6回 作文
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
横断歩道の赤信号すら無視して、翔大は走る。頭の中では、先ほどの男教師の言葉が繰り返しリピートされていた。
『君の妹が車にはねられた! 救急車で中央病院に運び込まれたらしい!』
さっきから全力疾走に近いスピードで走っているのに、やけに体が冷たい。のんきに外周していた自分を殴ってやりたかった。
「百合花……っ!」
頼む百合花。生きててくれ。そう願い続ける。
『黒石中央病院』と書かれた看板を発見するや否や、翔大は入り口へと猛然と走った。
カウンターに駆け込むと、受け付け担当の看護婦がこちらに気づいた。
母親の友達であり、百合花がよくなついていた佐瀬だ。
「佐瀬さん、百合花! 百合花は!?」
「翔大君、待ってたわよ。こっち」
「……なんで、なんでそんなに落ち着いてるんですか……?」
……まさか。
最悪の未来が頭を過る。一瞬、体が凍りついたように動かなかった。
「安心して。百合花ちゃんは生きてる」
「ほ、本当……」
「生きては、いるわ」
「え……?」
佐瀬が、喜びかけた翔大を遮った。
「どういうことですか!」
「……百合花ちゃんの病室、案内するわ」
「え、ちょ」
追及しようとした翔大だったが、佐瀬は既に歩き始めている。慌ててついていく。
佐瀬は一切こちらを見ない。振り返らない。その事が、翔大をさらに不安にさせた。
「あの……佐瀬さん」
「なに?」
「なんで、百合花が交通事故なんか……あいつは体が弱くて、まだ歩くのも精一杯なのに……」
それは、教師の言葉を聞いた時から抱いていた疑問だった。
散歩したかった、なんてことを考えるほど子供じゃない。学校に行くのも4月下旬からのはず。
なのに何故……
「……聞かない方が、良いかもしれないわよ」
「なんでですか! 俺はあいつの家族です。教えてください!」
「…………」
息が詰まる。呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。
まるでプールの中にいるような気分になり、息継ぎをするように大きく息を吸ったのとほぼ同時。床を映し出していた視界の中に、異物が混入した。
手のひらの部分が黒く汚れて傷んだ、穴だらけのバッティンググローブ。聞かなくても分かる。
自分のものだ。
「な、なんでこれが……」
「これ、翔大君のでしょう? 百合花ちゃんは、これを届けに行って事故に遭ったのよ────」
頭が真っ白になる。
そこから先、佐瀬が何か言ったのだろうが、翔大の耳には入らなかった。
「ここよ」
いつの間にか、1つの扉の前で立ち止まっていた。
B035『高山百合花様』。
これを見るのは、何度目だろうか。少なくとも、片手に余る程だと記憶していた。
──っ! 百合花!
過去を思いだし、慌てて扉を開けようと取っ手を押す翔大。
が、この扉は引き戸だ。当然開かない。
「百合……」
「落ち着いて翔大君。慌てても、百合花ちゃんが回復する訳じゃないのよ」
今、翔大の頭は焦燥感でいっぱいだった。
佐瀬の言葉も耳に入らず、扉を何度も外しそうになりながらも、なんとか扉が開く。
「百合花……」
最初に目に入ったのは、見慣れた病室のベッド。
その上で百合花は静かに目を閉じている。
一瞬ヒヤリとしたが、僅かに上下する小さな胸と、傍らの点滴が、彼女が生きていることを伝えてくれた。
「翔大」
「母さん。来てたのか?」
翔大から死角になっているベッドの端に母が座っていた。しかし、今はそんなことに気を向けていられなかった。
「佐瀬さん、百合花はどうなっているんですか?」
「…………」
佐瀬は答えない。いや、どう伝えればよいか分からないのだ。
「……お二人は、『植物状態』というのをご存知ですか?」
「はい……」
脳梗塞や脳が外傷を負うなどで脳に障害が残り、生存に必要な機能だけを残して眠り続ける状態だと記憶していた。
「……まさか」
「はい。百合花ちゃんは今……」
一拍の間。ゆっくりと佐瀬の口が開いた。
「植物状態です」
その言葉を聞いた瞬間、翔大頭の中は真っ白になった。
百合花は生きてる。今はそれだけで良い。植物状態から復活した人もいるのだから。
自分にそう言い聞かせてみても、自責の念と涙が止まらない。
──百合花……俺のせい……俺のせいだ……!
「翔大!?」
「翔大君!?」
いたたまれなくなって、翔大は病室から飛び出した。
廊下を全力で駆ける。看護婦の言葉も、咎めるような視線も、キャリーに肩がぶつかった痛みも、どうでもいい。
ーーごめん……百合花っ。
俺が、バッティンググローブを忘れなければ。
俺が、それに気づいていれば。
俺が、百合花に少しでも野球のことを教えてやっていれば。
……俺が、野球"なんか"やってなければ、こうならなかったのに!
外に出ても、翔大は走り続けた。どこに向かっているのかすらわからない。住み慣れた町が、やけに歪んで見えた。
「はっ、は、ひっ、ひっ……あっ、ああっ、ああああああっ!」
酸素が足りないせいで、過呼吸のように痙攣する肺も無視して、翔大は絶叫した。
* * * * * * * * * *
いったい、どれだけ走っただろうか。
今、翔大は歩いて家路についていた。走る体力は使いきった。気力は元より磨耗しきっている。
「…………」
翔大は、ショックを受けていた。自分が野球をやっていたせいで、百合花は死にかけたことに。
百合花は言っていた。努力を続けていれば、誰かを救うこともあると。
だが、結果的にこうだ。
救うどころか、傷つけてしまったのだった。
──……野球……やめるか。
そう思い至った瞬間、翔大の顔から血の気が引いていく。想像した野球の無い人生が、恐ろしかったのだ。
──なんて自分勝手な野郎だよ……
青い顔のまま家の扉を開け、乳酸の溜まった足を引きずって中へ入る。
動く気が起きず、しばらく玄関に佇んでいた翔大。
しかし突然、まるで誘われるように階段を上り始めた。
可愛らしい掛け札で『ゆりか』と書かれた扉を開ける。昨日も見た、寝具と小さな机しかない、殺風景な部屋だ。
「……?」
ふと、机の上の紙が目に入った。
「原稿用紙……?」
──……百合花の宿題か。
最近野球どう? なんて聞かれた。つい昨日のことが恋しくなり、それを手に取った。
『私の夢』
高山百合花
私には、中学生のお兄ちゃんがいます。小学校のころからずっと野球をやっていますが、あまり上手じゃありません。でも、上手になるために、毎日頑張るお兄ちゃんは、誰よりも格好いいです。私の夢は、そんなお兄ちゃんが、全国大会で野球するのを応援することです。今はまだ上手じゃないお兄ちゃんですが、絶対に上手になっていつか全国大会にだって
書きかけなのだろう。その先は、書かれていなかった。
でも、それだけで充分だった。
百合花の、丁寧でしっかりとした文字が、偽りではないことを告げてくれていたから。
「百合花……っ」
何も許されていないというのに、心が浄化されていくのを感じた。勝手に溢れ出る涙が、亜鉛の黒い筆跡をにじませていく。
「……ごめん……ありがとう……っ」
何度も、何度も涙をぬぐいながら、翔大は言った。そして、また泣いた。
──許されないかもしれないけど……本当にごめん、百合花。お前が目覚めた時、拒絶されても、例え刃物を向けられたとしても、俺は受け入れる。
「……くっ」
翔大はもう一度、びしょびしょの裾で涙を拭い、百合花の作文を四つ折りにして、ポケットに入れた。
これは、ただの自己満足なのかもしれない。罪滅ぼしのつもりなのかもしれない……自分勝手かもしれない。
それでも…………
「百合花。お前の夢……俺に叶えさせてくれっ……!」
ここから、高山翔大の本当の野球人生が始まる。




