噂・現実
「野生の雨女ぁ⁉」
天文部の部室で、頬杖をつきながら僕の目の前にいる大塚先輩が苛立たしげに声をあげた。べつに野生とまでは言ってない。
「お前それ、本気で言ってんのか?」
「ええ、まあ」
頬を掻きながら頷くと、鋭い言葉がとんでくる。
「昨日休んだ理由としては随分とメルヘンだな、おい」
言い返せる言葉が見つからない。まったくもってその通りです。
一昨日の一件のせいでひどい風邪をこじらせた僕は、翌日の月曜日、学校を休んだ。
まあ普段ならそれだけで済んだ案件なのだけれど、今回は事情が違った。
所属している天文部は今年の文化祭で展示をする予定になっていて、そのために星空の写真を大量に集めているのだ。
「生のヤツじゃねえと使わねえからな」という普通に無理難題を言い渡され、今までコツコツと写真を記録してきたのだけれど。あの一件でデータが全滅してしまった。カメラ本体にもダメージがいってしまい、現在修理中である。
「だから雨でカメラが壊れてデータが全部消えたんですよ」
思いつく言い訳で必死に抵抗すると、大塚先輩は納得したのか頷く。
「わかった、写真の件はそれで許してやる。だがそれでなんで『雨女』なんつー奇っ怪な単語が出てきやがるんだ?」
しまった、と僕は手で口を覆う。怒らせまいと詳細に事情を説明した結果、言わなくていいことまで言ってしまっていた。
「それはですね……」
「おう、早く話せ」
大塚先輩の低い声が部室に響き渡る。……まるで尋問じゃないか。僕が何をしたっていうんだ。
しかし、今すぐこの気持ちを伝えて楽になれるものならとっくにそうしている。この大塚先輩は、そんなことでは決して許してはくれないのだ。文科系クラブにもかかわらず、運動部のガラの悪い先輩にも引けを取らない厳つさである。
本当のところを言えば、この厳つさは文科系クラブには合わない。今すぐボクシング部に殴り込みに行ってもらい、怒涛の勢いで部員を殴り倒してその悪名と人相の悪さを広めてもらおうと思ったことも、一度や二度ではない。それかもうイメチェンでもしてイメージアップを期待することもできなくはなさそうだけど、その磨かれた不良のオーラはそんな易々とは拭えないだろう。
「また今度でいいですか?」
「ダメだ」
作戦失敗。作戦というほどものでもないが。
僕は「はあ……」とため息をついてそのまま伝えた。
「自称雨女を名乗る少女に出会っただけですよ」
「お前それ、本気で言ってんのか?」
「はい」
今度は強めに肯定する。見てくださいよ、この真剣な眼差し。
まあ、変なことを言っているのは自分でもわかっているつもりだ。けれどそれが事実である以上、どれだけメルヘンであろうとそれが真実なのだ。
見ると、大塚先輩が散々悩んでいたのかこめかみに手を当てていた。
「あれか、不思議ちゃんってやつか?」
「たぶん……」
彼女には悪いがそういうことにしておく。共通認識となった以上もう変えられない。
見ると大塚先輩も納得してくれたのか深く椅子に座り直した。
「わかった。だが進行が大幅に遅れたことも事実だ。どうやって取り返すんだ?」
向けられた質問は、まあ妥当なものだろう。しかし妥当であるからこそ、返答の反応も容易に想像がつく。
「それはまた今度考えます」
「フザけんな!」
平然と答えると、噴火したような迫力で大塚先輩は怒号を飛ばした。
……ふざけてないのに。
「——っていうことがあってさ、散々だったよ……」
伏し目がちに言った僕の前を元気な爆笑が飛ぶ。
「あははははっ! 何それ都市伝説にもなってないじゃん!」
昼休みの教室。右手のパック型イチゴミルクを机に打ちつけるように佐奈が全身で笑っている。何滴かその汁が僕の顔についたことはたぶん気づいちゃいないんだろう。
「ていうか雨女とか、妖怪じゃないんだから」
「本人が言ってたんだから仕方ないだろ」
僕が作ったみたいに言わないでほしい。
「それにこの話はあまり誰かに聞かせたくないから黙っててくれると助かる」
「えー」
「今度アイス奢るから」
「……乗った」
ぶーぶー言っていた佐奈が神妙な面持ちで呟く。……あれ、もしかしてダッツとか買わされちゃうのだろうか。たかだか百なんぼの出費と思われていたものが思わぬ高額に引き上げられていた。まあだとしても、アイスは奢ろう。
今は昼休みで教室には席を囲んで仲良く昼食を食べている生徒が多いからあまり騒ぎたくないのだ。
表情を元に戻した佐奈が「あ」と思い出したように聞いてきた。
「でもさ、結局どうすんの? カメラ壊れちゃったんでしょ」
「うん、まあね。一応直るまでは先輩のカメラを貸してもらうことにはなったけど」
またあんなことが起こるかと思うと肝が冷えそうになる。次は大目玉だけじゃ済まないだろう。
「また山行くの?」
「そうしないと間に合いそうにないからさ」
これから毎週出向いてやっと必要分を揃えられるかどうかといったところだ。大塚先輩には、できるだけ多くと言われているから、明確な数は知らされていないけれど。
それに、写真にも良し悪しがある。それを判断するのは大塚先輩の役目で、多少の『手ブレ』や『ピントずれ』など細かいミスも許してくれない。今は状況が状況なので少しは配慮してくれるかもしれないが,適当にやれば見破られる。……きっちり一枚一枚、シャッターを切らなければならないのだ。
「たーいへんだねー」
まったく他人事といった調子で、佐奈はズココとイチゴミルクを飲み切った。
すると話題を変えたのか「ああそうだ」と切り出す。
「雨女で思い出したんだけどさ、うちのクラスの『本物』はどうなんだろうね」
「さあ……」
僕が曖昧な相槌を打つと佐奈は「気にならないの?」と小首を傾げた。
「べつに」
ただの都市伝説で終わらせられるものなら、とっくの昔にそうなっている。噂は噂として広がるだけで実質的にそれが真実だと証明できるものは何もないのだ。……僕たちのクラスいる『本物』といえど、結局はその一例に過ぎない。
「単なる噂だからね、信じる気にはなれないよ。もしそれが本当なら、今頃世の中の干ばつ問題なんてとっくに解決されてるはずさ」
ついでに、雨男がいない理由も知りたいところだ。実際に妖怪として存在するという話は聞いたことがあるけれど、雨女のように人間の特性のような使われ方をしているのは見たことがない。そこにちょっと女子の闇を感じる……。
「夢がないなあ……」
言い切った僕を、佐奈は可哀そうなものを見る目で見ている。
「ロマンばっかり追い求めてると、いつか現実が見えなくなるよ」
僕のように、と言おうとして慌てて飲み込む。今は違うから。今は現実を知って、諦めるということを知った。
夢を抱いていいのは子供だけだ。あとは漫画の主人公くらいなもの。テレビなんかで「海賊王になる!」なんてコスプレしながら叫んでいる大人を見ると、途端に見ていられなくてチャンネルを変える。夢を見続けているほど、ひとは知らぬ間に大事なものを見過ごしてしまう生き物だ。
そんな僕に落胆したのか、佐奈はため息交じりに言う。
「現実しか見てない人間とか、つまんないよ」
それは彼女の本音だったのだろう。こうして会話を重ねていても、僕と彼女の間には見えない壁がずっとあった。それに気づきながらも、小学校から変わらず話しかけてくれていることは、素直にありがたいことだと思う。あるいは、憐れみなのかと感じるとこもある。……しかしそれは、彼女には言えない。
「だから拓も何か夢見ようよ。何でもいいからさ」
「夢か……」
言われて何があるかと思案して気づくと、幸運にも昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「まあ、また今度考えてみるよ」
力なく言って、僕はとある空席をちらと横目で見た。