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四回目

Y:あのぉ。

T:はいはい。

Y:四回目ですよ、このシリーズも。

T:そのうちに終わるよ。

Y:いつですねん?

T:さぁ……

Y:まぁ、ええねんけど、前回の続きということで、宜しいか?

T:話は少しずれまして、今回はWikipediaにも載ってますけど、法華宗が関わっているとか言う説について語りたいんよ。

Y:どうぞ、ご自由に。

T:実を言うと、随分と昔に一回、調べたことがあるんですよ。それで、その時は安土宗論への恨みとか、そう言うのがあるのではないか、Wikipediaに書いてあるのと同じことが原因ではないかって感じだったんですね。

Y:いつ頃に調べたんですか。

T:二〇一一年に書いて、歴史雑誌へ投稿したんですよ。確か採用されたような、そないな記憶がありますよ。

Y:良かったやないですか。

T:当時、同じこと考えてる人がおるんか、それすらもわからんかったし、今、Wikipediaで日蓮宗主犯説が載っているんも知って、驚いとるよ。少なくともうち以外にも日蓮宗を疑うとる人がおるんやって、ちょっと嬉しくなったよ。

Y:良かったねぇ。

T:でも、日蓮宗主犯説って、実は調べたら意外と奥が深いんですよね。

Y:そうなんや。

T:まず予備知識として一言付け加えると、日蓮さんが始めたから日蓮宗なんやけど、仏教の経典って沢山ある中で、法華経という経典を一番重んじることから法華宗とも言われるんよね。

Y:知らんやったよ。

T:宗教に興味が無いと、そうなるよね。ちなみに比叡山延暦寺を中心としている天台宗も同じで、法華経を基本にしているんよ。それで日蓮さんも始めは天台宗のお寺で学んで、独立して自分の日蓮宗を起こしなすったんやな。

Y:確か、随分と苦労したとか、聞いたような……

T:あっちこっちに島流しにされとったような……、専門的に調べたわけやないから、詳しいは知らんけど、知りたかったら、自分で調べてや。

Y:面倒やから、無理!

T:その内に罰が当たるで。

Y:そない言わんと。それはそうと話を戻してくださいよ。

T:安土宗論が起きたんは天正七(一五七九)年の五月下旬やったんですよ。確か五月二十七日やったと。

Y:日付まで言われても知らんがね。

T:まぁ、あれですよ、安土宗論自体はそれこそWikipediaにも詳細が書いてあるから、読んだら済む話なんですが、簡単に話すと浄土宗のお坊さんで関東に住む人が安土まで来はって、街角で説法してはったわけですよ。

Y:説法してはったわけですか。

T:そこへ日蓮宗の信者である二人、お坊さんではない一般人の二人が当然なんやけど、浄土宗よりも日蓮宗の方が正しいでって言うて絡まはって、絡まれた側の浄土宗のお坊さん、霊誉(れいよ)玉念(ぎよくねん)って言う人なんやけど、お坊さん同士で宗論をしましょうって、提案するわけよ。

Y:そいで、日蓮宗の皆さんは、その話に乗ってまうわけやな。

T:そうなんですよね。浄土宗と宗論して負けてもうた日蓮宗からは、今でも信長のせいで負けた、もしくは最初から信長は日蓮宗を負かすつもりやったって、言われてて未だ信長は恨まれてはるんですよ。

Y:まぁ、しゃぁない話ですよな。

T:でもさ、本能寺も日蓮宗のお寺やし、妙覚寺もそうなんですよね。妙覚寺は信長にとっては嫁のお父ちゃんに当たる、斎藤道三のお父さんが若い頃に修行したとも言われとる寺やん。余計なことしたら、信長が後で怒られそうやん。

Y:家帰ってさ、嫁からボコボコにされる信長さんって、あんまし想像しとうはないよな。死んだお父ちゃんに顔向けでけへんやんかぁ~、って。

T:余計なことは考えんでもええけど、信長の家臣団にも少なからず日蓮宗の人はいたはずやし、内部から批判が出なかったんはなんでかね、そないも思たんですよ。

Y:あれやないですか、信長に刃向こうたら、バッサリ首を斬られるから、黙っとこうとか。

T:当時、日蓮宗って主に武士や商人に信者さんが多かったとか、どっかで読んだ記憶があるんよ。だから、信長の身近にいる人で誰か一人ぐらい、信長に愚痴を言うたとか、抗議したとか、そないな人が居るんやないかって思とってんけど、今の処、証拠の品みたいなんは出てきてへんのよ。

Y:そない簡単に証拠の品なんて出てこうへんでしょうに。

T:そうなんよ。なんか証拠の品が出てくれば、安土宗論に対する見方も変わってくるか、そない思とるんやけど、なかなか、ねぇ……

Y:仮になんか証拠の品があったとしても、四百年も前の話でっしゃろ。戦争やらなんやらで証拠の文書類も焼かれとる可能性もありますもんなぁ。

T:直接信長の家臣ではないんですが、加藤清正さんなんかは有名な日蓮宗の信徒さんなんですよ。あと、秀吉のお姉さんなんかも日蓮宗の信者やったって言うのは知っとるんですよ。

Y:他は?

T:残念ながら他の人は興味無いから調べてないんよ。ただこの二人は有名って言うのと、以前、別件で調べとった時に印象に残ったから覚えてたって言うんもあるんやけどね。

Y:変なことばっかし覚えてはるし。

T:ここで役に立つとは思わんやったよ。

Y:役に立ってるって言えるんか、これ。

T:宜しいがな。今ここで役に立ったんやから。その代わり、二度と使うこともないような豆知識なんやろうけど。

Y:そう言えば、当の本人、織田信長は仏教でどこの宗派とか、わかるんです?

T:本能寺にもお墓はあるんやけど、果たして日蓮宗の信者やったんか、これが怪しいんですよね。お墓って幾つか有って、臨済宗のお寺が圧倒的に多いんですよ。信長のお父さんの信秀さんは曹洞宗のお寺にお墓があるみたいで、さらにその前、信秀のお父さんが信定って言う人らしいねんけど、この人の宗派はわからんかったよ。

Y:残念でしたぁ……

T:でもさ、信長の曾祖父と言われている敏定、良信という二人が居るんですけど、この二人が清洲宗論って言うのに関わってるんですよ。

Y:清洲宗論?

T:文明十三(一四八一)年の具体的な月日まではわからんやったんですけど、清洲城の城内で本圀寺と久遠寺の宗論があったそうなんよ。両方共同じ日蓮宗やったらしいねんけど、なんか意見が合わへんかったんやろうな。織田家も日蓮宗の信者やったらしいねんけど、どっちが正しいかはっきりしてくれって、言うたらしくて、結果として本圀寺に軍配を挙げたとか、そないな話が有るから、信長のひいおじいさん辺りでは、日蓮宗の信者さんやったんよ、と、言えるんよね。

Y:人が集まると、何かと揉めるもんねぇ。

T:余計なことかもしれませんけど、日蓮さんが入寂しはった時に、六人の弟子に後を任せたんですよね。その六人がそれぞれ各地へと散っていって、それぞれに日蓮さんの後継者を名乗ったのはええねんけど、そこから世代を重ねていくと、我こそは正統みたいな人が増えていって、ややこしいことになるんですね。

Y:考えたらあれですよね。西洋史の授業でキリスト教もローマ=カトリックとプロテスタントで戦争になったとか、習たやないですか。あと、イスラム教も二つに分かれて揉めてたやん。

T:大体あれですよ。そこに世俗の権力争いも入ってくるから、純粋な宗教的な論争とは違うんですよね。王様とか、貴族とか、商人とかが絡んでるからね。

Y:そうやったっけ。単純にカトリックとプロテスタントが争って戦争になったとか、そないな話や無かったですか?

T:学校の教科書で長々とカトリックとプロテスタントの因縁を書いとったら、本一冊分になるから一ページかなんかにまとめてはるんやんか。

Y:本一冊分かぁ……

T:図書館行ったら、なんかあるやろ。

Y:また、本読めぇ言い出した。

T:今、キリスト教の話はどうでもええよ。

Y:日蓮宗の話でしたよね。

T:何をどこまで話したんか、わからんようなったやんか。

Y:信長のひいおじいさんが、日蓮宗の信者さんやったんやないかってところで止まってますよ。

T:信長は比叡山延暦寺、天台宗とも戦いましたし、高野山の真言宗とも戦ったし、浄土真宗とも戦ったやん。

Y:色んな宗教と戦ってますやん。

T:だから、日蓮宗と戦いになっても、信長も困らんやろうとは思とってんけど、一方で敵が増えたら面倒も増えるだけやろうし、どないするんやろうとは思うよ。

Y:京都に行ったら、日蓮宗のお寺から宿泊禁止って言われても困るやろうな。

T:今、思い出してんけど、松永久秀も日蓮宗の信者やったよ。

Y:あぁ、あの、裏切り者の代表みたいな人な。

T:そないなこと言うたらあかんよ。あと、松永久秀の元上司である、阿波国の三好一家も日蓮宗の信者として有名で、天正三(一五七五)年に阿波国を日蓮宗以外認めないとか、そういう政策を始めたんですね。これを阿波(あわ)(まる)法華(ぼつけ)って言うんですよ。残念ながら翌年には三好一家が戦争に負けてもうて、この阿波皆法華も終わっちゃうんですよ。

Y:残念というか、なんというか……

T:弘法大師空海さんが讃岐国の出身と言うことで、元々真言宗の信者さんも多かったしで、反発も大きかったみたいですよ、阿波皆法華は。

Y:いきなり無理強いしたら、反発も大きいでしょうね。

T:一方で、単純に比べると駄目なんでしょうけど、北陸の加賀国では浄土真宗の人らが約九十年、支配してはったし、大和国は興福寺が中心となって支配していたとか、前例が無いとは言えんのよ。

Y:日本にも宗教都市みたいなんがあったんやね。

T:本願寺がそれに値するかな。今、大阪城が有る位置に石山本願寺って言うのがあって、ここが浄土真宗の本拠地やったんですよ。お寺を中心としてたくさんの人が住んどったんよ。

Y:まさしく宗教都市!

T:それで、話を戻しますけど、安土宗論ですよ。安土宗論があったのは天正七年の五月二十七日ですやん。

Y:そうでしたね。

T:実は武田信玄が天文十六(一五四七)年に領内で日蓮宗と浄土宗の宗論を禁止してはるんですよ。

Y:ここで武田信玄出てくるんですか。

T:信玄と信長って利害が一致してた頃は仲良かったんですよ。戦国時代って今と違て政教分離ができてないから、仏教や神道にも気を使わなあかんかったんですよ。武田信玄は仏教と神道、均等に扱ってはって、その中でも「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名な恵林寺はちょっと贔屓にしてはったみたいですけど。

Y:そうなんや。それがここで関係有るんかいな。

T:武田信玄は宗論を止めてるんやから、信長は自分も止められるんやないか、そない思たんや無いかな。

Y:そっちや無うて「心頭滅却すれば火もまた涼し」って聞いたことあるけど、なんやった?

T:あれですやん、織田家の軍勢が武田家を滅ぼそうとしたまさにその時、恵林寺のお坊さんらが誰かをかくまったんやな。そいで恵林寺は火ぃ着けられるんやけど、そん時に「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言うたんが、恵林寺の快川(かいせん)紹喜(じようき)って言うお坊さんなんよ。武田信玄に対する恩もあったんやろうけど、ある意味、壮絶な最期ですよ。

Y:考えたら、信長は本能寺で焼かれてはるやないですか。

T:それを言うたらあかんって。今頃、あの世でどないか思てはるんやないか。

Y:そうやろか。でも、信玄が止めれた宗論を信長が止めれんやったら、気にするんやろうな。

T:実際に気にしたんかどうかは記録が無いから、何とも言えへんけど、イラッとはしたんやないか、そう思てるんよ。この安土宗論の時、「信長公記」っていう信長側の記録では浄土宗は信長に従うって言うたんやけど、日蓮宗の方は宗論に乗り気やったって。

Y:武田信玄の時と、何が違たんやろうなぁ。

T:安土宗論の時、日蓮宗の方は日珖(にちこう)日諦(につたい)日淵(にちえん)という三人のお坊さんが出席してんけど、この中で日珖さんが特に宗論が好きというか、得意というか、頻繁に行ってはったんよ。

Y:あれ、まぁ……

T:阿波国の三好家を日蓮宗に改宗したんも日珖はんやし、阿波皆法華の際も真言宗と浄土宗のお坊さんと宗論して勝ってはるし、当時の日蓮宗では頭も相当良かった人みたいやったけど、信長の怖さには気ぃ付かんかったんやろうなぁ。

Y:浄土宗と日蓮宗の両方が宗論やめますって言うとったら、信長も満足してたわけやな。

T:そうやと思うよ。でも、もう一つ気になることがあるんよ。

Y:まだあるんかいな。小出しに次から次へと出しないや。

T:安土宗論があったのは天正七年の五月二十七日やったやないですか。

Y:日付まで覚えてへんよ。

T:「天正の盟約」って言うのがありまして、天正三(一五七五)年八月に当時、京都に在った十五のお寺、日蓮宗のお寺が集まって、話し合って決めるんですよ。

Y:何を決めたんよ。

T:簡単に言うと宗論を控えましょう的な話なんよ。全部で五か条なんですけど、他の宗派との宗論はやめましょう、宗論する時は皆で相談しましょう、そういう感じなんよ。だから、安土宗論の時、参加した人らは誰かと相談したんか否か、そこは気になるんよ。当然、誰が出席するとか、相談して決めたんやろうけど、どこでこないな結果になったんか、今一つわからへんのよ。

Y:どういうことよ?

T:上手いこと言えへんねんけど、まず宗論に参加した日珖、日諦、日淵の三人は詫び証文を書かされて、追放されて、最初に霊誉玉念に宗論を吹っかけた大脇伝介と建部紹智の二人は余計な議論を吹っかけたという理由で死罪、それから普伝というお坊さんも死罪になってはるんよ。

Y:その、普伝さん可哀想やん。

T:調べたら、普伝院(ふでんいん)日門(にちもん)と言うんが本当の名前らしくて、元々は日蓮宗では無かったようやんよ。

Y:ほぉ~。

T:今回、調べとったら永禄十一(一五六八)年辺りに日蓮宗へ改宗したとか、出身地は肥前国とかはわかって、あとは安土宗論の時点でそこそこ高齢やったんやないか、それぐらいかな。

Y:高齢やとか言う理由で、斬られたんやったらなおのこと可哀想……

T:も一つわかったんは京都の日蓮宗十五か寺の中で十三の寺が賠償金を払っとるんよ。なんで十三の寺なのか、そこまではわからんかったけどさ。

Y:でも、賠償金を支払ったってことは、やっぱり十五のお寺さん、宗論に積極的やったってことやろか?

T:そこがわからないんですよね。単純に宗論を止めなかった責任を問われたんか、今あんたが言うたように、宗論に積極的やったんか、そこはわからんかったよ。

Y:なんか当時の手紙とか、なんかは無かったんか?

T:日珖さんは「己行記(みこうき)」っていう日記かなんかを残してはって、そこに安土宗論に参加した前後のことを書き残してはるんやけど、この「己行記」の詳細は得られんやったよ。

Y:残念。

T:もう一人、日淵さんも「安土問答実録」って言うのを書き残してはるんやけど、これも読むことはでけんやったよ。名前だけ知っとるみたいな感じかな。

Y:も一つ残念。

T:仮に積極的に関わっていたんやったら、賠償金だけで済むんかなって思うし、無理に止めなかったのか、どっちかなんやろうとは思うんよ。もしくは日珖さんら三人に最終的な判断を委ねた結果、三人は宗論します言うて、負けになったんやないか、そないにも思うし、結局、答えは見付けられんかったよ。

Y:残念でした。

T:まぁ、でも、ほんまに日蓮宗が本能寺の変に関わっとったら、どこかに証拠の文書が残っていそうやけど、残さなかったのか、残らなかったのか。

Y:やっぱり関わってなかったんやないか。

T:それが一番答えとしては、楽でええねんけど、それでも本能寺の変が突発的な印象は拭えへんし、もしかすると日蓮宗の誰かが光秀を騙して、本能寺を犠牲にして安土宗論の仕返しをしたとか、そないにも思てんけど、本能寺一つを犠牲にするだけの価値があったのか、そこは疑問として残るよね。

Y:そう言えば、信長の跡継ぎの信忠は妙覚寺に泊まってましたやん。そっちはどうなったんよ?

T:妙覚寺は燃えなかったそうで、それはそれで良かったんやけど、本能寺と妙覚寺の二つの寺が犠牲になったとしても、安土宗論で負けたことに対する恨みを晴らせたんか、気になりはするよ。あくまでも日蓮宗が本能寺の変に関わってた場合やけど。

Y:関わってなくても、信長が本能寺の変で無くなった時、どないな感想を持ってたんやろうか?

T:言われたら、その話も無かったなぁ。日蓮宗側の感想みたいなんは見付からんやったよ。

Y:余計なことは言わん方がええとか、そないな感じやろうか。

T:それもあったかもね。

Y:結局、答えは見付からんまま、今回も終わるんやな。

T:最後にもう一つ、宜しいか?

Y:まだなんかあるんかいな。

T:浄土真宗の話なんやけど、薩摩国の島津家なんかは浄土真宗嫌いやって、明治まで島津家の領内で浄土真宗を許さんかったって。

Y:それは知らんやったよ。

T:それでも、島津家の領内に僅かながらに浄土真宗の信者さんも居ったようで、こっそり受け継いではったとか。

Y:それ、隠れキリシタンと一緒やん。

T:あれこれ調べとったら偶然、見付けた話ですけどね。

Y:さすがにもう終わるやろ?

T:はい、これでおしまいです。

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