墨染の衣
私は、微睡んでいた。
無数の黒い手が私を雁字搦めに抱いていて、まるで黒蛇のベッドのようだ。起き上がると、ぬるりと黒い手は滑り落ちる。私をこの黒い褥へ誘ってくれたカナリアの魂は、私にべっとりと縋りつくように愛している、愛していると呪う。私の望みを叶えてくれてありがとう、愛してやることはできないけど、お前も私と一緒にこの国の行く末を見届ける番人になるといい。ずっと一緒だよ、安心しなさい。
…この乾いた思考のカタマリが、どうやってこの国を支えるんでしょうねえ長様?長様の尊いお考え、私ごときにもわかるように、お教えくださいね?そしてこのまがい物の母がこの国を破滅させると判断した時。私は高笑いしてこの黒い手と「善きヨアキム」が作った母体を解放して差し上げましょう。長様、あなたの魂に永遠の黒い祝福があらんことを。
さて、と外界を覗いてみると眼下に私とカナリアの女の死体が見えた。どれだけ微睡んでいたのかと思っていたけど、大して時間は経っていなかったんですね。紫紺の人々が悲鳴をあげ、二人分の死体を取り囲んで騒ぎ出しましたよ。
「な…ヨアキムと連れの女が死んでるぞ!」
「おい…何も外傷がない…女が泣いたまま死んでる…」
「ちょ…これ何かの呪いじゃねえのか」
「怖いこと言うなよ!あれ…何か…禍々しい歌が微かに聞こえないか?」
「えっ…うわああ、俺も聞こえるっ」
おや…だめじゃないか、呪詛の歌を垂れ流しちゃ。ちゃんと私だけにその黒い愛を向けてくれなきゃ。すると女は、にちゃりと微笑んでますます私に絡みついた。この後、私たちの遺体は浄化の儀式などという大仰なことをされた後どこかへ葬られたらしい。どうでもいいけど、私の存在を感知できないとは本当に紫紺はマナの流れに鈍感なのですね。
どうもこれが原因で、このマザーの筐体には「拷問されて恨みを持ったヨアキムが厄災を持ち込んだ」という微妙に的を射た噂が裏で流れたようだった。後にこの国へ移住してきた緑青一族にそのまことしやかな噂が届き、「製作者の仕掛けた厄災の箱というものがあるそうだ」という伝説となった。
また微睡んでいると、どうも百年単位で時間が経っていたようだった。何で目覚めたのかな、と思って母のマナを見てみると、なんと8体の子が出来ていた。ほう…なるほどねえ。紫紺も考えるものですねと感心していたら、そうではなかった。紫紺はあの後「大戦乱時代」と呼ばれた激動の時を経て、6つの大きな部族と1つの小さな一族を手に入れ…この大陸最大の覇者となっていた。そのうちのひとつ、魔法研究の得意な緑青一族というのが子を作り上げたらしかった。
つまらないなあ…私は繁栄する紫紺が見たくてここにいる訳ではないのに。
しかし、8体の子を面白がって見ていて私は驚愕に目を見開いた。
白縹!そして…緑青…
白縹はあの後紫紺に保護と言う名で大規模魔法を撃つ生体兵器として囲われ、飼われるという酷い扱いを受けているようだった。…しかしこの人数では…確かに彼らだけでは逃げ続けられなかったのかもしれない。紅蓮の悪魔も、これでは心残りでしょうにね…私にこの「母」の直感を授けてくれた彼も時を止めるなどという空恐ろしい魔法を使っていたけれど、彼は”自然の体現者”という白縹の中でも特殊な魔法使いだったらしい。しかし白縹の「子」をそれから何度覗いてみても自然の体現者が生まれたという記録は見つからなかった。…彼らがいれば、紫紺に飼われることなどなかったでしょう、残念です。
それと…緑青一族とはね。まさかヴェールマランを捨てこの地に移住していたとは思いませんでした。名はきっと…紫紺風に変えさせられたんでしょうね。ミアス兄様たちは大層立派に国を立て直して平和な国作りをしたようだった。しかし現在「マギ・マザー」と呼ばれている自律思考のマナの渦を手に入れた紫紺により攻め込まれ、あえなく敗戦の憂目に遭い…支配下に入ることとなっていた。
あはは、ほらね。あんな思考の渦を作れば当然の帰結でしょう。ごめんねミアス兄様、ヴェールマランを滅ぼしたのはあなたが愛してくれた弟の私です。ああ、おかしい。
もう一つ、興味深いことがあった。それは紫紺の分体にあった「禁忌扱いされている移動魔法」について。どうも…調べてみると、あの二つの移動魔法の石板はかなり面白い再会を果たしたようです。
私が牢獄へ持ち帰ったエステルの写し取った石板は、もちろんすぐに看守に見つかった。「長様へ献上いたします、長距離移動できる魔法の石板です」と言って私が渡したのだ。もちろん狂幻覚をもう見せないでくれと懇願するための賄賂のようなものだった。
ミアス兄様がエステルを連れ帰る際に使用した石板はそのまま伯爵家で保管されていた。さほど時を置かずに、なんとエステルが「処女懐胎」したらしい。伯爵家ではエステルが天啓を受け、この移動魔法と神の子を授かったと王家へ報告していた。もちろん石板は王家へ献上され、エステルとその息子は大層大事にされ…エステルは一生を処女のまま独身で過ごし、最期は息子に看取られてその生涯を終えていた。
そして私の作った石板はヴェールマランが緑青一族として支配下に入った際に、紫紺の長へ奉納された。…「奉納」ねえ、さすがあの無駄に重いオーラを纏う高貴な方々は言うことが違いますね。そして、それを奉納された紫紺の長はこれまた驚いたそうです。紫紺に伝わる禁忌の移動魔法とまるで同じ物が揃ったわけですからね。しかも紫紺の持っている石板は私が作ったと明確に記されている。
じゃあ、二つ目も私が作ったということが判明したのだなと思ったら。
「ヨアキムとエステルは兄妹で同時に天啓を受け、奇跡の魔法を人の世にもたらした」という、なんとも驚きのぶっ飛び論法で私とエステルを神格化させてしまった。…時の流れとは恐ろしいものだ。そして人々のロマンや伝説を好む傾向も。
それにしてもエステルが処女懐胎か…あれ、エステルって処女だったっけ?私が…いや、誰かに抱かれて痴態を晒していなかったっけ。しょうがないな、あの子は。昔からお転婆だったし、人の言うこと聞かないんだ。
でもそうか、生涯を独身で…処女のまま過ごした…そうなのか、エステル…
ああ、なんで涙が出るんだろうな、よくわからない。
君の息子にも会いたかったよ。
ああ、本当に…会いたかったよ、私の…君の子供に。
*****
それから私は微睡んでは母に蓄積された情報を覗き見て、「へえ」とか「ふーん」とか思いつつ過ごした。乾いた母の思考はアルカンシエルに強力な軍隊を発生させ、周囲に侵攻こそしないものの絶えずどこかと戦争している国へと育てている。そして魔法の言霊はヴェールマラン…いや、緑青の人々によってマギ言語として体系化され、研鑽の末に昔とは比べものにならない洗練された方陣を世に送り出していた。
そしてもちろん強力な軍隊…つまり大国アルカンシエルの威力保持に白縹は恐ろしいほどの貢献をしていた。そりゃそうですよね、一人であれだけの強力な魔法を撃てる人々なんですから。…でも自然の体現者が出現しないというのは、やはり人工子宮が原因なんじゃないんでしょうかねえ…それでも数人出現したか?と思うと白縹の「子」が恐ろしい施術をしては三人も殺してしまっていた。
…私は、きっとまだ狂っている。わかっています。ですけどね…これだけは未だに自分が正気だと思っている部分があるんですよ。それは「白縹にこれ以上酷い事をしたくない」という気持ち。よほど紅蓮の悪魔の件は「善きヨアキム」が後悔していたのでしょうねえ。この気持ち、本当は緑青や金糸雀にも持たなきゃいけないんでしょうけど。
だって、私から見た彼らは…矜持とか信頼とか…そういうものを持って、身一つで一族を宝玉狩りから守るために王宮まで攻めてきた。私はきっと、途轍もなく羨ましかったんです。誇り高く生きる彼らが羨ましかった。愛する者のために躊躇なく闘い、彼らは勝ちました。私?私は…愛する者を傷つけることしかしていませんよ。しかも私は愛してくれていた女を呪詛の道具にしましたよ。
ね?この黒い場所にぴったりでしょう。
*****
ある日…私の魂にすごい衝撃が来た。何かと思って飛び起きてみると、乾いた思考の紫紺の母が…書き換えられているところだった。
私は呆然と、その眩しいほどの光を見つめた。何という強力な意志が溢れているのか。魔法の言霊…いや、マギ言語が。古い私の狂気が作り上げた、乾いた核を破壊し、引き裂き、入れ替わり…
ああ、深い森が見える。岩を穿つ清流が見える。人が人らしくあるために。当たり前に生きていくことが難しいこの世界で、もがきあがいて必死に何かを掴もうとする強靭な意志。
私が欲しかったものが、ここに出来上がりつつある。
私はこの強烈な意志の光を浴びて、ようやく…正気に戻れた気がした。私がしてきたことの全て。私が思っていたことの全て。現実と幻覚。正気と狂気。その狭間で揺れまくって矛盾した思考を不思議にも思わず、この呪いの歌と黒い手の瘴気に絡め取られて、生きている人々の人生を金糸雀の歌劇のようだと嘲笑っていた。あの時お師様のことを餓鬼と嫌悪した私は、それ以下の汚泥としてここに居た。
ああ、もう何もかも遅いけれど。
何をどうやっても、700年もの時間の重みは取り払えないけれど。
津波のような後悔に飲みこまれていた私は、寝床にしていた黒い手がザワリと獲物を見つけたことを感じ取った。…なぜ?あの新しい母は生まれ変わった。この国を破滅させるどころか、本来の姿にするものであるはず。発動条件を刻んだ言霊を見てみると、どうも書き換え途中の構文に偶然キーワードと成り得る言霊が発生していたらしい。…まずいですね、このままではあの生まれ変わった母がこいつらに破壊されてしまう…
そこで私は、更に有り得ないものを見た。
紅蓮の悪魔…いや、違う。彼は…同じ瞳だけれど、彼は別人だった。なぜ、ここに私以外の魂がいるのか。まさか母へ直接乗り込んで書き換えたのか!?
黒い手がうぞうぞとざわめき、ピタッと彼に狙いを定めたのがわかった。私は懸命に抑えたが、700年ぶりに見つけた獲物に狂喜乱舞するこいつらを宥めるのは無理があった。
「逃げなさい…っ」
700年ぶりに人に聞かせようと発する声は、うまく大きくならない。
「すぐに、退避なさい…っ 厄災に襲われる前に…っ」
聞こえていてくれ、頼む。
またあの悲劇を私に見せないでくれ。
「この魔法は紫紺の倫理回路暴走時に自動発動します。今の書き換えを暴走と誤認し、発動スイッチが入ってしまった…押さえますから、すぐに退避を」
黒い手が、あの日のように彼を襲う。だめだ、やめろ!私の気持ちに反応して少しだけ反応が鈍くなるが、それでも止まらない。結界の言霊を放つ。どんどん放って、彼との間に立つ。無数の黒い手を止める術は、あの構文をどこかで焼き切るしかない。一番効果の高い場所を狙って阻害するための言霊を放つが、黒い手が払い落とす。
くそ…間に合え、飼い主に逆らうな、おとなしく焼き切れなさい!
黒い手の一本が、私の脇をすり抜けた。ゾッとして振り向くと、彼は紅蓮の悪魔のように、胸を貫かれていた。私は血の気が引くのを感じて…また守れなかったという情けなさに項垂れそうになった。
黒い手は歓喜に沸く。魂を手に入れた!早く魂を砕いて虚無へ攫え!と小躍りしている。それを見て、私にとても熱い感情が湧く…
私がこんなに怒り狂ったのは、一体何百年振りなのだ、と思った。
彼は胸に大穴を開けて倒れた。私の横をすり抜けた黒い手が、ホラ戦利品だ!と魂を仲間に自慢するかのように戻って来る。私は狂気を纏い、彼らの中にスルリと入り込み、私にも見せてくれと言い、ホラ!と口の中を見せられた瞬間に右腕を突っ込んだ。左手には緊縛の方陣を展開し、飲みこまないように縛り上げる。ジュウ、と嫌な音を立てて右腕が溶ける感じがしたけれど、私は痛みなどどうということもない。右手に彼の魂を包む結界方陣を維持しながら、溶けて骨の見えた右腕をズルリと引き出した。なんとか、彼の魂は取り出したけど…こいつらを野放しにしたら、また魂を奪いに来るだろう。焼き切ろうとするとさすがに防衛するから…それなら眠らせようと思い、効果は一時的だけれど眠らせることに成功した。
…どうしましょう。私に彼の魂を修復することなどできるだろうか…今わかったことだけれど、彼は白縹の「子」の施術を生き残った、自然の体現者…の、はず。施術された後で実力が発揮できていたかはわかりませんが。
逡巡していると、さらにもう一つの魂がやってきた。今日は何という日なのか。彼女は紅蓮の悪魔の仲間と同じように、乳白色の結界を纏って現れた。…白縹の「子」には記録になかったけれど、間違いない。彼女は自然の体現者だ。
彼女なら、この魂を救える!私はホッとして、声をかけようとした。…が、できなかった。
彼女は絶望していた。
紅蓮の悪魔が死んだ後を追った、あの彼女のように。
全身で「こんなのは嫌、彼を返して」と叫んでいる。
私はまた、罪を重ねたのだ。
とにかくこの魂をお返ししなければ。そう思って、溶けた腕を隠しながら彼女に説明して魂を手渡した。
「ヘルゲ兄さんの魂を取り戻してくれたことにはお礼を言うけど…彼をこんな風にしたことは一生恨む」
そう言って、彼女は彼を連れて…あの日の葬送の歌のように去って行った。
私は、彼女の言葉を聞いて安堵していた。ああ、正当な理由できちんと恨まれることがこんなにありがたいことだったとは。私は、エステルに恨むことも罵ることもさせずに逃げ出した。ミアス兄様や父様に迷惑と心配を掛けっぱなしで放り出した。自分の狂気に酔い、楽な方へ逃げ、ヴェールマランを滅ぼす原因を作り。
そのうちのどの大罪の報いも受けずにのうのうとこんな場所で微睡んでいた私は、本当に汚泥そのものです。
そう、700年の時間の重みは…汚泥になったくらいでは購えません。
だから、恨んでください、お願いします。
その報いを私に。