表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

【 PROLOG 】 後編


「なあ、千代」


 所変わって、とあるマンションの一室。

 おそらくは二十畳ほどはあるだろうリビングダイニング・キッチンのソファに、一人の男が座っていた。

 年の頃は、三十前後であろうか。

 後頭部に向けてやや逆立ったような黒い短髪に、鼻下とアゴの先端にちょびヒゲを生やしている、ヘビ面の男だ。


「なぁに?」


 男のその声に、奥の対面式キッチンから返事があった。

 どこか甘えるような感覚をもった、可愛らしい声だ。


「俺も、そろそろ働かないとな」


 その返答に、雑誌に目を落としたままのちょびヒゲは、ちいさくそう言った。

 わずかな間をおいて、


 パタパタパタ!


 と、スリッパの音が、奥のキッチンから飛び出してくる。


「よ、よっちゃん! 今、なんて……」


 千代と呼ばれた女性は、むっちりとした体型に、さもありなんといったサイズの胸を揺らしながら駆け寄ってきた。

 漫画のコマにするなら、横に“たゆんたゆん”や“ばいんばいん”とオノマトペが記載されただろう。

 立ち止まった千代の、ウェービーなミルクティーブラウンのロングヘアが、動きにあわせてふわりとなびいた。

 顔の中心では、クリクリとした目をさらに大きく見開いている。


「ケガも治ったし、リハビリももう十分だろう。そろそろ働かないとなって思ってな」


“よっちゃん”は、雑誌を閉じてテーブルにパサリと置いた。


「あ、今月のホビーニッポン、先に読んだぞ」

「いいよそんなことはどうでも!」

「いつも何も言わず先に読んだらむくれるじゃないか」

「そんなこともあったかもしれない!」

「だから報告したんだ」

「それは今はいいよ! よっちゃん……お仕事、するの……?」


 恐々、といった風に、千代はそう問いかける。


「ああ。これ以上じっとしてても、記憶喪失が治るとも思えんしな」

「それは……そうかもしれないけど……」


 オロオロしている千代。


「このままじゃニート化してしまう。いや、すでに今の俺はニートだ」

「う……それは、そうかも……」

「プラモ作って眺めてるだけの毎日だしな」


 そう言って周囲を見渡したその視線の先には、棚という棚を埋め尽くす、様々な立体の群れが飾り並べられていた。


「作ってるのは、どっちかって言うと私だよ……」

「そうだな。作るのが趣味なのは千代だもんな。飾りつけて眺める毎日、と訂正しよう」

「そうだね。……そうじゃないよ!」


 千代は、その手に持ったままのしゃもじをぎゅっとにぎりしめる。


「よっちゃん、大丈夫……?」


 心配そうに、千代はそう尋ねる。


「……ああ、大丈夫だ。働けるんだし、働かないとな」


 それに対して、顔に似合わず優しい声で、そう返した。


「記憶を失う前の俺は、どんな仕事をしてたんだ?」

「えっ!? えっ、っと……」


 眉根を寄せる千代。


「それが、その……仕事場の話しはあんまりしてくれなかったから、わかんないかな……」


 どこか複雑そうに、千代はそう言った。

 それを聞いた“よっちゃん”は、静かに微笑む。


「だろうな。俺らしい」


 明らかに、千代が元気を失っていた。

 それは見てとれたし、二人が一緒に住み始めてからもうずいぶん長い。

 千代の変化には、敏感であった。

 そして、こういう時は、決まった提案がある。

 気晴らし――である。


「千代、今日は飲みに行こう」



   ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 元々飲み仲間だった二人の、数多ある行きつけの店のうちの一軒が、二人の住む部屋の近所にある。

 そこは、こうして思い立った時に出向く、気兼ねのない焼き鳥屋だった。


「――ぷはっ。おいしー!」


 ビールの泡を口元につけた千代は、満面の笑みを浮かべている。


「ここの串とビールは最高だな」


 そう言いながら、千代の口元を手ぬぐいで拭いてやった。


「だね。飽きない味。これでお米食べるのも美味しいけど、やっぱビールだよー」


 楽しそうな表情になった千代を、ヘビ面の優しい笑顔が見つめている。

 と、その時であった。


「おや。吉法よしのりじゃないか」


 ふと、カウンター席の二人の背後から、そう声がした。

 聞き覚えがあったのだろう、“よっちゃん”こと吉法は、肩をすくめる。


「こんばんは、玄真げんしんさん」


 振り返った先には、ずんぐりむっくりな体型のヒゲ男が、にこやかな笑顔で立っていた。

 そんな玄真と呼ばれた大男に、千代はちいさくペコリと頭を下げる。


「こんばんは、お嬢さん」

「千代、この人が前に話した、ここで知り合った社長さん」

「あぁ! あの、よく動くおっきい人!」


 思い当たったらしく、千代はそう言うも、ハッとして口を塞いだ。


「吉法、キミの俺への評価はよーくわかった」

「誤解ですよ、玄真さん」

「今のをどうポジティブに捉えりゃ誤解と感じられるんだろうなぁ」


 いたずらっぽい笑顔の玄真は、申し訳なさそうな千代に向けて「気にしないでください」と付け加えた。


「吉法、ちょうど良かったよ。実はお前さんに話があってね」

「話、ですか? お金はないですよ」

「誰が引きこもりニートに金の無心なんぞするか」

「ひどいなぁ」


 苦笑を浮かべながら、吉法は玄真がなにを言ってくるのか、考えていた。

 改まっているところを見ると、飲みの誘いでもないだろう。

 金の無心でもないとしたら……なんだ?

 そこまで考えた時だった。

 意外な言葉が、吉法の耳に届く。


「うちで、働かないかね?」


 吉法は、キョトンとした表情になる。


「前に話したと思うんだが、会社を立ち上げたばかりでね。人手が欲しいんだよ。お前さん、そろそろ働きたいと言ってたろう」


 吉法と千代が、顔を見合わせる。

 確かに、吉法は彼にそんな話しをしていたが、まさにほんの少し前に二人で話したばかりの内容だ。


「渡りに船、と言ってもいいのかもしれない」


 千代の目を見て、吉法は言う。

 真剣なその目に、千代は少しの間逡巡するような様子を見せるが、最後にはうなずいた。


「決めるのは、よっちゃんだよ」


 その言葉には、どこかまっすぐな真摯さが込められている。

 信じてるよ、と。

 そう聞こえてくるようであった。


「玄真さん」

「その顔は、決まったね」

「はい」


 この先に飛び出す言葉に、玄真は笑顔を浮かべていた。

 勝利を確信した顔である。


「よろしくお願いします」


 吉法は、まっすぐ真剣な眼差しで、玄真の双眸を射抜いた。


 事故ですべてを失った男が、一歩を踏み出した瞬間である。

 そして、複雑そうにしながらも、しかし愛する者の躍進に期待を込めた喜笑を浮かべる、一人の女。


 彼らは、過去という鎖を断ち切り、歩き出したのであった。



 これは、悪党とヒーロー――彼らの戦いが日常に溶け込んだ時代の物語である。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ