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初夢案内人はこたつ精霊—夢の迷い子を朝ごはんで現実に帰す—

作者: 星渡リン

 元旦の朝は、音が少ない。

 雪国の宿場町ユキナワでは、それがいちばん分かりやすい。屋根から落ちる雪の重みが、夜のうちに小さな声を全部押しつぶしてしまうのだ。残るのは、遠くの川が凍りきれずに息をつく音と、煙突から立つ白い湯気が空へほどけていく、静かな動きだけ。


 コハルは宿「ハルミ屋」の台所で、釜の火を確かめた。

 薪がぱち、と乾いた音を立てる。炎はまだ目覚め切っていないのに、鍋の底をなでるように熱が回り始め、薄い出汁の香りがふわりと鼻をくすぐった。昆布と干し椎茸の甘さ。そこに昨日から仕込んでおいた鰹節の名残が、すこしだけ海の匂いを足す。


 正月の朝は忙しい、と昔は思っていた。

 宿には旅人が来るし、町の人が挨拶に寄る。餅を焼く音、皿を重ねる音、笑い声。

 けれど今年は、そういう賑やかさがまだ戻ってこない。


 父は去年の暮れに、仕入れのために隣国へ出たままだ。戻ると言っていた日を過ぎても、便りはない。

 母は十年前に亡くなった。

 宿は潰さない。潰したくない。だからコハルは、笑顔の作り方を覚えて、火の扱い方も覚えて、帳簿の数字の並べ方も覚えた。


 それでも――元旦の朝だけは、覚えたはずの手順の隙間に、静けさが入り込む。

 台所の湯気がいくら立っても、心の奥にだけ残る冷えがある。


 コハルは湯気の向こうにある居間の方へ目をやった。

 そこには大きなこたつがある。ハルミ屋の冬を支える主役で、客が一度入れば抜け出せなくなる魔物みたいな家具だ。布団は厚く、縁はよく撫でられてすり切れている。角には、みかんの籠が置かれている。


 「……おはよう」


 誰にともなく小さく言って、コハルは居間へ行き、こたつ布団を整えた。

 布団の内側は、夜の名残のぬくもりをまだ抱えている。手のひらにじんわりと熱が染みて、少しだけ救われた気がした。


 そのとき。


 布団の奥で、もぞり、と何かが動いた。

 みかんの籠が揺れ、ひとつ転がり落ちそうになる。


 「……え?」


 コハルが布団をそっと持ち上げると、こたつの暗がりから、白い毛玉のようなものが顔を出した。小さくて、丸くて、ふわふわで――目だけがやけに利口そうに光っている。


 「寒っ……。おい、布団の角、もっと寄せろ。風が入るだろ」


 毛玉が喋った。


 コハルは一瞬、息を止めた。

 こたつ精霊コタ。――ハルミ屋に昔から棲みついている、冬の守り神みたいな存在だ。普段は気配だけで、湯気が濃い夜にたまに鈴のような音を鳴らす程度。喋るなんて、聞いたこともない。


 「……コタ?」


 「他に誰がいる。正月の朝は忙しいんだ、こっちも」


 コタは不機嫌そうに鼻を鳴らし、こたつの中へ潜り直そうとして――また布団を押し上げた。


 今度は、毛玉ではない。

 小さな足が見えた。裸足で、指先が薄紫に冷えている。


 「……っ!」


 コハルは布団を一気にめくった。


 こたつの中に、子どもがいた。

 歳は七つか八つくらい。薄い寝間着のような服。頬は冷たく、睫毛に水気が残っている。泣いたあとではない。泣く前の、声が出ない凍え方だ。

 子は目を開けてコハルを見上げたが、焦点が合っていない。夢の中を歩いている目だ。


 「……」


 口を開く。けれど、出てくるのは息だけ。

 白い息がこたつの内側で揺れ、消える。


 コハルは膝をつき、子の肩にそっと触れた。ひやりとした。冬の外気の冷たさではなく、もっと芯から薄い冷え。まるで、どこにも属していない冷たさ。


 「大丈夫。ここ、あったかいよ」


 そう言いながら、自分の声が震えているのに気づいた。

 大丈夫と言う時、人は本当は大丈夫じゃない。


 コタが、こたつの縁にちょこんと座り、舌打ちをした。


 「やっぱり来たか。迷い子だ」


 「迷い子……?」


 「初夢の道が開きっぱなしなんだよ。境目がゆるい家には、夢からこぼれたのが落ちてくる。――お前んとこ、今年は静かすぎる」


 その言い方が、妙に胸に刺さった。

 静かすぎる。そうかもしれない。人の声が少ない家は、夢と現実の縫い目がほどけやすいのだろうか。


 コハルが何か言い返す前に、居間の障子が、ふっと影を落とした。

 外は雪明かりで明るいはずなのに、その影だけが濃い。影は人の形に見えて、けれど輪郭がはっきりしない。墨を水に落としたみたいに揺れる。


 そして、声だけが響いた。


 「初夢が明ける前に、帰り口へ導け」


 低く澄んだ声。冷たいのに、怒ってはいない。

 怒りではなく、決まり事の音だ。


 「間に合わぬなら、この子は夢に留まる。現実の縁を失う」


 コハルは喉の奥が固くなった。

 “縁を失う”。それはつまり、帰れないということだ。戻っても誰にも気づかれず、名前も呼ばれず、居場所も結べないまま――夢の国の端で薄くなる。


 「だれ……?」


 コハルが声を絞り出すと、コタが短く答えた。


 「ユメノツカサ。夢の門番だ。悪い奴じゃない。ただ、時間に厳しい」


 影はそのまま障子の向こうへ溶けていった。

 居間に残ったのは、雪の反射の白さと、子どもの浅い呼吸だけ。


 コハルは、手が震えそうになるのを必死で押さえた。

 怖い。けれど、この子を怖がらせたくない。

 コハルは笑う練習をするみたいに、口角を少し上げた。


 「ねえ、寒いよね。まず、あったかいの作るね」


 子は反応しない。けれど、目の端が少しだけ動いた。湯気という言葉に、夢の中のどこかが反応したみたいに。


 「お前は朝ごはんを作れ」


 コタが言った。


 「俺が案内人だ。――お前は温度を作れ。匂いを作れ。音を作れ。現実の席を作れ」


 「席……?」


 「帰る場所ってのは、空間じゃない。手触りだ。匂いだ。いつもの音だ。……それがないと、戻ってもまた迷う」


 コハルは頷いた。

 分かる気がした。自分だって、父がいない元旦の朝に“いつもの音”を探してしまう。探して、見つからずに冷える。その冷えが、きっとこの子の冷えと同じ種類だ。


 コハルは台所へ走った。

 鍋の火を強め、出汁を温め直す。味噌を溶くと、香りがふわりと立った。味噌の匂いは不思議だ。濃いのに、角がない。どこか人の声みたいに丸い。

 餅を網にのせる。焼ける音が、ぱち、ぱち、と小さく弾ける。焦げ目がつく匂いが、冬の空気に強い輪郭を与える。


 湯気が立つと、居間の空気が変わる。

 こたつの中で凍えていた子の肩が、ほんの少し落ちた。匂いは言葉より先に届く。匂いは「ここは怖くない」と教える。


 コハルは小さな椀に甘酒を注ぎ、少し冷まして子の口元へ運んだ。

 子の唇は乾いている。無理に飲ませない。まず、匂いを嗅がせる。米の甘さがふわりと広がると、子の喉が小さく動いた。


 「熱いよ。ちょっとだけね」


 コハルがそう言って、ほんの一口。

 子はそれを飲み込み、目を瞬いた。涙ではない。喉が温まって生き返った瞬き。


 「……」


 口がまた開く。

 今度は、息だけではなかった。音の欠片が、かすれた声になって漏れた。


 「あ……」


 それだけでも、コハルは胸が痛くなるほど嬉しかった。

 声が出る。現実が、少し戻ってきた。


 コタはこたつの上で丸くなりながら、低い声で言った。


 「いいぞ。匂いと温度は合ってる。次は音だ」


 コハルはわざと、茶碗を重ねる音を立てた。

 椀の底が膳に触れる音。箸が器の縁に当たる音。

 そういう小さな音が、日常の骨組みになる。


 「はい。お雑煮」


 コハルは子の前に、小さめの椀を置いた。

 湯気がふわりと立ちのぼり、柚子の香りが淡く混じる。焼けた餅がぷくりと膨らみ、味噌の色の中で白く浮いている。


 子は椀を両手で包むように持った。

 指先の色が、ほんの少しだけ戻る。湯気を吸い込むと、まつげが揺れた。


 「……すず」


 子がぽつりと言った。


 コハルは耳を澄ませた。


 「鈴……?」


 子は頷きかけて、途中で止まった。

 夢の中で何かを探している顔。何かの音を思い出しかけている顔。


 コタが、ちりん、と小さく鳴った。

 それは本当に鈴の音に似ていた。こたつ布団の奥で、冬の精霊が鳴らす合図。


 子の目がわずかに開いた。


 「……げん……かん……」


 玄関。

 コハルはそこから先の記憶を掴みたかったが、急がなかった。掴もうとすると、ほどける。夢の糸は細いのだ。


 「玄関の音、思い出す?」


 子は首を振った。

 でも、椀を握る手はさっきよりしっかりしている。


 コハルは自分の胸に手を当てた。

 この子を帰したい。そう思うのは、当然だ。帰らせるべきだ。

 でも、それだけじゃない。自分は、誰かの「おはよう」を受け取りたい。誰かに「おはよう」を渡したい。静かすぎる元旦に、温度を足したい。


 コハルは、笑う練習をやめて、本当に微笑んだ。

 それは上手な笑顔じゃない。宿の娘の、台所の笑顔だ。湯気の前に立つ人の笑顔。


 「おはよう」


 そう言った瞬間、居間の空気がふっと明るくなった。

 障子の紙が白く光る。湯気の中に、細い線が一瞬だけ浮かぶ。まるで道しるべの糸。

 コハルは息をのんだ。


 コタが目を細める。


 「見えたな。夢の道だ」


 居間の中央、こたつの上に立つ湯気が、虹色にきらめいた。ほんの一瞬。

 色はしっかり見えない。けれど確かに、白い湯気の中に七つの気配が混ざっている。夢と現実の境目がゆるみ、帰り口の方角が示される。


 コタが、いつもより少し大きく鳴った。ちりん、という音が二度。

 するとこたつ布団の模様が、淡く光った。冬の紋様が浮かび上がり、布の上に“道”が描かれる。布は布なのに、踏めそうな気配になる。ふかふかした道。雪でも床でもない、夢の手触り。


 「行くぞ」


 コタの声が、いつもより低い。

 それは“案内人”の声だった。


 コハルは子どもの手を取った。

 手はまだ冷たいが、さっきより生きている。握り返す力が、弱いけれど確かにある。


 「大丈夫。いっしょに行こう」


 子は椀を置き、こたつの縁に手をついた。

 こたつの上の湯気の道へ、こわごわ足を出す。


 踏み出した瞬間、世界が少しだけ反転した。

 居間の景色は残っているのに、距離の感覚が変わる。障子が遠く、台所が遠く、雪明かりが薄くなる代わりに、布団の匂いと湯気の匂いが濃くなる。音は柔らかくなり、外の世界の輪郭が夢寄りに滲む。


 湯気の道の先に、門があった。

 木でも石でもない、影の門。紙のように薄いのに、触れれば冷たそうな門。


 そこに、ユメノツカサが立っていた。

 姿ははっきりしない。けれど目だけが、月の光みたいに澄んでいる。


 「案内人」


 ユメノツカサがコタへ言った。


 「そして、現実の者。――この子を帰すなら、現実の“席”を用意せよ」


 コハルは迷わず頷いた。

 迷っている時間が、すでに怖かった。初夢は短い。元旦の朝の光が高くなるほど、道は閉じる。


 「席ならあります」


 自分の声が、湯気の中で驚くほどよく響く。


 「こたつの角。あの椀の前。みかんの籠の横。

 帰ってきたら、また“おはよう”って言う場所です」


 ユメノツカサの目が、わずかに細まった。


 「言葉だけでは席は結べぬ。――迷い子が、その言葉を受け取れるか」


 コハルは子どもの方を見た。

 子は唇を震わせている。言葉はまだ遠い。遠いけれど、湯気の匂いを覚えている顔だ。


 コタが子の肩にぽん、と小さく触れた。ふわふわの温度が乗る。


 「言え。――短くていい。現実の朝の言葉だ」


 子どもは息を吸った。

 湯気を吸い込むみたいに。

 そして、苦労して引き上げるみたいに、声を出した。


 「……お……は……」


 途中で止まりそうになって、目を閉じる。

 コハルが、ゆっくり頷いた。急がせない頷き。


 子はもう一度、息を吸った。


 「……おはよう」


 その瞬間、門の影がほどけた。

 湯気が一度だけ虹色に輝き、道がまっすぐに伸びる。

 夢の道が、現実の方向へ繋がったのが分かった。匂いが、戻る匂いになった。台所の味噌の匂い、焼き餅の焦げ、甘酒の甘さ、木の床の乾いた香り。


 ユメノツカサが静かに言う。


 「帰り口は開いた。――急げ。初夢は儚い」


 コハルは子の手を引いて、門をくぐった。

 くぐる瞬間、ふわりと身体が軽くなる。寝返りを打ったときの軽さ。目が覚める直前の軽さ。


 次に感じたのは、こたつ布団の重みだった。

 現実の重み。現実の温度。


 コハルは居間に戻っていた。

 こたつの上の湯気は、ただの白い湯気に戻っている。台所の火はぱちぱち鳴り、雪明かりは障子に淡く映っている。


 子どもは、こたつの前に立っていた。

 輪郭がさっきよりはっきりしている。頬に血の色が戻り、目が現実の光を映す目になっている。


 子は自分の胸に手を当て、しばらく何かを探すように瞬きをした。

 そして、ぽつりと言った。


 「……ユメ」


 名前だ。

 自分の名前を思い出したのだろう。思い出したというより、戻ってきた。席ができたから、名前も座れる場所を見つけた。


 コハルの胸が、じん、と温かくなった。

 湯気とは違う、奥の温度。


 「ユメちゃん」


 コハルが呼ぶと、ユメは小さく頷いた。

 目の端に涙が溜まる。でも、泣かない。泣くより先に、呼ばれたことを噛みしめている。


 コタがこたつの中へ潜り込みながら、ぼそりと言った。


 「帰りの合図、聞こえるぞ」


 耳を澄ますと、遠くで微かな音がした。

 どこかの家の玄関が開く音。木の戸がきしむ音。鈴が鳴る音。

 それはきっと、ユメが帰るべき家の音なのだ。


 ユメはその音に引っ張られるように、障子の方を見た。

 コハルは慌てて止めなかった。ただ、膝をついて、目線を合わせた。


 「行ける?」


 ユメは頷く。

 そして、小さな声で言った。


 「……ありがとう」


 その言葉が落ちた瞬間、ユメの輪郭がふっと薄くなった。

 湯気に溶けるみたいに、白い息の中へ消えていく。

 怖い消え方ではない。帰るための消え方。元いた場所へ戻る、ほどけ方。


 居間には、食べかけの雑煮が一杯だけ残った。

 椀の縁に、湯気がまだ座っている。


 コハルはしばらく、そこに座ったまま動けなかった。

 胸の中が空っぽになったわけじゃない。むしろ逆で、言葉にできないものが満ちている。

 誰かが来て、帰っていった。その往復の中で、自分の元旦の静けさが、少しだけほどけた。


 コタがこたつの中から顔を出した。

 毛玉に戻った顔で、眠そうに目を細める。


 「……今年も、よろしく」


 それは精霊の挨拶で、同時に、この宿の挨拶でもあった。

 冬を越えるための、小さな約束。


 コハルは笑って返した。

 今度は、練習の笑顔じゃない。


 「こちらこそ。……おはよう、今年」


 台所の火がぱち、と明るく鳴った。

 湯気がゆっくり立ち上り、味噌と焼き餅の匂いが居間へ満ちる。

 その匂いは、帰る場所の匂いだった。誰かのためだけじゃなく、コハル自身のための匂いでもある。


 障子の外で、雪がきし、と小さく鳴った。

 遠い町がようやく目を覚ます音。

 元旦の朝はまだ静かだけれど、その静けさはもう、冷たいだけではなかった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


初夢って、縁起物を当てるための“占い”みたいに扱われがちですが、私はどこか「心の縫い目を整える時間」だと思っています。

一年のはじまりは、まだ世界が柔らかくて、夢と現実の境目が少しだけ薄い。だからこそ、誰かの不安や寂しさが迷子になりやすいし、逆に――小さな温度と言葉で、ちゃんと帰り道を作れる。


あなたの新しい一年が、あたたかい朝から始まりますように。

今年も、よろしく。

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