リトル・フライト
あらすじにも書いた通り、学校の文化祭に出したものの転載です。
短いものですが気に入っていただければと思います。
空が泣き出しそうだった。授業を聞きながら、私は次第に厚くなっていく黒雲を眺めていた。
(こりゃ降るな……。えーっと傘持ってたっけ?)
手に持ったシャーペンをくるくる回しながら、私はちょっと考える。
朝の天気予報では夜まで降らないと言っていたのに、ものの数分後にはぽつりぽつりと水滴が窓を濡らし始めた。
急速に白く霞んでいく世界を、ぼんやりと目で追う。小さな水溜まりがいくつも集まって大きな池を作り出す。溜まった水は流れになり、それもまた集まり川を作る。水はずっと見ていても飽きない。
「おい有馬。聞いてるか」
急に先生に声をかけられて私はびくっとした。まずいまずい、完全に聞いてなかった。慌てて姿勢を正し、板書に視線を向ける。
追いかけるようにノートをまとめ、授業が終わる頃にはなんとかきっちり終わらせられた。
帰宅しようとして、やっぱり傘を持ってなかったことを思い出した。どうしようかなと考えて、どうせこのあと用事もないし、弱まったところで帰れば大丈夫だろうと思った。
*
雨の様子を見ながら少し待ってみることにして、その間にお手洗いを済ませておこうと私はトイレに入った。私が個室の扉を閉めるのとほぼ同時に、他の二つの個室から人が出てきて楽しそうに話を始めた。
「――でさ、さっきの続きなんだけど」
「ああ、あの人のことどう思うかって?」
(この声……、木乃さん? もうひとりは誰だろう?)
「別に仲悪いわけじゃないけどさ、実を言うとあんまり好きじゃないかも。なんか自己中っていうほどじゃないけど、周りのこと気にしなさ過ぎって感じじゃない?」
私は思わず顔をしかめた。陰口は嫌いだ。醜い嫉妬と、汚れた共感。
「確かに。そんなところあるよねー有馬さんって」
……え?
「そういえばさぁ、小学生の頃の噂だけど、有馬さんがそのとき好きだった男子を雨の中連れ出して、しかもその子を置いて帰ってきた、みたいなことあったらしいよ」
「なにそれー! 意味わかんないわー」
「それで、その子そのあとすぐ転校しちゃったの。しかも有馬さん、その間学校休んでて謝ってないの」
「えー、かわいそう」
二人はぺちゃくちゃしゃべりながら遠ざかっていった。私はわけがわからなくて混乱していた。小学校から一緒で、ずっと仲が良いと思っていた木乃さんにあんな風に思われていたことがすごくショックだった。私は、しばらくの間トイレに座ったまま立ち上がることさえできなかった。
*
雨脚は少しも弱まっていなかった。むしろ強くなる一方だった。それでも、私は何も考えられず無防備に歩き出した。
すぐに髪が濡れ、服が重くなる。でもそんなことどうでもよかった。全身びしょ濡れになったって構わなかった。少し頭を冷やしたかったのだ。ちょうど人がいなくて良かった。少し早かったらたぶんまだたくさんの人がいただろう。
ぐちゃぐちゃとまとまらない思考につられて、私の歩みはすごく遅かった。
あんなこと聞かなければ良かった。ただ悲しくて、苦しかった。心の中がよどんでまともに考える余裕すらなかった。
でも、不思議と怒りは湧いてこなかった。たぶん明日になれば、私の心には小さなトゲしか残らないだろう。今と変わらない友人を演じる。それはさほど難しいことじゃない。
(あの噂……)
少し引っ掛かっていた。全然記憶になかったし、そもそも「私が好きだった男子」とは誰のことなのか。そんなこと忘れるはずないのに。おかしい。
小学生の頃……。
記憶はおぼろげであいまいだった。
(わからない……、何だっただろう……)
やがて頭がはっきりとしてきた。そして脳が感じている唯一の感覚、冷たいということが私の中の記憶を揺さぶり始めた。
――そう、あの日もこんな、雨の降る日だった。
*
私は泣き出しそうだった。体中びしょ濡れで、それがすごく嫌だった。隣にいる宗田くんは、雨雲をじっと見つめていた。私は、何か言わなきゃいけないような気がした。
「雨、止まないね……」
「うん」
雨はざあざあと降り続いていた。雨宿りを始めてからまだ少ししか経っていないはずなのに、それは果てしなく長く感じられ、このまま世界の終わりまで続くようにさえ思えた。
「ごめんね、宗田くん」
「何で謝るんだよ」
「だって私が」
「約束は二人でしたんだろ。別に有馬が悪いわけじゃない」
「でもこれじゃ帰れないし」
「そのうち止むさ」
まるで気にしていないような口振りだった。もうすぐ日が暮れて、そしたら真っ暗になるというのに。
「うぅ、びちょびちょで気持ち悪い……」
宗田くんは私のつぶやきを聞くと、ふいに着ていたTシャツを脱ぎ、固く絞って私に放った。
「な、何?」
「それで髪ぐらいは拭けるだろ、あんまきれいじゃねーけどさ」
「あ、ありがとう」
Tシャツからは、雨の匂いに混じってかすかに宗田くんの匂いがした。
この日に遊びに行く約束を持ちかけたのは私だった。少し離れたところにある公園で、一緒に紙飛行機を飛ばそうと思ったのだ。ちょっと高低差のある公園で、紙飛行機を飛ばすにはぴったりだった。なのに行く途中から雲行きはどんどん怪しくなって、とうとう飛ばし始める前に降り出してしまった。
もうそのときには濡れていたのだけれど、とりあえず雨の当たらない場所を見つけて止むのを待っていたのだった。
借りたTシャツを返すとき、宗田くんの上半身を直視してしまいそうで私は目をそらした。宗田くんは受け取ったそれをもう一度絞って、しわくちゃのままかぶった。その様子が妙にかっこよくて私はドキッとした。
「……紙飛行機」
「え?」
「紙飛行機、濡れちゃったな」
「うん。でもまた作れるよ」
「そっか。また、作れるよな」
「そしたら一緒に飛ばそ? 今度は晴れの日に」
「……そうだな」
それからしばらく二人とも黙ってしまい、私は一向に弱まる気配のない雨を眺めていた。
「あのさ、言わなきゃいけないことがあるんだ」
そう宗田くんが切り出したので私は少し身構えた。
「父さんの仕事の都合で、引っ越すことになった」
それでも、訪れた衝撃は小さくなかった。
「引っ越す……? 転校する、ってこと?」
宗田くんは小さく頷いた。そして、
「――」
宗田くんが最後、泣き出した私に何と言ったのか私は思い出せない。雨の中、私は泣きながら走って家まで帰った。母にはこっぴどく叱られ、しかもそのあとひどい風邪をひいて何日も寝込んだ。私がようやく学校に行けるようになった頃には、もう宗田くんはいなかった。それと同時に、私の記憶からも宗田くんは姿を消していたのだった。
*
数日経って、からっと晴れた天気の良い日に私は紙飛行機を飛ばすことにした。今さらこんな子どもじみたことするのには少々抵抗があったが、なんだかやらないといけないような気がした。
小学生だった私には大きく見えた公園も、今では小さく感じる。緩やかな坂を上がり、おもむろに白い紙飛行機を取り出した。
風は穏やかだった。私は紙飛行機を持ち上げ、そっと手首を振ってそれを宙に浮かべる。
その瞬間、宗田くんと過ごした、楽しかったこと、嬉しかったことが次々に通り過ぎていった。
あの日の私は宗田くんの気持ちなんか考えられなくて、ただ怒りをぶつけることしかできなかった。
(会いたいな……。ちゃんと謝りたいし)
もしも叶うなら、この気持ちが紙飛行機に乗って宗田くんに届いてくれればいいのに、と思う。
けれど小さな紙飛行機はなめらかに飛んで、坂の下にあっけなく着陸した。
私は何だか拍子抜けしてしまい、ぼんやりそれを眺めていた。
そのとき、誰かが私の紙飛行機をひょいと拾い上げたのに気づいた。その人を見て、私は思い出した――最後、宗田くんが言った言葉を。
「必ず、帰ってくるから」
ああ、私はどうして忘れていたのだろう。こんなに暖かい言葉なのに。
私は何も言えなくて、ただ顔をぐしゃぐしゃにして泣きそうな顔をしていた。
その人は笑った。
――ただいま、と。
〈了〉
『リトル・フライト』にお付き合いいただきありがとうございました。
よろしければぜひ、感想や評価をお願いします。
作者的には爽やかにまとめられて気に入ってるんですが、分かりにくいところとかあったらすみません。
ちなみにこの作品、文化祭では全然票が集まりませんでした(泣)
(かろうじて「先生賞」なるものをいただけましたが……)
【全面的に二次創作を許可:原作者を必ず表示】