5回 紅い悪夢
翌日、午前6時半。
翔大は7時からの朝練へ行くため、食パンをかじりながらユニフォームに着替えていた。
何故か。遅刻しそうだからであった。
その傍らでは、妹の百合花が笑いながら立っている。
「お兄ちゃん、はいこれ」
「おう、サンキュー」
礼を言いながら、百合花から渡されたアンダーシャツを着る翔大。
「ていうか、大丈夫なのか?」
「んー? なにが?」
「お前体弱いんだから、ちゃんと休まねえとダメだろ?」
「大丈夫! 昨日早く寝たから、あまり眠くないよ」
自分の元気さを伝えるように、百合花は満面の笑みを見せる。
確かに、ついこの間まで病院のベッドの上で青い顔をしていた人物とは思えない笑顔だ。
医者からも大分快方に向かっているとお墨付きをもらったので、翔大も反論できなかった。
「ほら、早くしないと遅れるよ!」
「分かってるよ」
アンダーシャツの上から白い練習着を着込み、最後に無地の白い帽子を被る。
ベルトをもう一度きつく締めて、翔大は玄関を出た。
「んじゃ、行ってくる。母さんに昼飯頼んどいてくれ」
「はーい。いってらっしゃい!」
翔大は、妹の心地よい声を背に、少し距離のある学校へと走り始めた。
* * * * * * * * * *
翔大が出かけて30分後。
母が起きてくる前に朝食の支度を終えた百合花は、あるものを発見した。
「これ、お兄ちゃんのだ」
手のひらの部分がグリップテープの黒で汚れた、穴だらけの白いバッティンググローブ。
幾千の素振りによって傷んだそれは、翔大が打席に立つとき必ず着けているものだった。
「うーん」
普通の小5の妹、もしくは野球について深く知っている人物だったら、それをわざわざ届けに行ったりはしないだろう。
バッティンググローブはつけるもつけないも自由、持っていないプレイヤーも居るということが分かるからだ。
だが、
「無いと、困るよね……」
不幸にも、百合花はどちらにも当てはまらなかった。
兄思いの優しい妹で、野球のことはほとんど知らない。
そんな百合花は、勤務明けで疲れた母親に行かせるという選択もできず、自らが届けに行く事を選択してしまった。
「いってきまーす!」
翔大とは違い、虚しく反響する自分の声を背に、百合花は玄関を出た。
* * * * * * * * * *
「高山君」
「…………」
「高山君?」
「…………」
「おーい、高山君」
翔大は絶賛不機嫌中だった。
皆がノックを受ける中、昨日と同じくメニューはランニング。
それでも、百合花のお陰で俄然やる気が出てきていたため、張りきって走り出したのだが……
「こーうやーまく……」
「御堂先輩……いい加減にしてください」
「おっ、やっと反応してくれたね」
さっきから、女子野球部エースである御堂梨華(2年)が付きまとってくるのだ。
御堂に対しかなり良識的な人だという印象を持っていた翔大だったが、それが出会って2日、早くも崩れ去っていく。
「だいたい、なんでレギュラーが外周走ってんすか。ブルペンで投げてきたらどうです?」
「なんでって、肩は消耗品だし、投手にとって足腰は大事なんだよ」
「うっ……」
かなりもっともな理由に、ぐうの音も出なかった。
とはいえ、練習の邪魔をされる訳にはいかない。そう思い、ペースを上げる。
「お、速いね」
「そんな軽々ついて来て言われても説得力ないっすよ……!」
「足腰はできてる。体力も十分なほどついてるのに、実力はいまいち……んー」
と、走りながら悩み始める御堂。
今ならバレなさそうだ、と思い、翔大がコースから外れようとしたときだった。
……ピーポーピーポーピーポーピーポー……
ゾクッ!
急に聞こえ始めた救急車のサイレンが、だんだんと低く、小さくなっていく。
決して珍しいことではない。それなのに、何故か今、翔大の背中に冷たい何かが走った。
──これは以前もあった。あれは確か……3年前!
3年前。コンビニに行く途中、百合花が貧血で路上に倒れ、救急車で運ばれていったシーンが脳裏に映し出される。
あのときは自分も居たから、守ることができた。だけど今は……
……翔大の背中に、冷たいものが走った。
「お兄……ちゃん……」
……ピーポーピーポーピーポーピーポー……




