快晴・自己紹介
ぽちゃん。
首筋に落ちた洞穴の水滴で僕は目を覚ました。顔を上げてすぐに気づいたのは外の明るさだった。
「朝、か……」
とりあえず身体を起こそうとして、僕は穴の中というのを忘れてしまう。僅か頭上の岩の天井に思い切り頭をぶつけた。
「————っ……!」
声にならない呻き声をあげて、それでもなんとか外まで這い出る。出てみてすぐ、僕は眩しさに目を瞑った。
天気は、昨夜の嵐が嘘だったかのような快晴だった。ずぶ濡れな自分が場違いだと思うほどに。
けれど地面にはちゃんとその名残が残っていて、所々はかなりぬかるんでいた。
それから僕は思い出したようにテントのある場所まで向かった。散々歩き回った山道は、見覚えのある場所まで戻ってこられればあとは自力で道を辿れる。程なくして着いた。
現場はひどいものだった。急いでいたこともあってかリュックは開けっぱなしになり、中までびちゃびちゃになっている。
「最悪だ……」
今度ははっきりと、ため息も一緒に嘆きが漏れた。
「うえぇっ……!」
臭いも吐きそうなほど相当なもので、生乾きのようだった。鼻をつまんだまま思わずリュックを閉める。
あらかた濡れていた荷物はけれどなくなったものはなかった。コンビニ後真っ先に一番奥へと突っ込んでいた財布は奇跡的に無傷で、紙幣にも問題はなかった。これでとりあえず生きては帰れそうだ。
次にテントの転がっている場所に向かう。正直見たくはなかった。遠目で見て、たぶんそうだろうとは思ったけれど確信はしなかった。
高かったのだ。二万もした。だから決して『壊れている』と認めるわけにはいかなかった。
でももしかしたらと思って調べてみたが……だめだった。
「骨組みが完全にイッてる。……もう使えないか」
ため息が漏れた。また貯金を崩して買うしかない。頼み事をして翌朝にこれじゃあ、僕の願いなんて叶うはずがない。
仕方ないと気持ちを切り替えた。このまま放置することが一番やってはいけないことであるくらいには僕は冷静だった。リュックに入れるために分解して折りたたむ。
ふいに、後ろから声がした。
「あちゃー、こりゃヒドイね。ナンマンダブ」
振り返ると、すぐ後ろで見知らぬ少女が神妙な顔つきでお悔やみの言葉を唱えていた。
初対面ということを忘れて僕は聞いてしまう。
「何やってるの?」
「え、供養」
少女はまったく平然とした様子で答えた。
「いや死んでないんだけど」
そもそも人でもないしと内心付け足すが、彼女はまだ手を合わせている。
「でも壊れちゃったんだから。せめてお疲れ様くらい言わないと」
君には関係ないじゃん。
そう思いながらも一理はあったので僕も合掌することにする。ナンマンダブ、ナンマンダブ……。
一通り供養を終えると、振り返り訊ねた。
「で、きみは誰?」
すると、それまで気にしていなかった恰好が視界に映った。夏らしいワンピースは涼しげな白と水玉の模様。身長は、小学生くらいの高さに思われる。
「名乗るほどの者ではありませんよ」
おどけるように少女は言った。
それを見て何かスイッチが入ったのか、僕は自分から名乗った。
「僕は森島拓。—————君は?」
「わたしべつに名前聞いてないよ?」
「人に名前を聞くときはまず自分から名乗るのが常識でしょ」
言うと、少女は「なるほどね」と頷いた。
「雫って呼んで。苗字は秘密」
「字はなんて書くの?」
「滴らない方だよ」
どっちも滴るような気がするんだけど。……ああ、だから雫か。
回りくどい説明だが理解はできた。すぐに返してきたあたり、自己紹介のときはいつもそうしているのかもしれない。
すると少女が突然顔を近づけてきた。
「タクってどんな字を書くの?」
何と答えようか、僕は迷った。開拓の拓が最も一般的だけれど、それだと普通すぎる。できるなら、彼女のように少しひねった言い回しをしたい。
しかし結局思い浮かばず、当初の説明をしようとして、少女が先に言う。
「まあ、タクでいっか。その方が楽だし」
「ああそう。……じゃあそれで」
どこが楽なのかいまいちわからないが、これでは説明したところで意味はないだろう。
気を取り戻したところで少女が聞いてくる。
「タクはどうしてここにいるの?」
「見ればわかるでしょ。荷物の回収をしに来たんだよ。昨日の嵐のせいで避難しないといけなくなったから」
「へえ。……大変だったね」
ぽそりと少女は呟く。それだけでも救われた気がした。事情を知らない彼女にこれ以上話すのは面倒なので逆に聞く。
「そういう雫は何しに?」
言うと少女は一瞬困った顔をした。
「え? ……あー、わたしここの近くに住んでるから。よく遊びに来るの。今日もそれで」
それは意外だ。ならば何度かすれ違っているかもしれない。
「それは偶然だね。僕もたまにここに来るよ」
言うと少女は手を後ろに組んで恥ずかしそうに頷く。
「そうなんだ。じゃあわたしたち、今まで何度か会ってるかもね」
「かもね」
少し笑い合ってから、僕は気を取り直して解体したテントの部品を運ぼうと立ち上がる。
すると少女の姿の違和感に気づき、僕はそれに視線を向けた。
「何で傘なんか持ってるの?」
少女は右手に傘を持っていた。これまた女の子らしい、水玉の傘だ。小学生としては少々大人びた格好をしている分、その子供っぽい傘がよく映える。
「あ、もしかして日傘?」
もしかしてもなくそれしかないのだが、彼女はそれを指摘されたことに驚いている様子だった。やがてはっと気づいたようにふるふると首を振ると、おもむろに傘をひらいた。
「雫……雨女だから。いつも持ち歩いてるんだ」
そんな自己紹介に僕は呆然とするしかない。他人に言われるならまだしも、自分から名乗ってくるとは不思議な子だ。……不思議ちゃんなのかな?
などと勝手に決めつけてしまい、ちょっと悪いと思ったので追及はしないでおく。誰にも事情はあるものだ。
「そうなんだ。大変だね」
愛想笑いを浮かべてなんとかその話題を終わらせる。しかしちょっと変な空気が漂っている気がして、僕は急いでリュックにテントの部品を半ば強引に押し込んだ。
ふと顔をあげて少女の方を見る。
「僕はそろそろ戻るけど、君は?」
彼女は目を閉じ首を振った。
「タクのあとでゆっくりおりるよ。だから先に行って」
ここで「だめだよ、一緒に行かないと危ない」と普段の僕ならあるいは言えたかもしれない。けれどこの時の僕はこれ以上にないほど疲れていた。逆に疲れすぎて舌が回っていたのかもしれない。初対面の女の子に対して、ずいぶん馴れ馴れしかったと今更ながら反省する。
少しばかり罪悪感はあったけれど、彼女の気持ちを尊重するなどともっともらしい理由をつけた。
「わかった。じゃあ」
「うん、…またね」
苦笑交じりに手を振ると彼女も笑顔で振り返してくれた。僕は前を向き、行きよりはだいぶ疲労感の少ない道をなんとか下り終える。
バスに乗って自宅まで戻ると、僕は案の定、風邪を引いていた。