蝦夷国が存在する世界の幕末(1850〜1870年代)
■ 背景:蝦夷の成熟と日本の鎖国
19世紀半ば、蝦夷国はすでに独立した北太平洋の交易国家として機能していました。
文化的にはアイヌ・和人・ニヴフ・ロシア商人・中国人商人が混在し、
宗教的には「義経巫女王家」が象徴として存続。
行政は各地の首長(カムイ議会)による合議制で統治されています。
経済的には毛皮・昆布・干魚・木材・琥珀などの輸出が中心で、
ロシア東方領やアリューシャン諸島、さらには清朝東北部との交易も盛ん。
一方で日本本土(江戸幕府)は依然として鎖国を維持し、
蝦夷国とは「友好関係だが別国扱い」という微妙な距離を保っていました。
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年代別の動き
1850年代前半:蝦夷開国と列強の接近
年 出来事 詳細
1852年 米艦ペリー、蝦夷へ事前寄港 ペリー艦隊は浦賀に行く前に函館・根室に寄港。補
給・情報収集を蝦夷政府の許可で実施。蝦夷は中立的に受け入れる。
1853年 ペリー浦賀来航 日本の鎖国体制に初の衝撃。蝦夷経由の情報で幕府はペリー来航
を事前に知っていたが、対応は遅れる。
1854年 蝦夷・米国通商条約 蝦夷国は米国と直接通商条約を締結。北太平洋中継港として
正式に国際的地位を得る。
同年 日米和親条約 米側は「蝦夷が開いているのに日本が閉じているのはおかしい」と主
張。幕府も開国に踏み切る。
この時期、蝦夷は東アジアにおける「北の香港」的立場に。
アメリカ・ロシア・清国・英国が蝦夷を通じて太平洋交易を展開。
幕府は外交的に「後手」に回る。
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1855〜1860年代:蝦夷の繁栄と幕府の混乱
年 出来事 詳細
1855年 ロシア・蝦夷国条約締結 ロシアが正式に蝦夷の主権を承認し、国境を「カム
チャッカ南端」で画定。以後、蝦夷はロシアの太平洋貿易の中継地に。
1856年 蝦夷港群が国際補給地に 函館・根室・室蘭がロシア・米国・清国商人の拠点に。
欧風建築・教会・印刷所が並び、蝦夷は急速に都市化。
1858年 日米修好通商条約(史実通り) 幕府は蝦夷を後追いで開国。蝦夷の存在が日本の
開国圧力を増幅した形。
1860年頃 幕府の威信低下 「北の蝦夷にできて、なぜ我々にできぬ」と諸藩から批判。蝦
夷を模倣した「開化派」が日本本土にも現れる。
蝦夷の繁栄は、日本の保守派にとって屈辱であり、改革派には刺激でした。
江戸・京都では「蝦夷の自由」「巫女王の寛容政治」を称賛する論説が出回り、
倒幕運動の思想的背景の一部にもなる。
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1860〜1870年代:維新と蝦夷中立宣言
年 出来事 詳細
も。
薬品を売る。
1863年 蝦夷・清国通商条約 長白山・黒龍江方面との交易が拡大。ロシアを牽制する形に
1867年 幕府崩壊(倒幕運動) 蝦夷は「内戦干渉せず」の中立を宣言。両陣営に物資と医
1868年 日本で明治政府成立 新政府は蝦夷の存在を無視できず、国交樹立を提案。
1870年 日蝦友好条約 両国の国境を明確化(津軽海峡を国境とし、南岸を中立海域とす
る)。日本政府は蝦夷の独立を正式承認。
1870年代 蝦夷の「北太平洋同盟」構想 アラスカ(当時米領)・ロシア極東・清東北との
連携構想。小国ながら太平洋北岸の重要国家となる。
ここに至って、蝦夷は日本と並ぶ独立国家として完全に定着。
明治政府は蝦夷の行政制度(議会・合議制・地方自治)を研究し、
「地方議会制度」や「アイヌ自治政策」の参考とするようになります。
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幕末期の特徴的な構図
要素 日本(幕府・明治政府) 蝦夷国
政体 封建体制→中央集権国家 首長合議制+巫女王を象徴とする連合制
外交姿勢 鎖国から開国へ転換 早期開国・中立・多国通商
軍事 内戦(戊辰戦争) 中立維持・防衛重視
経済 内地中心・輸出依存 北太平洋交易・毛皮・海産物輸出
文化 武士道・儒教中心 アイヌ・和・露・欧文化の混合多様社会
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総括
• **蝦夷国の存在によって、幕末日本は「外圧による急激な開国」ではなく「隣国の成功
に刺激された開国」**となる。
• 軍事的危機は少ないが、思想的危機は深刻。
→ 「なぜ蝦夷は成功し、我々は閉じたままなのか?」という問いが維新思想を生む。
• 蝦夷は北方の近代化拠点・文化交流の橋渡し役として東アジアで重要な地位を占める。




