最後から二番目のラブレター
【最後から二番目のラブレター】
俺が先に出会ったのに。俺が惚れたのに。
父上は彼女を、サイード兄様の婚約者にしてしまった。
そうして俺の幼い初恋は、あっさりと禁断の恋になった。叶わない恋になった。
出会いから七年が経った今も、俺は彼女に恋をしている。
二月の十四日。今年もレティシア姉様はチョコレートを送ってきた。ラッピングは明るいオレンジ色。
彼女は毎年バレンタインにチョコレートをくれる。けれどきっとこれは、俺が「婚約者の弟」だからくれるのだ。テディ・リュウールシエルという男にではない。ただの弟に宛てているのだ。
パキリと噛む。口内の温度で溶ける。チョコレートは甘くてほろ苦い。
「……レティシア、姉様」
ひとり、愛しい彼女の名を呼ぶ。
彼女の名を呼ぶときに「姉様」と付けるのは、己の恋心を抑制するためだ。彼女は俺のものではないから。彼女は兄様のお嫁さんになるひとだから。
今、レティシア姉様は十五歳。俺は十二歳。今年の春から彼女は高等部一年生に、俺は中等部一年生になる。
中等部と高等部という違いはあるとはいえ、学び舎は同じ。彼女と同じ学園に通えることは嬉しいことだ。それは楽しみにしていたことだ。
けれど心に重くのしかかるのは、来年の三月のこと。来年の三月、レティシア姉様はサイード兄様と婚約式を挙げる。
ふたりの今の婚約は、親同士の約束事だ。しかし来年予定している婚約式は、親の約束するものではない。
神の御前で将来の結婚を誓うのが、婚約式だ。学生であるうちは夫婦とはならないが、学園を卒業したら結婚すると神に誓う。
そうすると、ふたりの結びつきは今以上に強くなり、さすがに婚約式を挙げたあとは、よほどのことがない限り婚約解消はできなくなる。
彼女が兄様のものへと近づいてしまう。彼女が遠いひとになってしまう。好きなひとが他の男のもとに嫁ぐなんて、やっぱり嫌だった。
バレンタインにチョコレートを貰ったら、男はホワイトデーにお返しをしなくてはならない――というのを良いことに、毎年こうして彼女に贈り物をするのを楽しみにしている。
弟にすぎない俺が堂々とレティシア姉様に贈り物をできるのは、彼女の誕生日とホワイトデーくらいだ。今年のお返しには、彼女に髪飾りを贈る。
落ち着いた色合いの、色とりどりの花が集まった花束のようなバレッタ。可愛らしくも大人っぽい雰囲気のそのバレッタは、最近ぐっと色っぽくなった彼女の純白の髪によく似合うことだろう。
男が女に装飾品を贈るときには、たいてい特別な思いがある。ゆえに初めて装飾品を贈ったときにはかなり緊張したのだが、彼女は普通に喜んで受け取って、後日その装飾品を身に着けた姿を嬉しそうに見せにきてくれた。
姉を慕う弟からのプレゼントとして、受け取ってくれたのだ。だから今年も弟らしく振る舞って、特別な思いは内に秘めたまま、彼女に髪飾りを贈る。
そして毎年ホワイトデーには、俺は彼女にラブレターをしたためている。彼女はきっと「バレンタインのチョコレートに喜んでいる無邪気な弟」の書いた手紙として、その愛情表現を軽く捉えてくれている。
彼女に好きだと伝えたくて、愛していると言いたくて。でも彼女との距離が離れるのが怖いから、今日も俺は、弟としての愛を彼女へ綴る。
来年の三月、レティシア姉様は婚約式を挙げる。神の御前で、サイード兄様の将来の伴侶となることを誓う。
この恋情を、いつまでも彼女に抱き続けるのは良くないことだろう。まだ婚約者のいない俺だけれど、いずれは俺だって、誰かと婚約して誰かを妻にするのだ。
だから彼女へのラブレターは、来年のホワイトデーで最後にする。叶うはずのない恋心は、そのときで完全に封印する。
幼い頃の彼女は、鳥籠の中の美しい小鳥だった。彼女の家に伝わる古い考えで、彼女は生まれたことすらもあやふやに隠されて、外に出さずに育てられていたらしい。
そんなふうに閉じ込められたお姫様を、見つけたあの日。
もしも俺が、サイード兄様のようだったなら。身分の低い元宮廷女官からではなく、もっと早く、俺が生まれていたのなら。
彼女と結ばれる王子様に、俺はなれたのだろうか。
その鳥籠を開けたことを、後悔はしていない。彼女は大空を飛ぶべきひとだったから。
ホワイトデーが来る前の、三月三日のこと。神殿に女が現れた。黒髪黒眼のその女は異世界者で、神の祝福を受けた者だという。
別に、それは構わない。神の祝福を受けた者がいる国は豊かになると言われているのだから、それは国にとって良いことだ。
ただ、気に入らないのは。
「サイード様!」
あの女が兄様を、馴れ馴れしく「サイード様」と呼んでいることだ。
サイード兄様はこの国の尊き王太子だ。第二王子の俺と比べたら、何倍も大事にされる存在。
そんな兄様の名は、みだりに呼んではいけないものとされている。父上と、兄様の母君であられる王后陛下と、異母弟である俺以外には、レティシア姉様しか兄様の名を呼ぶことは許されていなかった。
レティシア姉様だけが兄様を、「サイード殿下」と呼ぶことができたのだ。彼女に許された〝特別〟のはずだった。
「サイード兄様!」
「なんだ、テディ」
ある日、我慢ならなくなって、サイード兄様に直接尋ねることにした。レティシア姉様の特別を踏みにじっている異世界者のあの女を、何故兄様は咎めないのか。
「あの女に、何故『サイード様』と呼ばせ続けるのですか」
「ミク嬢のことか? それなら、彼女の機嫌を損ねたら困るからに決まっているだろう。彼女は役に立つものだから、できるだけ機嫌良くさせておいた方が良い」
あの女は、神殿で神と会話する能力を持っている。その類まれなる能力ゆえに、王家は彼女を特に大切にするつもりだということは、よくよく分かっている。俺だって、彼女の機嫌を損ねるようなことはしてはいけないと言われている。
けれど、レティシア姉様の思いは。
「兄様の名を呼べるのは、婚約者であるレティシア姉様の、いわば特権だったはず。あの女に名を許すことで、レティシア姉様がどう思われるかは考えないのですか?」
「レティシアは、そんなくだらないことを気にするような人ではない。そしてこのことに、お前が口を出す権利はない」
そうだ、所詮俺は第二王子だ。こんな俺が兄様に文句を言うことなど、誰が許してくれるだろう。
それでも思い出す、あの日の彼女の笑みを。何も分かっていない兄様に、ひどく腹が立つのだ。
彼女が、兄様の婚約者になったばかりの頃。兄様は、彼女をすぐには受け入れてくれなかったらしい。
しばらくはなんとなく気まずい関係が続いていて、どうしたら仲良くなれるだろうかと彼女に相談された。彼女が兄様と仲良くなれていない頃から、俺たちは姉と弟として仲良くなりつつあった。
そこで俺が、お名前をお呼びしたいと申し出てみればどうかと、アドバイスをしたのだ。名前で呼べるようになれば、彼女が望むように、仲が縮まるのではないかと思った。
『テディ殿下! 王太子殿下が、「サイード殿下」とお呼びすることをお許しくださいました! わたくしのことも、「レティシア」と呼び捨てで呼んでくださるようになって……仲睦まじいパートナーに、一歩近づけたように思います。テディ殿下のおかげです。ありがとうございます!』
王太子である兄様の婚約者として、努力していた彼女。どうしたら心を開いていただけるのだろうと、頑張っていた。
彼女はたいそう可愛らしい満面の笑みで、サイード兄様の名を呼べるようになったことを、喜んでいたのだ。
その呼び方は、彼女にとって大切なもののはずなのだ。
彼女にとってその呼び名は、「くだらないこと」なんかではない。
「兄様に、レティシア姉様の何がお分かりになるのですか」
兄様のことをいつも心配している、優しい彼女のことを。兄様に相応しいひとになるために、日々努力している彼女のことを。
彼女の前ですら本心を見せずに〝完璧な王子様〟を演じようとする兄様の姿に、彼女が寂しさを覚えていることを。
サイード兄様は、分かっていない。
「なんだ? お前こそ何も知らないだろう」
「レティシア姉様のこと泣かせたら、兄様でも許しませんから。……では、失礼します」
踵を返し、挨拶もそこそこに兄様の前から去る。どうせ何を言ったって無意味だ。兄様は俺なんかの言葉に価値を見いださない。
第二王子宮に戻って、書き終えたラブレターに追伸を綴る。
――――――
レティシア姉様に愛を込めて
テディ・リュウールシエル
追伸
貴女が辛いときには、俺が貴女のそばにいます。呼ばれたらいつでも馳せ参じます。
貴女は俺の大切なお姫様だから、貴女が泣くようなことがあれば、俺がその涙を拭いましょう。
貴女が兄様のことを嫌になったら、俺が貴女をさらいます。
貴女が望むなら、何処へだってお供しましょう。
貴女の幸せを守るためなら、俺は何だってできますから。
――――――
今年のこのラブレターも、貴女の心にはきっと「弟からの手紙」として届く。でも、それでいいのです。貴女の笑顔を守れるのなら。
最後から二番目のこのラブレターを、三月の十四日に届くように。
最後のラブレターには、どのように愛を綴ろうか。そんなことを、今からもう考えている。
知りませんでした。このラブレターが、最後になるなんて。
一年後のホワイトデーには、貴女がもういないだなんて。
そうとも知らずに俺は、貴女へのラブレターの文面を、日々頭の中で夢想しました。
あのとき貴女が、「逃げたい」と言ってくれれば良かったのに。そうしたら俺は、貴女を遠くへ連れ去ってしまったのに。
レティシア姉様。
貴女にこの愛が届く日が、もう来ないことは知っています。
けれど、もし「今度」があったのなら。何かの奇跡が起きて、貴女にまた会える日が来たのなら。
そのときは、俺の手を取ってくれますか。