はりぼて天才の共鳴
割れんばかりの喝采が、劇場の高い天井を揺らしていた。
ステージの真ん中で頭を垂れながら、ジュリエット・ド・ヴァロアはひどく冷めた心地でそれを受け止めていた。
観客は涙を流し、彼女を神の申し子と称える。
だが、ジュリエットは知っている。それは彼女の音楽ではない。
ただ、世界を満たす美しい音の奔流を、自分の身体という弦、空洞という管を通して、そのまま右から左へ出力しただけ。
彼女のヴァイオリンには、美しい調和がある。しかし、ジュリエットという人間の魂は、そこには一滴も混ざっていない。
私は、神様が作った精巧なオルゴールと同じだわ、と賞賛されればされるほど、彼女の胸には、美しくも虚しい空洞が広がっていくのだった。
音楽の街グランヴェルを治めるのは、グランヴェル伯爵家である。
ジュリエットのヴァロア家も同じ伯爵家であるが、音楽の権威と言う点ではグランヴェル伯爵家とは比べ物にならない。
グランヴェル伯爵家はこれまで何人もの音楽家を輩出してきたし、音楽の発展のための活動に惜しみなく資金を投じるなど、その名声は揺るぎないものになっている。
ことに、当代のグランヴェル伯爵は音楽に対しての一切の妥協を知らず、特にその音を聴き分ける耳は卓越したものを持っているという。
伝説がある。
五十人からなるオーケストラの演奏を聴いた伯爵が、クラリネットの音の異常を指摘した。
総勢五十人が演奏をしていた。クラリネットの奏者だけでも、五人いた。
五人のクラリネット奏者のうち一人が、人差し指に治りかけの微小な切り傷を負っていた。
本人すら気づかぬ痛みが、音を歪ませたと伯爵は見抜いたのだ。
その怪物のごとき耳が、グランヴェルの権威だった。
そのグランヴェル伯爵邸の晩餐会にジュリエットは招かれた。
銀の食器が触れ合う音、貴族たちの洗練された笑い声。それすらもジュリエットの耳には、退屈な楽譜のようにつまらなく響いていた。
伯爵は彼女の演奏を至高の調和と絶賛したが、その肥えた瞳の奥には、どこか冷酷な値踏みの光がある。
この国において、音楽は家の格を決める武器のひとつだ。伯爵だけではなく、そこにいる貴族の誰もがジュリエットを見る。
誰もがジュリエットを値踏みする。
彼らが求めるのは、権威を飾るための最高級の道具だ。
平凡なヴァロア家に生まれた、突然変異の天才。
ジュリエットは、自分が檻の中の稀少種であると自覚していた。
「ジュリエットさまの音は、まるで天上の天使が歌っているようですわ!」
どこか空虚な気持ちを抱えたまま晩餐会をこなしたジュリエットは、食後サロンでリュミエール・ド・グランヴェルに誘われて菓子を摘まみながらとりとめのない会話に花を咲かせていた。
リュミエールはグランヴェル伯爵の実子で、グランヴェルの娘らしく様々な楽器をたしなむ。
どの楽器にも一定以上の才能を示したのは、さすがはグランヴェルの娘、と言えたかもしれない。
ただ、どの才能も決して飛び抜けてはいなかった。
もし、ジュリエットとリュミエールの生まれが逆であったなら。
ジュリエットは名門の集大成と称えられ、リュミエールは凡庸な令嬢として平穏に愛されただろう。
リュミエールは、屈託のない笑顔でジュリエットの手を両手で包み込んだ。温室の薔薇のように柔らかく温かい。
ジュリエットは、令嬢としての完璧な微笑みを仮面のように貼り付けて応じる。
「ありがとう、可愛いリュミエール。貴女にそう言っていただけて光栄だわ」
心にもないことを言った訳ではないが演奏と同じく、魂の乗らない口先だけの張りぼての会話。
その生ぬるい平穏を、それが切り裂いた。
————ギィ、と。
鼓膜を、そしてサロンの贅沢な空気を、物理的な暴力のように引っ掻く音が聞こえた。
ジュリエットの身体が、硬直する。
それは、彼女がこれまで聴いてきたどんな世界の美しい音の楽譜にも存在しない、ひどく歪で、荒削りな音だった。
世界のどこを探しても、こんな歪な楽譜は存在しない。強すぎる弓の圧力が、楽器の悲鳴となってサロンの空気を引き裂いていた。
焦り、恐怖、そして地獄の底から天を睨みつけるような、剥き出しの渇望が音からにじみ出ている。
「……あら? またあの子だわ。せっかくジュリエットさまがいらしているのに、お恥ずかしい」
リュミエールが困ったように眉をひそめる。
聞けば、父親が路地裏から気まぐれに拾ってきた、文字すら読めない平民の孤児なのだという。
路地裏で歌い、糧を乞うていた。その歌が、通りのグランヴェル伯爵の耳にまで届いたらしい。
楽器の腕は未知数だが、音程が完璧だったと伯爵は語った。
価値を示せなければ捨てる、と伯爵に言い渡され、指先を血に染めながら狂ったように弾いているのだ、と。
誰もが「耳障りな雑音」として聞き流すその音に、ジュリエットの魂は、激しく震えていた。
正しい音しか知らないジュリエットの世界に、初めて、泥まみれの「生きた人間の執念」が突き刺さったのだ。
美しいけれど空っぽな自分とは正反対の、醜いけれどぎっしりと中身の詰まった本物が、そこにあった。
結局、ジュリエットはその少女と顔を合わせることはなかった。
帰りの馬車の中、ジュリエットは自身の白い指先をじっと見つめていた。
痛いほどに脈打つ胸の奥。
曲とも演奏とも呼べないようなあの歪な不協和音が、耳から離れない。
激しい衝撃とともにジュリエットの心に芽生えたもの———自分にないものを持つ者への、激しい羨望と渇望。
その泥臭い感情の名前を、天上のはりぼてたる彼女はまだ、知らない。
音楽学院の入学式。新入生の列の中に、ジュリエットは「彼女」の姿を見つけた。
グランヴェル伯爵の養女、コレット。
あの夜、地獄の底から天を睨みつけるような凄絶な音を響かせていた、路地裏の飢えた獣。
ジュリエットは胸の鼓動を高鳴らせ、令嬢の完璧な微笑みを貼り付けて近づいた。
あの夜以来の邂逅が嬉しくてたまらない。
もう一度、あの剥き出しの音で震えさせて欲しくてたまらない。
彼女の音を、一刻も早く、一音でも多く聴きたい。
「はじめまして、ジュリエット・ド・ヴァロア様。お噂はかねがね」
コレットは完璧なカーテシーを見せ、お上品な、絵に描いたような令嬢の笑みを浮かべて挨拶をした。
その瞬間、ジュリエットの脳内は氷結し、次いでドロドロとした黒い不快感で満たされた。
違った。
あの音を宿す獣は、もっと攻撃的で、もっと理解不能な怪物でなければ嘘だ。
コレット・ド・グランヴェルと言う人間はそうであるはずだ。
ジュリエットはそう信じていた。
あの夜、顔合わせすらしていないのだから、はじめましてなのは正しい。
しかし、ジュリエットはコレットを知ったその日から、彼女のことを考えなかった日など一日だってなかったのだ。
会ったこともないのに作り上げられたジュリエットの中のコレットが、目の前の伯爵令嬢は偽者だ、と叫んでいた。
それでもジュリエットは笑顔を形作る。
想像とは違ったが、問題はないはずだ。
目的は彼女そのものではなく、彼女の奏でる音なのだから。
「ええ、よろしくね、コレットさん」
ジュリエットは微笑んだまま、コレットの顔をじっと凝視した。その瞳の奥に、かつてのギラギラとした狂気の残滓を探すように。
あまりの眼力の鋭さにコレットが小さく肩を震わせ、恐怖に顔を引きつらせたことには、天才はまったく気づいていなかった。
それからのジュリエットの学院生活は「コレットの査察」に費やされた。
コレットが実技試験に臨むときも、小さな発表会で弾くときも、最前列の中央、あるいは彼女の指先が一番よく見える位置には、必ずジュリエット・ド・ヴァロアの姿があった。
ジュリエットはただ、あの夜の「本物」をもう一度、飢えたように求めていた。
しかし、コレットが弓を引くたびに、ジュリエットの胸は激しい怒りで沸騰した。
確かに技術は見事だった。素人同然からたった一年で、ジュリエットの背中に迫るほどの指の運びは驚異的ですらある。
けれど、その音は徹底的に正解をなぞっただけの、冷たい音だった。
コレットの演奏を聴くたびに、コレットはそんな演奏はしないという思いばかりが募る。
コレット・ド・グランヴェルの演奏はジュリエットを満足させない。あまりにもつまらない演奏だった。
どうして、と言う気持ちが沸き上がる。自分と違って、コレットの演奏はもっと攻撃的だった。もっともっと濁っていた。はるかに渇いていた。信じられないほど、美しかった。
それなのに、どうしてわざわざジュリエットと同じような、ただ正確で美麗なだけの旋律を奏でている。
こんなもののために、コレットは指先を血に染めていたのか。
裏切られた、という身勝手な絶望がジュリエットの胸を焦がす。
演奏が終わるたび、ジュリエットは一切の表情を消し、無言でコレットを睨み据えた。
そんな音で満足しないで欲しい。目を覚まして欲しい。そんな気持ちを込めて。
だが、逆効果であった。
ジュリエットの頭の中からは、周りからどう見えるか、と言う考えがすっぽりと抜け落ちていたのだ。
グランヴェル伯爵家養女の元孤児。そんな好奇にも似た視線を集めていたコレットの演奏を、音楽の神に愛された天才が毎回欠かさず、必ず聴きに来る。
その演奏を一瞬でも見逃すまいとするかのように、熱い視線を向けている。
周囲は「天才ジュリエットが認めた才能」とコレットを囃し立てた。
だがコレットにとっては、弾くたびにトップの天才から呪詛のような視線を浴びる生き地獄だ。
その重圧に潰されかけた結果、失敗を恐れるコレットはより正確に、より美しく————ジュリエットの最も嫌悪する「精巧なはりぼて」へと上達していった。
「素晴らしい! さすがグランヴェル家に才能を買われた令嬢だ」
「なんと見事な技術。調和の取れた美しい演奏でした」
講師や他の貴族たちが口々にコレットを褒めちぎるたび、ジュリエットは周囲の人間全員に対して激しい嫌悪感を抱いた。
彼女に言わせれば、今のコレットの演奏は死骸そのものである。お上品なグランヴェルの名前に合わせて、一番美しい部分を削り落としてしまった、その残骸なのだ。
なぜ誰も、あの夜の、あの血の通った恐ろしくも美しい本物の彼女を求めないのか。
誰もコレットが劣化していることに気づかない、とジュリエットは思っている。
事実としては、コレットは音楽学院でもすさまじい速度で上達していた。一年も過ぎるころには、あるいは努力の積み重ねが天才に届くのではないか、と人々に思わせるほどに。
コレット自身が進んで劣化していっているようにしか見えないことは、ジュリエットを大いにいらだたせた。
誰にも気持ちを理解して貰えない孤独、そしていら立ちはジュリエット自身の演奏も少しずつ狂わせていた。
世界の美しさを奏でるオルゴールに、無自覚なトゲと歪んではいても渇望と熱が加わったのだ。
もちろん、周囲の大人たちはそんなジュリエットのドロドロした心境には全く気がつかない。
「ジュリエット様の演奏に、さらなる深みと凄みが加わった!」
「またひとつ神の領域に近づいた!」
などとさらに大絶賛したため、ジュリエットはますます世界への不信感を募らせていくのだった。
ジュリエットとコレットが音楽学院に入学して一年、グランヴェル伯爵家の実子で現在はコレットの妹と言うことになっているリュミエールが入学してきた。
学院生活に変化はあったものの、コレットの演奏は変わらなかった。
ある日、学院のサロンでコレットが演奏を行った。
授業での発表やコンクールと言ったものではなく、サロンでの演奏は集まっている学院生たちに自らの実力を見せる、と言った色合いが濃い。
コレットはリュミエールにねだられてヴァイオリンを手に取った。
優雅な空気の中、コレットが演奏している。
その音は相変わらず、完璧に調和しただけの冷たい死骸だった。ジュリエットは内心で奥歯を噛み締め、怒りを堪えていた。
ジュリエットは、周りはもちろん自身ですら気づかないほどに、限界に近づいていた。
その限界に、最後の一押しが加えられる。
「お姉様、素晴らしい演奏でしたわ!」
演奏を終えたコレットに駆け寄ったリュミエールが、無邪気に両手を叩いてコレットを賞賛したのだ。
その瞬間、ジュリエットの中で、何かが完全に弾けて飛んだ。
本物を知らない、他の人間ならいざしらず、コレットのあの音を知っているリュミエールが。
ジュリエットと考えを同一してくれるはずの人間が。
今の、あの、何の面白みもないコレットの演奏を、称賛している。
このままでは、コレットは本当にただの空っぽな人形で終わってしまう。自分と同じ。
それだけは、絶対に我慢が出来ないと思った。許せなかった。
激しい義憤と衝動に突き動かされ、ジュリエットはサロンに備え付けられていたヴァイオリンを手に取った。
備え付けだけあって手入れが行き届いていなかった。調律もとても完全とは言い難い。
構わなかった。ジュリエットが手に取れば、どう演奏すればその楽器の最高の音を奏でることが出来るのか理解できたが、そんなこともどうでも良かった。
ただ、コレットに伝えたかった。
聴いて欲しい。私の音を、ジュリエット・ド・ヴァロアの音を聴いて欲しい。
こんな音つまらないでしょう? 貴女はわかってくれるわよね?
願いを込めて、コレットが演奏したものと同じ曲を弾く。
ジュリエットが弓を引けば、狂っていた調律すらも美しい調和となり流れ出してゆく。
良く聴いて欲しい。これを目指すのが本当にコレットの道なのか。
貴女の音はこんなものじゃない、もっと濁っていた。もっと攻撃的だった。もっともっと、美しかった!
ジュリエットの演奏は、天賦の才に願いと祈りが重なった、あまりにも圧倒的なものだった。
ジュリエットの想いとは裏腹に、その演奏を聴いたコレットはあまりの圧倒的な格の違いと届かぬ高みに絶望していることなど、ジュリエットは全く理解出来ていなかった。
最後の一音を弾き終えたジュリエットは、コレットを見つめる。
顔色が悪い。
音楽学院で再会してから、ずっと貼り付いていたはりぼての仮面がはがれかけている。
ジュリエットは嬉しかった。
ついに、コレットがわかってくれた! と、そう理解した。
ジュリエットはかつてないほどに高揚した。
自分の気持ちが伝わるということは、こんなにも幸せなことなのか、と思った。
コレットに歩み寄る。
ジュリエットの表情は高揚と幸せとで自身の令嬢としての表情を崩しそうになるほど嬉しそうだ。
そうして、コレットに告げる。
「貴女のヴァイオリン、つまらないわね」
私が今演奏したものと同じで!
コレットは愕然として、言葉にならない声をもらしている。
響いている。ジュリエットの言葉がコレットに響いている。
やっと自分の言葉を聞いて貰える!
本当に嬉しくて、ジュリエットは言葉を続ける。
「正確な技術は悪くはないのだけど、そこには熱も渇望もないものだから、ヴァイオリンが泣いても笑ってもいないわ。見せかけだけで中身が空っぽ」
私と同じで! そうよね? わかるわよね?
だから、もっともっと本当に貴女を聴かせて欲しい!
それがジュリエットの願いだったのだ。
しかし、コレットが返事をする前に、横合いから声が入る。
「今の言葉、取り消してください。ジュリエットさま」
声の主はリュミエールだった。
邪魔をしないで欲しい。
今、わたくしはコレットさんと大事な話をしているのだ。
そんな気持ちがジュリエットの言動を鋭くさせる。
「あら、グランヴェル家の新入生さん? 挨拶の前に怒られてしまうなんて、わたくし何か悪いことを言いましたかしら」
今、ジュリエットの思考は邪魔をしないで欲しい。その一色に塗りつぶされている。
リュミエールなど、今はお呼びではないのだ。
コレットに、今こそ本当の自分を取り戻して貰わねばならないのだから。
しかし、リュミエールは止まらない。
「貴女は、神様から仕立てられた立派な靴をお持ちですわ、ジュリエットさま。だから、裸足で泥道を歩く痛みも、足の裏を血に染めて進む苦しみも、貴女にはわからない。……何も知らないくせに、お姉様の歩みを否定するな!」
その言葉は、ジュリエットの身体をその場に縫い留めた。
貴女にはわからない、何も知らない。
そうリュミエールに言われたことが、あまりにも意外だったからだ。
リュミエールだってあの日のコレットの音を聴いていた。
同じ家で暮らしてきたのだから、自分以上に知っているはずだ。
そんなリュミエールが今のコレットの音を称賛したからこそ、ジュリエットは許せなかったのだ。
わからないのは、何も知らないのはリュミエールの方ではないか、とジュリエットは思った。
リュミエールの言葉は、ジュリエットに届きはしたが、理解できるものではなかった。
「そういう考え方も……あるのかしら? けれど、わたくしはコレットさんのヴァイオリンは何度聴いてもつまらないなあ、と、そう思っていたのだけど」
こちらは学院に入学してから何度も聴いていたのだぞ、と。
リュミエールの知らないコレットの演奏を知っている。
コレットが演奏すると聞けば、他にどんな用事があったとしても必ず聴きに行っていた。
最初から思ってはいたが、何度も聴くたびに今のコレットの演奏はつまらない、との気持ちはどんどん大きくなっているのだ。
自分は、間違っていない。
ジュリエットは絶対の自信を持っていた。
しかし、コレットは厳しい視線をジュリエットに向けると、リュミエールの腕を掴んでひと言。
「もういいわ、リュミエール」
それだけを言ってジュリエットに背を向けた。
コレットとリュミエールのいなくなったサロンでジュリエットは。
貴女にはわからない。何も知らない。
リュミエールの言葉をもう一度、考えていた。
間違えていない、間違えていないはずだ。
……本当に?
小さな疑問が、天才の胸の内に芽生えていた。
……本当に? 天才の胸の内に芽生えた小さな疑問は、数日の間、ジュリエットの頭を激しくかき乱した。
学院の授業すら珍しく上の空で、ジュリエットは悩み続けていた。
何度考えても、どう考えても、あの綺麗なだけの音はつまらない。
絶対に正しい、はずだ。
しかし、コレットの悲しそうな表情と、リュミエールの怒りの言葉が消えない。
裸足で泥道を歩く痛み。足の裏を血に染めて進む苦しみ。
——知らない。天から降る音をなぞってきただけのジュリエット・ド・ヴァロアには、その痛みの正体など、何一つ分からなかった。
そこは、認めざるを得ないのかもしれない。
確かにその点において、ジュリエットは、コレットを知らない。
あの夜、屋敷の離れから響いてきたあの血の通った恐ろしいほどの音。
あれがもし、泥道を歩く痛みから生れたものだというのなら。
今の彼女がなぜ、わざわざ精巧で冷たいはりぼてを必死に身にまとおうとしているのか。
やはり、わからなかった。理解できなかった。
理解できないなりに数日考え抜いたジュリエットだったが、ついに答えらしきものにたどり着いた。
(そうよ。知らないのなら、知ればいいのよ! コレットさんの隣に行って、もっと彼女の音を近くで聴いて、そうしていつか、またあの最高に美しい濁った音を私のために弾いてもらうの!)
凡人の心情を欠片も理解していない天才は、数日の苦悩の末に、最高に前向きで、最低な方向に間違えた結論を導き出したのだった。
音楽学院の中庭にコレットとリュミエールが身を寄せるのを見つけたジュリエットは、嬉しそうに歩み寄る。
「ごきげんよう、コレットさん。それに、リュミエールさんも」
ああ、早く私の名案をコレットさんと共有したい。
練習の計画や、演奏会の段取りでたくさんお話したい。
ジュリエットの気持ちは逸るばかりだ。
ジュリエットの姿を認めたリュミエールが一歩前に出ようとするのをコレットが手で制する。
「……ごきげんよう、ジュリエットさま。先日は、私の妹が大変失礼な真似をいたしました」
その言葉に、ジュリエットはますます嬉しくなった。
コレットも「私の演奏はつまらない」と同意しているのだ。リュミエールの擁護は余計だったと、そう言いたいのだ。そうに違いない。
しかし、相手が先に謝罪を行ったのだ。伯爵令嬢として、ここは大人な対応を見せねばならない。
「いいえ、お気になさらないで。わたくし、あれからずっと考えていましたの。……確かに、リュミエールさんの仰る通りでしたわ。わたくし、貴女のことを、貴女のこれまでの歩みを何も知らないまま、その音楽のすべてを知ったような気になっていましたのね。本当に、浅はかでしたわ」
遺恨は解消された。内心のウキウキを令嬢の仮面で隠し、ジュリエットは本題を切り出す。
「ですから、わたくしコレットさんのことを良く知りたいなって、名案を思いつきましたの! コレットさん、しばらく一緒に練習をして、二人で演奏会をしませんこと?」
コレットは、どんな表情で、どんな気持ちで、どんな演奏を見せてくれるのだろうか。
それはここまでの灰色の学院生活を吹き飛ばしてくれるようなものになると確信していた。
しかし、コレットは即答しない。
視線をうろうろとさまよわせて、リュミエールに向ける。
ジュリエットはピンときた。
リュミエールさんが反対なさるかも、と心配していらっしゃるのね!
確かに、グランヴェル伯爵令嬢たるリュミエールが反対すればコレットとしてはやりたくても断らざるを得なくなるかもしれない。
しかし、これはコレットのためでもあるのだ。
そう思い、リュミエールに賛成してくれるように伝えようとしたジュリエットだったが、リュミエールは予想外の反応を見せた。
「まあ、ジュリエットさま! なんて素晴らしい名案なのでしょう! 世界で一番格好良いお姉様の音楽と、ジュリエットさまの音が重なれば、きっと至高の演奏になりますわ! 私も大賛成です!」
ジュリエットは一瞬でリュミエールを大好きになった。
先日の不和など幻だ。彼女もコレットの「本物の音」に魅了された同志だったのだ!
リュミエールに背を押され、コレットは嬉しさを噛み締めるように顔を引き攣らせ、何度も頷いてくれた。
伝わった。ジュリエットの祈りは、彼女たちに完璧に届いたのだ。
ジュリエットは、これからはじまるバラ色の学院生活に、深く胸を躍らせるのだった。




