蝦夷国の存在する世界の「戊辰戦争」(1868〜1870)
【1868年】王政復古と旧幕府の崩壊
• 京都で王政復古が宣言され、徳川慶喜が政権を返上。
• これにより、東国では旧幕府勢力と新政府軍の衝突が不可避に。
• 蝦夷国(当時は「北方中立国」)は事態を注視。
蝦夷政府は「日本列島の内乱に関与せず」を正式表明。
• ただし蝦夷には旧幕臣との交易ルートがあり、情報・資金の流入は続く。
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【1868年初夏】鳥羽・伏見の戦いと東国戦線
• 新政府軍が勝利。旧幕府勢力は江戸・東北へ後退。
• 会津藩・庄内藩などが抵抗を続ける一方、榎本武揚率いる旧幕府海軍は艦隊を保有した
まま行動の自由を維持。
• 榎本は「徳川の正統を北に保存すべし」として、蝦夷方面への脱出を検討。
※史実では箱館へ向かいますが、この世界では蝦夷が独立国として存在するため、
単純な「箱館占領」ではなく「中立国への亡命」になります。
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【1868年秋】榎本の蝦夷入り
• 榎本艦隊(開陽丸・蟠龍丸など)は、東北で戦うことを避けて北へ。
• 宗谷海峡を通過し、蝦夷国の西海岸(おそらく留萌または小樽)に到着。
• 蝦夷政府(当時の統領は「義経巫女血統」の後裔)が対応。
榎本を歓迎こそしないが、「漂着した客」として中立的に受け入れる。
• 榎本は「一時的避難」として蝦夷国内に滞在し、補給と修理を行う。
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【1869年初頭】東北戦線崩壊と榎本の決断
• 会津・庄内が降伏。旧幕府勢力は完全に瓦解。
• 榎本は蝦夷に留まることを希望するが、蝦夷政府は中立維持を理由に拒否。
「蝦夷を巻き込むことはできぬ」として、北への退去を要請。
• 榎本は蝦夷政府の理解を得て、艦隊を率いさらに北へ──樺太へ向かう決断を下す。
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【1869年夏】蝦夷・樺太航路の確保と小競り合い
• 榎本艦隊が樺太沿岸に拠点を設ける。
• この動きにロシアが警戒し、ウラジオストクより監視艦が派遣される。
• 蝦夷政府は宗谷海峡を封鎖し、日本・ロシアの双方の艦隊が通過しないよう中立を守
る。
これにより、宗谷は一時的に「北方の停戦ライン」と化す。
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【1869年秋〜1870年】蝦夷の中立外交と戦争終結
• 榎本が樺太で「臨時自治政府」を樹立(※のちの南樺太国の前身)。
• 新政府は蝦夷に圧力をかけ、「榎本を引き渡せ」と要求するが、蝦夷は拒否。
ただし直接的な軍事行動は避け、形式上は内戦終結を優先。
• 1870年、戊辰戦争は名目上終結。
蝦夷は中立を維持し、日本政府もそれを黙認。
榎本は「日本の法的権限が及ばぬ北方の亡命者」として生き延びる。
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戊辰戦争後の世界構造(1870年時点)
勢力 状況
明治政府 日本列島を統一。新国家樹立。蝦夷とは外交関係を持つが、微妙な距離感。
蝦夷国 中立を堅持。旧幕府残党を庇護せず、ロシアとも距離を取る。北の平和維持を優
先。
ロシア帝国 樺太での動きを強めるが、蝦夷との条約(国境未確定)を維持。
榎本政権 樺太南部にて自治体制を構築。蝦夷とも交易関係を維持。
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歴史的意義
1. 蝦夷が国際的中立国家として確立
• 内戦を回避し、列島と北方の緩衝地帯として地位を固める。
• 義経以来の「蝦夷は人の争いを避ける地」が政治的現実となる。
2. 榎本=亡命知識人の伝統が形成
• 日本の敗者・理想主義者が蝦夷経由で北へ逃れるという「北方亡命ルート」が生まれ
る。
3. 日本・蝦夷・ロシアの三角関係の始まり
• 戊辰戦争が東アジア近代外交の出発点になる。
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まとめ
蝦夷国の存在によって戊辰戦争は「日本列島の内戦」に限定され、
北方は戦火を免れる。榎本は蝦夷の庇護下で樺太に亡命し、
これがのちに蝦夷・樺太・ロシアをめぐる百年の北方史の起点となる。




