:去夏〈9〉
僕は最速で広島帰還した。
懐かしいセーブル色の扉を開けるや、真っ先に跳びついて来たのは――
「ワン、ワン、ワン!」
「アルバート!」
記述が前後するが、浅井透と会うべく出立する際、僕は来海サンの実家の印章屋へ寄って兄の行嶺氏に事情を話し画材屋の鍵を渡している。
「あれ? おまえがここにいるってことは……」
「そう、向こうの僕の店は今日は閉めている。それはともかく、お帰り、新君! よくぞ戻って来てくれた!」
アルバートに続いて駆け寄った行嶺氏。流石に抱きついては来なかったが、一瞬両手を広げてから――辛うじて踏みとどまったように見えた。行き場を失った手でガッシと愛犬の首輪を掴む。
「助かったよ! 何しろ、今の今までずっと僕は来海に責め苛まれ続けていたんだからな! アルバートがいなかったら僕はどうなっていたことか。こいつは城下印章店の鉄壁の留守番役のみならず、店主である僕の最強の守護神だよ」
「責められて当然よ!」
鈴のような声。泣き腫らした目の、僕の相棒。たった一日しか離れていないと言うのに。ああ! なんて君は素敵なんだろう?
「だって、兄さん、ヒドイわ! 新さんが一人で殺人鬼に会いに行くのをみすみす許すなんて――私を叩き起こして、後を追わせるべきだったわ!」
「殺人鬼――って」
見惚れていた僕は我に返り、慌てて弁明した。
「来海サン、その推理は間違ってるよ。透は誰も殺してなんかいない」
「え? でも、あなたの恋人の百夏さんを、そして、今また女子中学生を誘拐して――」
「それについては今から詳細をきちんと話すよ。今度こそ、真実の全てを。実は、悪いのは全て僕、逃げ回っていたのは僕なんだ。百夏の死は――」
「ワッ!」
ほとんど何も説明できていないと言うのに、ここで来海サンが飛びついて来た。いつの間にか、兄の行嶺氏はアルバートともどもいなくなっている。
二人きりの画材屋で僕たちはお互いの体をしっかりと抱きしめた。
もちろん、この後、今回の顛末――過ぎし夏から始まる友人との一部始終……秘密の思い出……恋人との出会いや別れについて語り尽くすつもりだ。だが、その前にもうしばらく――こうやってしっかりと抱き締め合っていたい。
そうして……
至福のぬくもりの中で、突然僕は気づいた。僕の〈告白〉――過去から現在に至る真実の吐露は何処から始めるのがいいのだろう?
そもそも両親に早めの引退を決意させ欧州へ旅立たせたのは、百夏を失って精神的に苦悩した僕にずっと寄り添ってくれた両親への感謝の気持ちからだった。本当に父母には物凄く心配をかけてしまった。
とはいえ、欧州行きを両親に承諾させるのは大変だった。僕たちはとことん話し合った。まだまだ不安定な僕を一人にするのを案じた両親と僕は一つだけ約束を交わした。それこそ、『祖父が残したこの画材屋を絶対に閉店したりしない』ということ。これは言うまでもなく『僕は百夏の後を追ったりはしない、人生を決して投げ出したりしない』と誓うことに等しい。
納得した両親を送り出し、一人きりになって、さて、これからどうする?
何も考えずにしばらく心を空っぽにしてボウッとしていようと思った。だが、何も考えないのは、それはそれで難しいとすぐに気づいた。それで発作的に店のHPに打ち込んだのがあの一行だった。
〈 画材屋探偵開業中! あなたの謎を解きます 〉
尤も、実際に謎を持ってやって来る酔狂な人間なんていないとタカをくくっていたのだけど。
どこまでが青春、いつまでが青春……
ああ、ほんとにな!
たくさんの新しいものを見つけ、大切な物を失くす、光きらめく季節……
僕は自分がまだそこにいるのかどうかわからないけれど、これだけは言える。
君に会えてよかった!
待てよ、そうだ、閃いたぞ。腕の中の相棒、世界中で一番大切な来海サンに、僕の過去と真実を語り尽くす最適な出だし――
こんなのはどうだ?
辛い過去を忘れたくて他人の謎解きに現実逃避した美大卒のミステリマニアの男がいる。その男が経営する画材屋のドアを開けて春風とともに最初の依頼人が入って来る――
いいぞ、これで行こう。というか、もうこれしかないじゃないか。
僕は来海サンの耳に唇を寄せ、語り出す。
「なぁ、聞いてくれ、君……」
――黒いセーラー服にピンクのライン、肩までのやや赤茶けた髪をなびかせて颯爽とした足取りで歩いて来た僕の最初の依頼人は、紙片を差し出し、僕の目をまっすぐに見つめてこう言った。
「この暗号を解いてほしいんです」
( 第9話 去夏 FIN.)
画材屋探偵開業中! ―― 了 ――
☆最後までお付き合いいただきありがとうございました!




