三回目
Y:あのぉ。
T:はいはい。
Y:と、言うわけで、三回目、です。
T:前回の続きで、fack youの続きですね。
Y:あんたは何を言うとるんよ。ちゃうよ、ちゃうちゃう。あんたがそないな事言うたら、誰も止める人おらんよ。
T:あんたが止めてくれるやん。
Y:数少ない常識と良心が音を立てて瓦解していくよぉ~
T:そないなもん、うちらの間に存在したんか?
Y:真面目に話の続きをお願い致します。
T:なんの話やったっけ?
Y:ボケんでも宜しいがな。真面目に話の続きをお願い致します。
T:まるでコピペみたいにおんなじ事繰り替えさんでも、大丈夫でんがな。
Y:ほんまかいな、不安しかないよ。
T:で、なんやったっけ。
Y:もう宜しいわ、帰ろ。
T:はいはい、続きで、本能寺の変の直前、光秀にまつわる手紙の話ですが、長宗我部元親さんはわかりますよね。
Y:四国の人でしたよね。確か、土佐国の戦国大名やった、と。
T:織田信長と長宗我部元親って最初は仲良かったんですよ。でも、信長の勢力が大きいなって行くんと、元親が四国をほぼほぼ支配下に納めた時に、両者の利害が噛み合わんようなって、天正八年辺りから仲悪うなるわけですよ。
Y:世の中、上手いこといかんもんですなぁ。
T:それで、完全に決裂してもうてやな、天正九年に信長は四国を攻めようと、なるわけですよ。
Y:ありゃぁ……
T:それで、天正十年の正月十一日の日付で斎藤利三は元親に宛てて手紙を出すんですよ。
Y:色んなところで、斎藤利三って名前出てきますよね。
T:まぁ、主犯説の人ですから……
Y:それで、手紙の中身は?
T:それはですね、元親に向けて、信長の指示通り土佐一国と阿波国の南半分で我慢しなさいよって、書き送ってるんですね。その後、手紙のやりとりがあったのか、そこはわからんのですけど、五月二十一日付の手紙があって、元親が信長の出した条件を呑むから、その事を信長へ伝えて欲しいと、利三に宛てて手紙を書いてはるんですよ。
Y:五月二十一日と言うことは、本能寺の変のほぼ十日ぐらい前ですな。
T:今と違て、郵便局も無いし、手紙を持った使者が船に乗って大坂辺りに上陸して、利三の手元へ手紙が届いて、それをさらに明智光秀が目を通して、信長に伝えたとして、何日かかるか。
Y:何日かかるんでしょう?
T:それこそ、船次第でしょう。この時代の船って風待ちとか、波が高いとか、色んな理由で船が港で何日も待機するって事があるんですよ。
Y:大変なんやなぁ。
T:今、四国からの郵便物でも翌日には大体届きますやん。
Y:便利な時代ですよねぇ。瀬戸大橋もあるし、しまなみ海道もあるし、大きな船が夜中でも荷物運んでますもんね。
T:話を戻しますけど、元親の出した手紙が利三に届いて、それが信長に伝えられたとしても、おそらく無視されたか、もしかすると届かなかったか、その辺りはわからへんけど、どっちにしても開戦直前まではいってましたよね。
Y:結局、信長が死んだことで四国攻略は無くなったんやな。でも、開戦しとったらどないなってたんやろうな。
T:地の利があるという意味では、元親側が有利でしょうけど、信長の方がありとあらゆる手で攻めてきそうやから、長期戦になった時に、どっちが先に音を上げるか、それを考えたら信長が有利かなって思うよ。
Y:そうやろうか。
T:この時、信孝は確か一万四千人ぐらい集めとったんよ。これで足りるかどうかは別として、仮に不足しても、信長がどっかから集めてきそうやし、徳川家康もこの時、暇やったからあるいは呼んでくる可能性もあるやん。あくまでも個人の推測やけどな。
Y:お父ちゃんが信長やったら、なんでもありそうやけどなぁ。
T:のちに秀吉が四国攻略する時は、十万人以上を動員しとるんですよね。
Y:なんか、凄い数字が出てきたよ。
T:秀長が総大将となって四国に行くんですけど、他に毛利家なんかも伊予国から攻撃に加わってはるし、長宗我部側はあっちこっちに兵力を分散せなあかんかったから、対応に追われて降服したんやな。
Y:そうなんかいな。
T:土佐国に秀長の軍勢が入って、血みどろの合戦とかしとったら後片付けが大変やったやろうけど、土佐一国が無傷で残ったんやから、良かったんやないか。
Y:信長やったら、元親の城とかも潰したんやろうか?
T:三月に武田家を滅ぼしたばっかしやし、無茶苦茶にされるって言う恐怖があったのかもしれへんけど、それにしてもこのタイミングで信長の出した条件を呑むと言い出したのか、それは気になるところですよ。
Y:なんか、裏で脅されとったとか?
T:秀吉の方が遙かに大軍やったのに、そっちでは徹底抗戦を決め込んで、非道い目に遭ってはるやん、元親さん。何か見誤ったんやろうな。
Y:話がこのまま、元親さんの話に行きそうやな。
T:話を戻しますと、前回気にしていた信長の言うた「やんごとなきこと」が四国攻めに関することやったんか、別件やったんか、そこが気になっているんですよ。
Y:結局、なんもわからへんまま終わるんやな。
T:少なくとも光秀は直前まで謀反を起こす気が無かったのは、前回にも話した、五月二十八日に福屋隆兼に手紙を書いてはるやないですか、光秀は。だから二十九日以降に何かがあったんやろうし、本当に斎藤利三が主犯であったとしても、それを止めなかった明智光秀がいるわけで、二人の利害、または明智光秀とその家臣団に影響のある何かが二十八日、二十九日にあったんやろうとは思えるんよ。
Y:でも、それが何かがさっぱりわからへんのでしょ。
T:わかったら苦労せぇへんし、そもそもうちみたいな素人がネタにして喋らへんがな。
Y:そりゃそうだ。
T:織田信長はさ、明智光秀に出兵を命じてはるけど、合わせて細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀、筒井順慶にも出陣を命じてはるんよ。この顔触れを見ると武田攻めの時を思い出すんよ。
Y:どういうことでしょうか?
T:本能寺の変が天正十年の六月ですけど、この年の三月に甲斐の武田家を滅ぼしているんですけど、この時、明智光秀はさっきの細川、池田、高山、中川、筒井らを組下に従えて出陣してはるんですよ。
Y:それが本件とどない繋がるんですか?
T:天正十年の武田攻めって総大将は信長の嫡男信忠で、信長は後詰めみたいな感じで光秀率いる軍団に守られて、信忠の後ろをゆっくりと移動してたんですよ。だから、本能寺の変が無かったら、光秀の部隊が信長を守りつつ、秀吉のいる備中高松城まで行っていたのか、それとも別行動だったのか、細川忠興らとはどこで合流する予定やったのか、亀山城を出発した時点で本能寺を襲う予定やったのか、ほんまに謎だらけですよ。
Y:結局、答えは無いんですよね。
T:答えは専門家の先生が出して下さるまで、お待ち下さい。
Y:そないな締め方あるかいな。
T:でも、本能寺の変が起きた時、細川忠興も筒井順慶もまだ自分の領地にいたわけやから、光秀は先発隊だったのか、命令無視やったんか。気になりませんか?
Y:どないでもよくなってきたよ。
T:そないなこと言わんと。信長はさ、本能寺に来た時、二十人から三十人ぐらいの小姓を連れていたぐらいで、ほとんど無防備な感じなんですよ。さすがにそれで岡山まで移動するとは思えないし、安土城から京都までなら自分の安全圏で名実共に身軽な格好で移動してきたんやと思うんよ。姫路城辺りまでは秀吉の管轄やから、その人数で移動しても誰かに襲われることは無いやろうけど、信長にしてみれば姫路城の方向へ行くのは初めてやろうし、自分の威厳みたいなんを見せ付けるには一万とか、二万の大軍を率いている方が良かったんやないか、そないにも思うんですよね。
Y:それで細川さんらが信長を守っていくとか、そないな感じなんか。
T:おそらく武田攻めの時と同じで、光秀が中心となって信長の護衛を務める予定やったんやないか、そない思うんやけど、確証はないよね。
Y:結局、「やんごとなきこと」はどないなるんよ。
T:全く関係なかったのか、それとも歴史番組の推測は当たっとったんか、ほんまに気になるところですよ。
Y:それで、この話はまだまだ続くわけですな。
T:はい。続きます。




