幽霊女房
幽霊女房
(お焼香ってどうやるんだろう)
一平太は困った。
先にやった人のを見ようと思っていたら、どうやら喪主が最初にやるのらしい。
(通夜も葬式も初めてだからな)
人付き合いはカネがかかる。だから避けていた。
しかし今回は妻のものである。避けて通れないこともあるんだなあと一平太は痛感した。
お焼香のやり方がわからず、まごまごしていると後がつかえる。一平太は焦った。
まあ、こんな感じか。と、少し摘んで食べてしまった。あまり美味しいものではなかった。
隣の坊さんが妙な顔で見ていたようだが、一平太は気にしないことにした。
一平太の家の、狭い座敷に五六人おり、部屋じゅうに坊さんの、陰気な読経がこだましている。
なんとなく神妙な顔を作っていた一平太だが、正座をしていた足がしびれてきた。苦痛に歪みそうになるのをなんとかこらえる。
一平太は厠へ行くため、立ち上がった。足が少しもつれたが、ようやっと歩けるようになって、厠へ向かった。
用を足しているとき、一平太は考え事をしていた。
(やった。やっと死んでくれたか、あの鬼嫁め)
笑いがこみ上げてきた。手を洗いながら鏡を見ると、ニヤついている自分の顔がそこにあった。
いけないいけない。こんなときにニヤけていては。
ぱんぱん、と自分の顔をはたいて、神妙な顔を作ってから、座敷へ戻った。
このたびは、とんだことで。いえ、家内も皆さまに見送って頂いて喜んでいるでしょう。いや、あの、どうか、お気を落とさず。おれ……、あいや、あたし? あたしならこの通り元気、体が丈夫なだけが取り柄だから。あ……、はあ……。
噛み合わない会話をしつつも、通夜と葬式は無事にとり行われた。
その夜、一平太は寝床のなかで考えていた。
(喪中って、いつまでなんだろう)
まあ、いいか。忌中ということでしばらく仕事はしなくていいし、気楽なものだ。
そうして眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めると、一平太は驚いた。
「なんでおまえ、いるんだ」
「なんでってあんた、女房にいられちゃ迷惑なのかい」
一平太の妻が座敷にいたのだった。
「だっておまえ死んだじゃないか」
「死んだら家にいちゃいけないの」
いや……。一平太は黙り込んだ。
幽霊となってまでおれの前にあらわれるとあっちゃたまらない。
「なんとか成仏してくれねえかな」
おそるおそる懇願してみると、妻は、む、とした。
「あんたがだらしないから、心配でうかうか成仏なんかしていられないのよ」
そんな、と一平太は絶望的な気分になった。
「それより、お茶いれてくれない」
「茶ァ飲むのかい、幽霊が」
「飲んじゃ悪いのかい? いいから早くおし」
なんだか腑に落ちねえな、と思いながらもお茶を入れ、妻に出す。
「仕事してないの」
「うん」
「まったくあんたって人は。甲斐性がないんだから」
「いまは忌中だよ」
「それに部屋も、とっちらかってて。掃除くらいしなさいよ」
「昨日までばたばたしてたんだ。おまえが死んじまったから」
「人のせいにしないでよ」
無茶な。
生前と変わらぬ妻のかかあ天下っぷりに、また尻に敷かれるのかと一平太は心配になった。
その悪い予感は的中した。
翌日も、その翌日も、妻はずっと家にいるのだ。
飯でも作るかと台所に立つと、
「それ、米を炊くときはちゃんと見てなきゃだめよ」
と妻は座敷から注意する。
「わかってるよ」
「はじめちょろちょろなかぱっぱ」
「赤子泣いても蓋取るな、だろ」
「もう吹いた? 火加減は大丈夫なの」
「まだ水にも漬けてねえよ」
「ま。段取りが悪いわねえ」
「いま食うんじゃねんだよ」
「わたしが食べるのよ」
「食うのか」
「そう」
「飯を」
「そうよ」
「幽霊なのに」
「なによ、幽霊は食べちゃいけないって」
「ああ、わかったわかった」
仏壇に供えてある饅頭を持ってきて渡した。
(うまそうに食ってるな。またなにか言われると思ったが)
「じゃあ、わたし寝るから布団敷いてちょうだい」
「寝るのか。幽霊が」
「悪い?」
「いやでも、昼の日中だぞ」
「いいの。幽霊は夜行性なの」
都合のいい幽霊だな、と一平太は口の中で呟いた。
「あとね、わたし家事とかやらないから。死んだあとまでやるなんて、たまらないよ」
一平太は布団を敷いて、妻に声をかけた。
ありがとう、と妻は言って、布団にもぐった。
数秒後にはいびきをかいていた。
「一平太さーん。いるかーい」
その声で一平太は目を覚ました。
(なんだい、朝、早くっから)
「一平太さん。一平太さん一平太さん一平太さーん」
「聞こえてるよ。いま行くよ」
三和土のつっかけを履いて玄関の引き戸を開けると、ごん兵衛が立っていた。
「なんだ、いたのか」
「なんだとはなんだ」
「いえね、そこの三瓶さんが」
「玄関先で会うなり話しだすなよ。いいからあがんなよ、あんたもせっかちだね」
ごん兵衛はちゃぶ台のそばにちょこんと座った。
お茶を出し、一平太も座る。
「で、三瓶がどうしたって」
「おまいさんが、おかしいって」
「おれが? いきなり無礼だな」
「なんか一人で喋ってるって」
「ああ」
(そうか。あいつの声だけ聞こえないのか)
「大丈夫かい、一平太さん」
「大丈夫って、なにが」
「だから、頭が」
「おまえもなかなかどうして失礼なやつだね。大丈夫だよ」
「なら、よかった。じゃあこれで」
「おいおい、それだけかい」
「用は済んだから」
一平太が呆気にとられているうちに、ごん兵衛は帰って行った。
(こりゃ、気をつけねえといけねえな)
「おい」
「わたしはおいって名前じゃないよ」
「あのー……、話があるんで」
「なにさ」
「いや、たいしたことじゃあないんだが」
「奥歯に物が挟まったような言い方だね。はっきりお言い」
「おまえ、おれを……、あたしをとり殺しに来たわけじゃないのかい」
ははは、と妻は快活に笑った。
「そんなことをして、わたしになんの得があるっていうのさ」
「得……」
「殺しゃしないよ。もちろん、とって食うようなこともしない」
「そうかよかった。あと……」
「なに」
「あまり大きな声で話すと、よくない」
「ご近所さんのことかい。迷惑はかけてないだろう、わたしの声は聞こえないようだし」
「おれの頭がおかしくなったと思われるんでえ」
「いいじゃない。もとからおかしいんだから」
「そうかよかっ……、いやよくねえ」
「あまり大きな声を出すんじゃないよ。ご近所さんに迷惑だろう」
ふふん、と妻は笑った。
どんどんどん、という、玄関の戸を叩く音がした。
(今朝もまた誰か来た)
「あいよ。いま行くよ」
戸を開けると、三瓶が立っていた。
「おまいさん、大丈夫かい」
「頭なら大丈夫だよ」
「そうか、ならよかった」
そう言うと三瓶は、一平太がなにも言わないうちに座敷へとあがりこんだ。
しかたがないので、一平太はお茶を出す。
「なんだ出がらしじゃねえか」
「文句あんだったら飲まなくていいよ」
「飲むよ」
ずずず。うん、薄い。
三瓶はすでに足を崩しており、くつろいでいた。
「まさかなあ。おまえんとこの女房がなあ」
「ん」
「まさか、餅を喉につまらせて死んじまうとはなあ」
「運が悪かったんだ」
「まだ若ぇのによう。気の毒なこった」
「しかたないさ」
「でもよう、茶ァ、飲まなかったのかい」
「あんときかい」
「そう。ふつう、飲むだろ、茶ァくれえ」
「ふつうかどうかはしらねえが、あんときゃ茶ァきらしてたんだ。うちぁ貧乏だからよ」
「そうか。出がらしだもんな」
「そうだ」
三瓶は、ふうん、へえ、と言葉とも呻きともつかぬ声を発し、そしてまたお茶をすすった。
「じゃあこれで」
「これでしまいか」
「用は済んだから」
ああそう。
このへんのひとはみんなこんな感じだ。一平太は馴れていた。
じゃあ、と三瓶を見送り、一平太は座敷に戻った。
「ねえ、あんた」
妻は夜行性というだけあって、夜になると寝床から這い出してくる。
「なんだ」
「焼き魚、しょっぱいわね。塩をふりすぎなのよ。これじゃわたし高血圧で死んじゃうわ」
「もう死んでるじゃないか」
「それとねえ」
「まだなにかあんのか」
「あんたさあ」
「なに」
「なんで、わたしを殺したの」
一平太の背筋に、冷たい汗がつたった。
「なに言ってやがる」
「わたし、眠りながらお餅を食べられるほど器用じゃないもの」
「そりゃあおまえ、おなかすいてるかと思って」
「寝てるときに?」
「そうさ」
「あんたさあ」
「なんだ」
「借金、あんじゃないの」
「ばかな」
「じゃあこのお茶、どうしたの」
「買ったんだよ」
「お金、どうしたの」
「どうにかしたんだ」
「仕事してないじゃない」
「なんとかなったんだ」
「なんとかって」
「なんとかは、なんとかだ」
ふうん。妻は焼き魚をつついた。
おおい、おおうい、一平太さーん。
朝になり、家の前で叫ぶ声を、一平太は聞いた。
布団から出、ふと違和感に気づいた。
(あれ、なんだか今日は、具合悪いみてえだな)
外のやつは無視をして寝るか。
寝床へ戻ると、いま出てきた布団に誰かが臥せっている。
なんだ?
一平太は掛け布団をはいだ。
アッ、と息を呑んだ。
そこに寝ていたのが、自分だったからである。
(どうやら、おれは死んだらしい)
外では、まだ、一平太を呼ぶ声がする。
「あんたさ」
妻の声がすぐ近くで聞こえた。
「自分が病気で、いつ死んでもおかしくないって、わかってたのよね」
それに、と言葉を継いだ。
「借金を残してわたしをひとりにしたくなかった。そうでしょ」
一平太は無言だった。
「さっそくごん兵衛さんと三瓶さんがいらっしゃったわよ」
そして妻は、一平太の手をひいた。
仏壇には出がらしのお茶が備えられていた。
(了)