【 PROLOG 】 後編
「なあ、千代」
所変わって、とあるマンションの一室。
おそらくは二十畳ほどはあるだろうリビングダイニング・キッチンのソファに、一人の男が座っていた。
年の頃は、三十前後であろうか。
後頭部に向けてやや逆立ったような黒い短髪に、鼻下とアゴの先端にちょびヒゲを生やしている、ヘビ面の男だ。
「なぁに?」
男のその声に、奥の対面式キッチンから返事があった。
どこか甘えるような感覚をもった、可愛らしい声だ。
「俺も、そろそろ働かないとな」
その返答に、雑誌に目を落としたままのちょびヒゲは、ちいさくそう言った。
わずかな間をおいて、
パタパタパタ!
と、スリッパの音が、奥のキッチンから飛び出してくる。
「よ、よっちゃん! 今、なんて……」
千代と呼ばれた女性は、むっちりとした体型に、さもありなんといったサイズの胸を揺らしながら駆け寄ってきた。
漫画のコマにするなら、横に“たゆんたゆん”や“ばいんばいん”とオノマトペが記載されただろう。
立ち止まった千代の、ウェービーなミルクティーブラウンのロングヘアが、動きにあわせてふわりとなびいた。
顔の中心では、クリクリとした目をさらに大きく見開いている。
「ケガも治ったし、リハビリももう十分だろう。そろそろ働かないとなって思ってな」
“よっちゃん”は、雑誌を閉じてテーブルにパサリと置いた。
「あ、今月のホビーニッポン、先に読んだぞ」
「いいよそんなことはどうでも!」
「いつも何も言わず先に読んだらむくれるじゃないか」
「そんなこともあったかもしれない!」
「だから報告したんだ」
「それは今はいいよ! よっちゃん……お仕事、するの……?」
恐々、といった風に、千代はそう問いかける。
「ああ。これ以上じっとしてても、記憶喪失が治るとも思えんしな」
「それは……そうかもしれないけど……」
オロオロしている千代。
「このままじゃニート化してしまう。いや、すでに今の俺はニートだ」
「う……それは、そうかも……」
「プラモ作って眺めてるだけの毎日だしな」
そう言って周囲を見渡したその視線の先には、棚という棚を埋め尽くす、様々な立体の群れが飾り並べられていた。
「作ってるのは、どっちかって言うと私だよ……」
「そうだな。作るのが趣味なのは千代だもんな。飾りつけて眺める毎日、と訂正しよう」
「そうだね。……そうじゃないよ!」
千代は、その手に持ったままのしゃもじをぎゅっとにぎりしめる。
「よっちゃん、大丈夫……?」
心配そうに、千代はそう尋ねる。
「……ああ、大丈夫だ。働けるんだし、働かないとな」
それに対して、顔に似合わず優しい声で、そう返した。
「記憶を失う前の俺は、どんな仕事をしてたんだ?」
「えっ!? えっ、っと……」
眉根を寄せる千代。
「それが、その……仕事場の話しはあんまりしてくれなかったから、わかんないかな……」
どこか複雑そうに、千代はそう言った。
それを聞いた“よっちゃん”は、静かに微笑む。
「だろうな。俺らしい」
明らかに、千代が元気を失っていた。
それは見てとれたし、二人が一緒に住み始めてからもうずいぶん長い。
千代の変化には、敏感であった。
そして、こういう時は、決まった提案がある。
気晴らし――である。
「千代、今日は飲みに行こう」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
元々飲み仲間だった二人の、数多ある行きつけの店のうちの一軒が、二人の住む部屋の近所にある。
そこは、こうして思い立った時に出向く、気兼ねのない焼き鳥屋だった。
「――ぷはっ。おいしー!」
ビールの泡を口元につけた千代は、満面の笑みを浮かべている。
「ここの串とビールは最高だな」
そう言いながら、千代の口元を手ぬぐいで拭いてやった。
「だね。飽きない味。これでお米食べるのも美味しいけど、やっぱビールだよー」
楽しそうな表情になった千代を、ヘビ面の優しい笑顔が見つめている。
と、その時であった。
「おや。吉法じゃないか」
ふと、カウンター席の二人の背後から、そう声がした。
聞き覚えがあったのだろう、“よっちゃん”こと吉法は、肩をすくめる。
「こんばんは、玄真さん」
振り返った先には、ずんぐりむっくりな体型のヒゲ男が、にこやかな笑顔で立っていた。
そんな玄真と呼ばれた大男に、千代はちいさくペコリと頭を下げる。
「こんばんは、お嬢さん」
「千代、この人が前に話した、ここで知り合った社長さん」
「あぁ! あの、よく動くおっきい人!」
思い当たったらしく、千代はそう言うも、ハッとして口を塞いだ。
「吉法、キミの俺への評価はよーくわかった」
「誤解ですよ、玄真さん」
「今のをどうポジティブに捉えりゃ誤解と感じられるんだろうなぁ」
いたずらっぽい笑顔の玄真は、申し訳なさそうな千代に向けて「気にしないでください」と付け加えた。
「吉法、ちょうど良かったよ。実はお前さんに話があってね」
「話、ですか? お金はないですよ」
「誰が引きこもりニートに金の無心なんぞするか」
「ひどいなぁ」
苦笑を浮かべながら、吉法は玄真がなにを言ってくるのか、考えていた。
改まっているところを見ると、飲みの誘いでもないだろう。
金の無心でもないとしたら……なんだ?
そこまで考えた時だった。
意外な言葉が、吉法の耳に届く。
「うちで、働かないかね?」
吉法は、キョトンとした表情になる。
「前に話したと思うんだが、会社を立ち上げたばかりでね。人手が欲しいんだよ。お前さん、そろそろ働きたいと言ってたろう」
吉法と千代が、顔を見合わせる。
確かに、吉法は彼にそんな話しをしていたが、まさにほんの少し前に二人で話したばかりの内容だ。
「渡りに船、と言ってもいいのかもしれない」
千代の目を見て、吉法は言う。
真剣なその目に、千代は少しの間逡巡するような様子を見せるが、最後にはうなずいた。
「決めるのは、よっちゃんだよ」
その言葉には、どこかまっすぐな真摯さが込められている。
信じてるよ、と。
そう聞こえてくるようであった。
「玄真さん」
「その顔は、決まったね」
「はい」
この先に飛び出す言葉に、玄真は笑顔を浮かべていた。
勝利を確信した顔である。
「よろしくお願いします」
吉法は、まっすぐ真剣な眼差しで、玄真の双眸を射抜いた。
事故ですべてを失った男が、一歩を踏み出した瞬間である。
そして、複雑そうにしながらも、しかし愛する者の躍進に期待を込めた喜笑を浮かべる、一人の女。
彼らは、過去という鎖を断ち切り、歩き出したのであった。
これは、悪党とヒーロー――彼らの戦いが日常に溶け込んだ時代の物語である。