源義経・北への脱出(1189年)
一、衣川館炎上
文治五年(1189年)五月。
奥州平泉の衣川館は、もはや夜明け前から炎に包まれていた。
主君・藤原泰衡が鎌倉の圧力に屈し、義経追討を決したのである。
義経の手勢はわずか数十。
泰衡方の兵は数百とも千とも言われた。
圧倒的な兵力差のなか、義経は館の奥座敷にて鎧を脱ぎ、
「ここまでか」と静かに呟いた。
その時、弁慶が言う。
「殿。命を捨てて戦うことこそ、武士の誉れ。
されど今、殿が死ねば、ただの犬死ににございます。
せめて一度、この世を離れたふりをなされませ。」
義経は沈黙した。
館の裏手には、北へ続く獣道がある。
その道は胆沢を越え、北上川上流へと抜ける険路。
だが、そこを越えねば蝦夷への道はない。
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二、弁慶立往生
夜明けとともに泰衡軍が突入。
義経は小勢を率いて館裏から脱出。
弁慶は門前に立ちふさがり、薙刀を手に敵兵を次々となぎ払った。
弓矢を受けても膝をつかず、声を発して戦い続けた。
やがて矢が全身に突き立つも、なお立ったまま動かぬ。
誰も近づけぬまま、弁慶はその場で息絶えた。
「弁慶、最後の矢を受けてなお立つ。
彼こそ、義の僧なり。」
この姿を見た泰衡の兵は「主も討たれた」と思い込み、追撃の足を緩めた。
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三、奥州山中の逃亡
義経一行は、弁慶が倒れたその時すでに館の裏手を抜け、北上川沿いに山中を進んでい
た。
同行は佐藤忠信、鷲尾三郎、亀井六郎、源有綱などわずか十名ほど。
昼は林の陰に潜み、夜にだけ進む。
義経は僧衣をまとい、顔に煤を塗っていたと伝わる。
泰衡軍が館を制圧したのち、頼朝への使者を立てるまでの数日は、
奥州一帯が混乱しており、追手は北方に及ばなかった。
義経はこれを機に、旧知の安東氏(秋田・津軽の豪族)を頼ることを決断する。
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四、安東氏の庇護
胆沢を越えて、義経一行は能代付近の港にたどり着く。
ここは安東氏の勢力圏であり、蝦夷交易の拠点。
安東氏当主・安東舜季は、かねてより平家討伐の功を称えて義経に同情していた。
舜季は密かに船を用意し、言う。
「関東の将軍はこの北を知らぬ。
この海を越えれば、鎌倉の法は届かぬ地にございます。」
義経は深く頭を下げ、「恩に報いる術もなし」と答えた。
この夜、能代港には霧が立ちこめ、北風が吹いていた。
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五、津軽海峡越え
義経一行は小型の和船二隻に分乗し、夜陰に乗じて出航。
目指すは津軽海峡の対岸、渡島半島。
五月末、まだ海は荒く、北風は冷たい。
途中、波に呑まれそうになりながらも、
北斗星を頼りに進み、夜明け頃、松前の入り江にたどり着いた。
波打ち際には、鹿皮をまとった男たち――アイヌの漁民たちが立っていた。
彼らは見慣れぬ武具と衣をまとった義経一行を見て、
最初は警戒したが、安東氏の交易員が言葉を交わすと態度を和らげた。
こうして、
源義経は日本本土の地を離れ、蝦夷地に上陸する。
鎌倉幕府が「義経死す」と信じる頃、
北の大地には新たな伝説の幕が静かに開かれた。
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歴史的補足
• 衣川の戦闘と弁慶立往生は史実と一致。
• 奥州征伐はその直後に始まり、泰衡は頼朝に義経の首を送った。
• 頼朝はその首を「義経のもの」として受理しており、以後追討は停止。
• この「確認の曖昧さ」こそ、義経生存説の最大の根拠となる。




