 第一波(1870〜1875年)— 旧幕臣と士族
• 榎本武揚に連なる旧幕臣・武士階級の一部が移住。
• 蝦夷政府は彼らを「外来庇護民」として受け入れる。
• 蝦夷北部の都市には「侍町」が形成され、
日本風の家屋とアイヌ式共同体が混在する独特の町並みに。
◉ 第二波(1876〜1885年)— 農民・職人・自由民
• 日本で地租改正・秩禄処分などが進む中、没落士族・農民・自由商人が蝦夷へ。
• 特に東北地方からの移民が多く、彼らが蝦夷南部の農地を開拓。
• 彼らは「蝦夷移民団」と呼ばれ、宗谷・留萌・釧路周辺に村落を築く。
◉ 結果
• 1880年頃には蝦夷の人口は約50万人に達する(うち3割が日本移民)。
• アイヌ系・古蝦夷系・和人移民が混在する多民族社会が形成。
• 義経巫女血統による「血ではなく土地を共有する共同体」という理念が社会統合の基盤
となる。
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Ⅳ. 政治体制:巫女血統と議会制の融合(1878〜1890)
• 1878年:蝦夷統領府憲章制定。
議会(エカシ評議会)と巫女血統の二院制が導入される。
- 巫女院:義経の女系血統を象徴する祭祀的元首。
- 評議院:各地方代表(和人・アイヌ双方)による立法機関。
• この体制は宗教的権威と民意の折衷であり、
「巫女が象徴し、民が治める」北方型議会制国家の原型となる。
• 1885年、蝦夷政府は正式に国号を「蝦夷共和国(Ezo Republic)」と称する。
外交上の独立を暗示しつつも、日本とは友好関係を維持。
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Ⅴ. 文化と理念:北の調和思想
• 「血ではなく、寒風を分け合う民の絆」が国是となる。
• アイヌ語・日本語・露語の三言語併用。
• 学問・医術・地理探査などの分野で多民族協働が進む。
• 宗谷に設立された**蝦夷学館(1879)**は、北方民族学・海洋学の中心に。
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まとめ:1870〜1890年の蝦夷国
年代 主な出来事 備考
1870 戊辰戦争終結、蝦夷中立宣言 日本・ロシア双方と外交開始
1875 自由港設置、外国貿易拡大 英仏蘭商人が進出
1876 樺太航路安全条約 ロシアとの国境管理が始まる
1878 憲章制定、蝦夷銀貨発行 統治体制と通貨制度の確立
1880 人口50万人突破 日本からの移民流入加速
1885 国号を「蝦夷共和国」とする 事実上の独立宣言
1890 外交的承認(露・英・米が準国家扱い) 北太平洋の中立国として定着




