五回目
一つ書き忘れていたことがありました。
明智光秀は山崎の合戦で敗れた後、現代の住所で言う処の京都市伏見区小栗栖まで行きます。そこで小栗栖城を本拠地とする飯田党に襲われて重傷を負い、それ以上の逃避行を諦めてその場で自害し、家臣の溝尾茂朝に首を家族の所へ届けて欲しいと頼んだそうです。
頼まれた茂朝は光秀の首を持って坂本城を目指したそうですが、途中で別の落ち武者狩りと遭遇してしまい、元来た道を引き返して結局、明智藪と言われている場所に光秀の首を埋め、茂朝自身もその場で自刃して果てたそうです。
詳しいことは Google Map を見て頂いた方が早いのですが、わざわざ小栗栖城の真横に埋めています。これでは「見付けてくれ」と言っているようなものですし、隠す気があったのか、疑ってしまいます。
翌日には光秀の首は発見されて秀吉の手元へと届けられたそうですが、例えば飯田尊継や飯田党を介して足利義昭、毛利輝元らが本能寺の変の黒幕、光秀を影で操っていたと言われる所以でしょうか。
もう一つ、小栗栖城の横に本経寺という日蓮宗の久遠山本経寺があります。
インターネットで簡単に調べたところに寄りますとこちらの本経寺は永正三(一五〇六)年に創建され、境内には万治元(一六五八)年から明治四〇年頃まで小栗栖檀林と言ってお坊さんの学校があったそうです。
今、小栗栖檀林は関係有りませんが、飯田党の小栗栖城と合わせて日蓮宗のお寺が明智藪の横にある、これは偶然なのでしょうか、それとも日蓮宗が本能寺の変に関わっていた証拠でしょうか。
日蓮宗と足利義昭、毛利輝元と黒幕が三者だったという説を立てることもできるでしょうか。
足利義昭と日蓮宗、いずれが黒幕であったにせよ、光秀が用済みになったから小栗栖へ誘い込んで殺したのか、それとも全てが偶然だったのでしょうか。
個人的には福屋隆兼へ手紙を出した後に心変わりしたと思っています。
元の上司でもある足利義昭から密書でも届いて信長を討つように頼まれたのか、誰かに騙されたと言う可能性もあるでしょう。
本能寺の変の時、光秀側の武士であった本城惣右衛門という人は「本能寺の場所も知らず、徳川家康を討つ」と信じていたと「覚書」に書き残しています。
当然なのでしょうが、光秀や重臣らが予定変更を隠していたことがわかります。
また徳川家康が京都周辺にいるという情報を持っていたことはわかります。実際にはこの時、堺の街を遊覧しており、落ち武者狩りを警戒しながら急いで三河国へ戻ったのは神君伊賀越えとして有名な話です。
しかし、この「本城惣右衛門覚書」が書かれたのは寛永十七(一六四〇)年で本能寺の変が天正十(一五八二)年に起きていますから単純に計算しても五十八年経っており、どこかに記憶違いの一つもあるのでは無いか、その様な意地悪なことも考えてしまいます。
ちなみに惣右衛門自身は本能寺の変については罪を問われることも無く、その後も主人を幾度か変えつつ、「覚書」を書いた時は越前松平家の家臣だったようです。
明智光秀には落ち延びて南光坊天海僧正として生き延びたという話も有りますが、家族や部下が犠牲となって一人だけ生き延びるというのは素直に喜べるのでしょうか。
金地院崇伝と共に黒衣の宰相とも言われ、徳川家康を支えた南光坊天海ですが、実は若い頃のこと、自分の生年や出身地などについては一切語らなかったことから明智光秀が生き延び、出家して江戸へ出て徳川家康に仕えるようになったと言われています。
天海の生年に関しては永正六(一五〇九)年、七年、八年、九年、十五年、享禄三(一五三〇)年、天文十一(一五四二)年、二十二年、二十三年説があります。
寛永九(一六三二)年に数え年で九十七歳との記録もあり、これを信じれば天文五(一五三六)年生まれとなります。そして寛永二十(一六四三)年に亡くなっておられるので百七歳、この時代で百歳を超えたのですからとてもお目出度いことです。
一方、明智光秀も生年に関しては永正十三(一五一六)年、享禄元(一五二八)年の二説があります。一年、二年の差ならば大したことも無いでしょうが、さすがに十二年の差もあるといずれが正確なのか、本人に伺いたくもなります。
天海の生年には永正六(一五〇九)年から天文二十三(一五五四)年まで説がありますが、この中に明智光秀の生年と言われる永正十三年と享禄元年が入り、こういう処から両者が同一人物と考えられるようになったのかもしれません。
明智光秀も生まれた場所は親に関する情報が全く残って居らず、足利義昭が京都から越前国の大名である朝倉家を頼った際、その地で光秀は義昭の家臣団に採用されたようです。義昭に仕える以前、光秀は朝倉家へ仕えていたのか、それとも求職活動中だったのか、その点も不明です。
しかし、教養人であったことと美濃国の守護である土岐氏の流れを汲んでいることだけは間違いが無いようです。正確な系図が出てこない限り、憶測だけになってしまうのでこれ以上は控えておきましょう。
私も本能寺の変の謎について長らく追い掛けてきましたし、一回は本能寺の変について短編を書こうと思ったこともありましたが、上手く書けなかったので今は諦めています。
その時に書こうとした内容は以下となります。
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織田信長が運良く本能寺から脱出、力なく歩いていたら顔見知りの商人に出会い、助けを求めるのですが、その商人が黒幕の一人で後ろから短刀で「グサリ」って感じで刺され、信長の死体はその場へ打ち棄てられると言う話です。
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もし面白いと思った方が居られたら私の代わりに書いて下さい。
信長が本能寺から逃れて後ろから刺されるって不謹慎な気がしたので idea note へ載せるのは控えました。
話が飛び飛びになって申し訳ありませんが、例えば織田信長を何らかの危機から救うため、明智光秀らが本能寺を襲ったことにして信長を保護し、どこか遠くへ逃げて貰ったとか、そういう話を書いた作家さんは居るのでしょうか?
信長の生年は天文三(一五三四)年なので南光坊天海の正体は信長だったとか、そういう話は出てこないのでしょうか。
今、大阪府岸和田市に本徳寺というお寺があります。この本徳寺には明智光秀の肖像画が残されており、このお寺を始めた南国梵桂さんが光秀の息子では無いか、その様にも言われています。光秀の肖像画が残っていると言うだけでも充分と怪しいのですが、真実はどこにあるのでしょう。
本能寺はたびたび火災に遭っていたので「本能寺」の「能」の字に「ヒ」が入っているのは「火」に通じて縁起が悪いとか、そう言う理由で「本䏻寺」と言う表記を使っているそうです。
Unicode の U+9FB1 で「䏻」が出ます。宜しければ試してみて下さい。
元々は「本應寺」や「本応寺」 と言う表記だったそうです。戦災などもあって転居を重ねて天正十年時点の本能寺は四代目だったそうです。
現在は五代目と言ったところでしょうか。
本能寺の変の後、数年経ってからですが、秀吉が新しい土地を用意し、その土地へ移転した先が現在の本能寺が建っているところになります。
秀吉が京都の街並みを大改造するとか、そう言う理由での移転です。
四回目に少し書き足す、おまけ的な感じで数行だけ書く予定でしたが、長くなりましたので「五回目」とさせて頂きます。
次回は少し間が空くと思いますが、気長に待って頂ければ幸いです。
引き続き日蓮宗や本能寺の話になるかもしれませんが、予定は未定と言うことでお待ち下さい。




